今日は可楽師匠のことです。
【八代目三笑亭可楽】1898年〈明治31年〉1月3日 – 1964年〈昭和39年〉8月23日
今回は、いぶし銀のような芸風が光った八代目可楽師です。ちなみに三笑亭可楽というのは噺家の名前で一番古い名前で「山椒は小粒でピリリと辛い」の洒落です。
・「出囃子」『勧進帳』
・「芸風」
一見苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらぼやくように噺を勧めます。この話しっぷりが本当に可笑しく、ボヤけばボヤくほど笑いの渦が巻き起こります。
最初は、極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかったのですが少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。それがジャズマンの人々です。可楽師の話すリズムがまるでジャズのようだった。と言われています。熱狂的とも言えるファンでした。フッランク永井さんは特に有名です。
・「芸歴」
1915年に初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」
1922年に翁家馬之助で真打昇進
1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、
1946年5月に8代目可楽を襲名
次々と師匠を変えていたので長いこと売れませんでした。
.「エピソード」
独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙戦後芸が開花しました。
そもそも噺家になろうと思ったのも、上野黒門町の経師屋の家に生まれ、家業を継ぐべく修行していたのですが、父親の家作に出入りしていた五代目古今亭志ん生の呑気な生活ぶりに憧れを抱き、噺家になったというのが真相だそうです。
曰く「噺家は夕方から仕事すれば良いので楽そうだ」と思ったとか。
・「得意演目」
『らくだ』『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』
『芝浜』『子別れ』も演じました。
【八代目三笑亭可楽】1898年〈明治31年〉1月3日 – 1964年〈昭和39年〉8月23日
今回は、いぶし銀のような芸風が光った八代目可楽師です。ちなみに三笑亭可楽というのは噺家の名前で一番古い名前で「山椒は小粒でピリリと辛い」の洒落です。
・「出囃子」『勧進帳』
・「芸風」
一見苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらぼやくように噺を勧めます。この話しっぷりが本当に可笑しく、ボヤけばボヤくほど笑いの渦が巻き起こります。
最初は、極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかったのですが少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。それがジャズマンの人々です。可楽師の話すリズムがまるでジャズのようだった。と言われています。熱狂的とも言えるファンでした。フッランク永井さんは特に有名です。
・「芸歴」
1915年に初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」
1922年に翁家馬之助で真打昇進
1940年4月に6代目春風亭小柳枝となり、
1946年5月に8代目可楽を襲名
次々と師匠を変えていたので長いこと売れませんでした。
.「エピソード」
独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙戦後芸が開花しました。
そもそも噺家になろうと思ったのも、上野黒門町の経師屋の家に生まれ、家業を継ぐべく修行していたのですが、父親の家作に出入りしていた五代目古今亭志ん生の呑気な生活ぶりに憧れを抱き、噺家になったというのが真相だそうです。
曰く「噺家は夕方から仕事すれば良いので楽そうだ」と思ったとか。
・「得意演目」
『らくだ』『今戸焼』が絶品。『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』
『芝浜』『子別れ』も演じました。