らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2016年06月

四万六千日「船徳」

img013-1仕事の関係で暫く休んでいて申し訳ありません。ボチボチ再会しようと思います。
そこで、最初の噺が「船徳」です。四万六千日も近いですしね!

八代目文楽師で余りにも有名な夏の噺ですね。もう演じる噺全てが十八番と言っていた師ですが、特にこの噺は有名です。

【原話】
元は、「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松の「曽根崎心中」の登場人物の名を借りた長編の人情噺だったのですが、明治期に初代(鼻の)圓遊師が発端を改作して、滑稽噺としました。

【ストーリー】
女遊びに夢中になり親族会議で勘当され、女の元にしけこんだ若旦那の徳さん。
金が無くなり、追い出されてフラフラ歩いている所を船宿の親方が引き取りました。
しばらく居候を決め込んでいたですが、船頭にしてくれと親方に頼みます。
もちろん親方は断るのですが、それなら他所でと脅かす始末で、結局修行を始めます。

教える方も教わる方もいい加減で、根っからの優男なので、腕が上がりません。
四万六千日で、他の船頭が出払った日、馴染み客が来て、無理やり頼まれ船を出しましたが、もやいを解かずに動かそうとしたり、一騒動です。
何とか出た途端に竿を流して慌てて櫓に切り替えると、同じ所をぐるぐる回り、
川辺の石垣にくつっけてしまいました。

お客の傘で押してもらったら蝙蝠傘が石垣に刺さって取れなくなります。
戻れと言う客に「戻れない!、諦めなさい、傘と命とどっちが大事か」と説得する始末。

どうにかこうにか桟橋の近くまで来た所で、客を降ろしたが、陸に上がった客が、大丈夫かと声をかけると
「すいません、誰か船頭を呼んでください」

【演者】
もう八代目文楽師を筆頭に色々な噺家さんが演じています。古今亭志ん朝師も文楽師に負けない高座を聴かせてくれます。皆さんも好きな噺家さんで聴いてみて下さい。

【注目点】
やはり船の上の徳さんと川岸に居る人との会話の描写だと思います。距離が離れているので演じ方が難しいです。

『能書』
船宿大升は柳橋で、神田川と隅田川が合流する当たりです。
目的地の大桟橋は、、榎本滋民氏によると待乳山聖天の側にある今戸橋の手前にあったそうです。
鼻の圓遊師の速記には、徳さんの実家は夫婦養子を取る事になりそれに家業を継がせるという事を人づてに聴いたという描写があるので、船頭になる理由がうなずけますね。

『ネタ』
「四万六千日」とは、浅草寺に、この日参拝すると四万六千日分参拝したことと同じ功徳があるというご縁日のことです。

本当にご利益があるかは、判りませんw

志ん生師も「お初徳兵衛」で演じています。(船徳とは違いますが)
今ではほとんどの噺家さんが一度は演じているでしょうね。
志ん朝師も若い頃から自信のある噺だったそうで、結構高座に掛けたそうです。
「お初徳兵衛」ではこの後一人前の船頭になり、いい男なので評判になります。

右朝師匠のこと

img001-2【古今亭右朝】1948年11月2日 – 2001年4月29日
今日は個人的に好きだった右朝師です。
本当に素敵な噺家さんでした。声が良くて、様子が良くて、噺がウマイ!
何拍子も整っていました。寄席でも時間が在るときはたっぷりと、無いときでもきっちりと古典を演じてくれました。「軽妙洒脱」とも言うのですかね、
談志家元に習った噺を翌日には見事に覚えていたと言う逸話が有るように、天才肌でありながら、人一倍の研究熱心さで、将来の古今亭を背負って立つことが大いに期待されていました。
仲の良かった、川柳川柳師の話によると志ん朝の襲名の話もあったそうです。
志ん朝と言うとてつもない大看板を、背負って行ける逸材と思われていたのですね。

・「出囃子」 『小鍛冶』

・「芸風」
粋な噺家の見本のような存在でした。
タレントで作家の高田文夫さんの大学時の同級生で日大の落研でも活躍したそうです。

・「芸歴」
1975年11月 – 3代目古今亭志ん朝に入門し「志ん八」を名乗る。
1980年6月 – 二つ目昇進。
1988年6月 – 真打昇進と同時に「古今亭右朝」を名乗る。(落語協会の真打としては100人目で昭和最後の真打)
2001年4月29日 – 肺癌により死去
.「エピソード」
唯一の悪い処が酒癖だったそうです。
でもこれは我々落語ファンには関係ありませんね。
ネタ帳に残されてる持ちネタが二百二席という事からも解る様に古典ならば殆どこなせたのではないでしょうか。
適当なマクラを振るとサツと噺に入り、自身の美学?にそった演出でお客を楽しませてくれました。

ある時、食いつき(仲入りの直後でザワザワしているので難しい)で師匠が上がったのですが、食いつきのざわざわした雰囲気を物ともせずに話始めると、場内は静まり返り皆噺に聴き入って仕舞いました。

・「得意演目」
「居残り佐平次」「品川心中」「文七元結」「宿屋の富」「船徳」「目黒のさんま」
「小言幸兵衛」「道灌」「文違い」「三方一両損」「星野屋」「百川」他多数!


※ 本業多忙の為、返コメが遅れますがご容赦下さい。m(_ _)m

三代目柳好師匠のこと

hqdefault今日は柳好師のことです。好きな噺家さんの一人ですね。

【三代目春風亭柳好】1887年4月24日 – 1956年3月14日
今日は少し古いですが(私も生の高座は見たことがありません。なんせ生まれる前なので)当時大人気を博したと言われている噺家さんです。

・「出囃子」  『梅は咲いたか』

・「芸風」
「唄い調子」と言われる口調が特徴で、唄を歌うように噺をするのです。
四代目志ん生(鶴本の志ん生)師を真似たものだそうですが、見事な芸で、お客はおろか
黒門町をはじめ、談志師等を魅了しました。あの圓生師でさえ納得させたと言われています。
立川談志師は、柳好師について、あの『現代落語論』で触れています。
『ガマの油』で人気のあった春風亭柳好が、「梅は咲いたか」、の出ばやしで、高座へ上がると、パッと高座に花が咲いたように明るくなったもので、専売特許といってよい『野ざらし』、そして『棒だら』、ああいった噺はもう聞けないと思うし、聞いた者だけが自慢できる楽しみがあった。
柳好の芸の特徴は、噺の全篇を謳いあげるような雰囲気になり、先代の鶴本の志ん生もそうだったというが、噺全体がトーンのよく効いた音楽のような感じで、抑揚のよさ、緩急自在な呼吸、いうならばおとなの楽しむ一級の娯楽品、映画でいうと、さしずめ007といったところかもしれない。

・「芸歴」
1912年2代目談洲楼燕枝に入門し燕吉
1913年、1914年ころに春風亭錦枝
1917年に6代目春風亭柳枝の門下で柳好で真打ちに昇進

・「エピソード」
発売CDの奥付より
昭和31(1956)年3月14日に、専属だったラジオ東京(現在のTBS)のスタジオで『穴泥』を収録し、その後に向かった鈴本で脳溢血で倒れ、その夜に亡くなっている。翌日の追悼番組の中で放送されたが、このCDにはその際の正岡容のメッセージも併せて収録されており貴重な音源といえるだろう。明治20(1887)年生まれ、享年70歳。落語芸術協会の所属だった。
突然の死だったそうです。

・「得意演目」
「野ざらし」、「がまの油」、「鰻の幇間」、「電車風景」、「二十四孝」、「たちきり
 
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