らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2017年04月

GWに入りました。ならばこの噺

3bceed88『青菜』
 え〜ゴールデンウイークに入りましたので、やっぱり「青菜」をやらないと駄目な気がします。

【原話】
1778年の「当世話」からです。元は上方落語。それを三代目 小さん師が東京に輸入しました。

【ストーリー】
さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みで主人から「酒は好きか」と聞かれます。
もとより酒なら浴びるほうの口。そこでごちそうになったのが、上方の柳陰という「銘酒」だが、これは、実は「なおし」という焼酎を味醂で割った酒。
植木屋さん、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。
「時におまえさん、菜をおあがりかい」「へい、大好物で」。
ところが、次の間から奥さまが「旦那さま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」と妙な返事。
旦那は「義経にしておきな」と返します。
これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけで、客に失礼がないための、隠し言葉だというのです。
 植木屋さん、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」。
 そこに通り掛かったのが悪友の大工の熊。
「こいつぁ、いい」とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押入れに押し込み、熊を相手に「たいそうご精がでるねえ」から始まって、ご隠居との会話をそっくりやろうとするが……。
「青い物を通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」「あのゴミためを通してくる風が……」「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳陰だ、まあおあがり」「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」「植木屋は、てめえだ」
「菜はお好きかな」「大嫌えだよ」。タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。
 ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて、
「しょうがねえ。食うよ」「おーい、奥や」
待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」と。
植木屋さんは困って、「うーん、弁慶にしておけ」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。特に柳家の噺家さんが多いですね。歴代では八代目春風亭柳橋師が抜群でした。師はこの噺の冒頭に必ず「目に青葉山ほととぎす初鰹」と山口素堂の句を詠んでから噺に入りました。それからもこの噺が初夏の噺だと判りますね。
 現役では何と言っても小三治師ですね。
個人的にはこの二人が特にお勧めですね。柳橋先生はきちんと演じてくれていること。これが素晴らしいですね。小三治師は若造だった私に生の高座の凄さ、再現力の高さを思い知らされた噺でもあります。

【注目点】
オチの「弁慶」は「考えオチ」で、「立ち往生」と言う意味です。
今では「義経記」の、弁慶立ち往生の故事が判りづらくなってしまったり、「立ち往生」と言う言葉が判らないと、説明なしには通じなくなっているかも知れませんね。

『能書』
 「柳陰」は、元々は「味醂」を造る時に焼酎を多めにしたお酒だったようですが、
簡易的には「焼酎」と「味醂」を2:1の割合で割ったたものです。
言うなれば「お江戸カクテル」と言う感じでしょうか。よく冷やしてのむ酒だったそうです。
 「柳陰」として白扇酒造さんと言うところから販売もされています。

家庭でも簡単に造れますが、酒税法の「みなし製造」の条文に引っかかるので、違法になるのだそうです。
無粋な法律ですね。
でも、自分でこっそり作って飲む分には誰にも判らないのではないでしょうか?
これって、確か自家製の梅酒を商売でお客に飲ますと違反になるんですよね。それも変ですよね。

『ネタ』
この噺の思い出としては、先程も書きましたが、上野鈴本の八月の「夏祭り」で小三治師が仲入りで登場して「青菜」を演じました。
これが凄かったです。どこかにも書いていたと思いますが、鈴本の客席が旦那の家の庭に変わってしまったのです。わたし達お客は植木の合間から覗いている感じでした。
いはやや、あの時の小三治師は凄かったです!

らくだは役に立たないものの代名詞?

ph_01『らくだ』
今日は「らくだ」です

【原話】
もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。

【ストーリー】
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の漬物屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

【演者】
三笑亭可楽師や古今亭志ん生師、三遊亭圓生師が有名ですね。

【注目点】
上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんは名前は久六だそうです。(教えて戴きました)
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

『能書』
噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

『ネタ』
上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

CM落語の原点? 「百川」

IMG_3722_thumb『百川』
 今日は、CM落語の原点ともいう噺の「百川」(ももかわ)です。

・【原話】
実在の江戸懐石料理の名店・百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。
似たような成り立ちの噺に「王子の狐」があります。こちらも料理屋「扇屋」の宣伝とも云われています。

・【ストーリー】
 田舎者の百兵衛さんが、料亭、百川に奉公に上がったのですが、初日のお目見えから、羽織りを来たまま客の注文を聞くことになりました。
 向かった先は魚河岸の若い衆の所です。最初に
「儂、シジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)だ」と言いましたが、田舎訛りなので河岸の若い衆は「四神剣の掛合人」と勘違いします。

昨年のお祭りで遊ぶ銭が足りなくなり「四神剣」を質に入れたことについて、隣町から掛合いに来たのだと。
その後、言葉の行き違いで、百兵衛がクワイの金団を丸呑みする事になり、何とかこれをこなします。
再び呼ばれ、本当の事が判り、常磐津の歌女文字師匠に「若い衆が今朝から四、五人来てる山王祭」と伝えるように言われたが、名前を忘れたら「か」が付く有名な人だと云われます。

長谷川町まで行って「か」の有名な人だと訪ねると、鴨池医師だと教えられ「けさがけで四、五人きられた」と伝えたので、先生は慌てて往診の準備に取替かかります。
とりあえず、伝言を貰って帰ってきて伝えるのですが、若い衆は何だか判りません。
 その内に、鴨池医師が来て様子が判ると「お前なんか、すっかり抜けている抜け作だ」と怒鳴られます。
しかし、百兵衛さん「抜けてるって、どの位で」「どの位もこの位もねえ、端から終いまでだ!」
そんなことはねえ、カモジ、カメモジ・・・ハア抜けてるのは一字だけだ!」

・【演者】
この噺は圓生師が存命の頃は圓生師にトドメを指すと云われていた噺です。
当時でも、志ん生師や馬生師が演じ、録音も残っています。
現在では志ん朝、小三治師を始め多くの噺家さんが演じています。
正直、圓生師を凌ぐ噺家さんは居ないと言うのが私の感想です。

・【注目点】
 文字で書いてるとピンと来ませんが、実際に音で聴くと、その可笑しさが感じられる噺です。
また、江戸の祭りの風習が噺の中に出て来るので、その意味でも楽しいです。

・『能書』
料亭「百川」は日本橋浮世小路にあった店で、江戸でも有数の料理屋で、向島にあった「八百善」と並んで幕末のペリーの来航の際には、料理の饗応役を御仰せつかり千人分の料理を出したそうです。その時の値段が一人前3両だったとも言われています。
献立は今でも残っていて、私も見た事がありますが、今の人の口に合うかどうか……。
一つだけ、良いなと思ったのは、「柿の味醂漬け」と言うもので、果物の柿を皮を剥いて、本味醂を掛けたものです。
これは中々乙な味がしました。かの池波正太郎先生もお気に入りだったそうです。

・『ネタ』
よく、江戸の三大祭と云いますが、実際は「江戸の二大祭り」です。と言うのも、江戸の祭りで、神田明神の「神田祭」と、赤坂日枝神社の「山王祭」が江戸の二大祭りなのです。
 それは何故かと言うと、この二つの祭りだけが、将軍家から祭りの支度金として百両を賜ったからです。
 その為、この二つの祭りの山車や神輿は江戸城内に入る事が許されました。その山車や神輿を将軍が上覧をしました。
ある記録によると、未明に山下御門に山車や神輿が集まり、江戸城内に入場して練り歩き、将軍が上覧して、最後の山車が常盤橋御門から出て行ったのが日が暮れた頃だったと言います。
それぐらい盛大に行われたので、この二つの祭りは交互に隔年で行われる事になりました。

 神田祭は、江戸幕府開府以前に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じ、神社では毎日祈祷を行っていたそうです。、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たしたのでそのため特に崇敬するところとなり、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったと言います。

山王祭は、江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚かったので将軍も上覧をしたと言うことです。

愛宕山に登ってみたら……

EclEdo3j『愛宕山』
え〜早いものでこの前マッカーサーが上陸したと思ったらもう春です!
なので私の好きな「愛宕山」です。
この噺は上方落語がルーツです。東京では文楽師の十八番でした。
3代目圓馬師が東京風に脚色したのを圓馬師から文楽師に伝わったものです。
文楽師は、晩年は医師から止められていたにもかかわらず、高座に掛けて、その後楽屋で暫く横になっていたそうです。それだけ、最後の処で力が入ったのですね。
最近では志ん朝師がやり、その後かなりの噺家さんがやります。
志ん朝師のも良かったですね、文楽師が省略した下りも入れて、一八と旦那の絡みも見事でした。

【原話】
上方に古くからあった噺を三代目圓馬師が東京に持って来ました。だから、事実上の圓馬師の弟子でもあった文楽師はこの噺を受け継いだのです。
【ストーリー】
あらすじは上方と東京では若干違いますので、東京でやります

京都見物に来た旦那、あらかた見てしまったので、明日は愛宕山に行こうと思いつきます。
連れの幇間の一八に言うのですが、「朝飯前」と言う返事。
翌日、一同連れ立って愛宕山へとやって来ます。

調子のいいことを言う一八を見て、旦那は繁造を一八にぴったり着かせる。「どんなことがあっても上までひっぱりあげろ。連れてこないと暇を出すよ」と脅して、いざ出発。
大きい口を叩いていた一八は、最終的には繁造に押してもらって、やっとのことで途中の休憩所まで辿りつきます。

茶屋で休んでいるときに一八が土器投げ(かわらけなげ)の的を見つけます。
向こうに輪がぶらさがっていて、そこにお皿を投げて上手く輪をくぐらせるという遊び。
旦那がやってみせると、負けん気の強い一八、また「朝飯前」だと嘯く。が、もちろんやってみるとうまくいかない。

そこで旦那が趣向を凝らし、取り出したのが小判三十枚。
煎餅を放る人がいるんだから、それより重量のある小判ならうまく放れて面白いだろうと。
そんなもったいないことを、と止める一八を無視して旦那は投げ続けます。
小判が惜しい一八は自分を的にしろと叫ぶが、旦那は三十枚全てを投げきってしまう。

さて、投げてしまった小判はどうするか。旦那は「あんなものは惜しくない。取りたきゃ取れ」と言う。
そう言われては取りに行くしかないが、そこは崖っぷち、狼もうろうろしているというし、そう簡単に降りてはいけません。
そこで、傘を落下傘代わりにして飛び降りるというもの。皆が見つめる中、なかなか飛び降りられない一八を見て、旦那が繁造に「後ろから突け」と命じ、一八は無理矢理下へ落とされるます。

さて、崖を降りた一八、目の色を変えて小判を集めはじめます。全ての小判を拾い終えた一八に
 旦那「皆貴様にやるぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「どうやって上がる」
困った一八に、旦那は「先に行くぞ」と薄情な言葉を残します。

さて弱った一八、突然服を脱ぎ、脱いだ服を裂き始める。どうしたどうしたと旦那達が見守る中、裂いた布で縄をよって、竹をしならせ、その反動でどうにかこうにか崖上へ無事上ることができました。

上にたどりついた一八に、
 旦那「偉いやつだね、貴様は生涯屓にするぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「金はどうした」
 一八「あ、忘れてきました」

【演者】
やはり八代目文楽師が抜きん出ていますね。志ん朝師も良かったですね。白黒ですが映像が残っています。

【注目点】
東京では下男の繁造が登場しますが、上方ではふたりとも大阪を食い詰めて京都にやって来た幇間と言う設定です。
そこで、この二人によって、京都の悪口が始まります。大阪と京都の対抗意識が底辺に流れています。
この辺は東京人にはその対抗意識と言うのが正直良く分かりません。(^^)

『能書』
上方版では小判は20両で、それも一気に投げて仕舞います。勿体無いと思うのは私だけでしょうか?
それと、一八が登る時に口ずさむ歌が違います。
東京は、『コチャエ節』で、上方は、『梅にも春』です。

『ネタ』
この噺の嘘は、京都の「愛宕山」ではかわらけ投げは行われていないと言う事です。
同じ山系に属する高雄山の神護寺で行われているそうです。
江戸でも王子の飛鳥山、谷中の道灌山で盛んに行われました。
志ん朝師はこの噺を演じる前に、香川県高松市の屋島で実際にかわらけ投げをおこなっています。
愛宕山にも一門で登っています。

黄金餅はなかった!

f0cd4883『黄金餅』
 やっと桜が咲き始めましたね。都心は満開などと言っていますが上野や墨田は五分咲きですね。人は多かったですが……。そこで今日は時期的に少し早いですが「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中付けを入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。道中付けは聴いていても楽しくなりますし、談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも志ん生師を越える高座は出ていないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。
谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたりで、明治になって「万年町」と名前が変わったそうですが、凄まじい貧乏な町だったそうです。
一方の麻布も江戸の外れで当時の人は行きたがない所だったとか、
絶口釜無村とは架空の地名ですがこれも貧乏を強調していますね。
これでもかと貧乏を強調することで、逆に貧乏を笑い飛ばしてしまうと言う趣向ですね。
さすが志ん生師の噺だと感じます。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。
でも圓朝全集ではちゃんとしたお経が書かれています。志ん生師はそれでは面白くないと考えて改変したのでしょうね。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺にも出て来ますね。
 
最新コメント
記事検索
月別アーカイブ