らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2016年04月

百川という噺

kandamaturi 今日は、CM落語の原点ともいう噺の「百川」(ももかわ)です。

・【原話】
実在の江戸懐石料理の名店・百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。
似たような成り立ちの噺に「王子の狐」があります。こちらも料理屋「扇屋」の宣伝とも云われています。

・【ストーリー】
 田舎者の百兵衛さんが、料亭、百川に奉公に上がったのですが、初日のお目見えから、羽織りを来たまま客の注文を聞くことになりました。
 向かった先は魚河岸の若い衆の所です。最初に
「儂、シジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)だ」と言いましたが、田舎訛りなので河岸の若い衆は「四神剣の掛合人」と勘違いします。

昨年のお祭りで遊ぶ銭が足りなくなり「四神剣」を質に入れたことについて、隣町から掛合いに来たのだと。
その後、言葉の行き違いで、百兵衛がクワイの金団を丸呑みする事になり、何とかこれをこなします。
再び呼ばれ、本当の事が判り、常磐津の歌女文字師匠に「若い衆が今朝から四、五人来てる山王祭」と伝えるように言われたが、名前を忘れたら「か」が付く有名な人だと云われます。

長谷川町まで行って「か」の有名な人だと訪ねると、鴨池医師だと教えられ「けさがけで四、五人きられた」と伝えたので、先生は慌てて往診の準備に取替かかります。
とりあえず、伝言を貰って帰ってきて伝えるのですが、若い衆は何だか判りません。
 その内に、鴨池医師が来て様子が判ると「お前なんか、すっかり抜けている抜け作だ」と怒鳴られます。
しかし、百兵衛さん「抜けてるって、どの位で」「どの位もこの位もねえ、端から終いまでだ!」
そんなことはねえ、カモジ、カメモジ・・・ハア抜けてるのは一字だけだ!」

・【演者】
この噺は圓生師が存命の頃は圓生師にトドメを指すと云われていた噺です。
当時でも、志ん生師や馬生師が演じ、録音も残っています。
現在では志ん朝、小三治師を始め多くの噺家さんが演じています。
正直、圓生師を凌ぐ噺家さんは居ないと言うのが私の感想です。

・【注目点】
 文字で書いてるとピンと来ませんが、実際に音で聴くと、その可笑しさが感じられる噺です。
また、江戸の祭りの風習が噺の中に出て来るので、その意味でも楽しいです。

・『能書』
料亭「百川」は日本橋浮世小路にあった店で、江戸でも有数の料理屋で、向島にあった「八百善」と並んで幕末のペリーの来航の際には、料理の饗応役を御仰せつかり千人分の料理を出したそうです。その時の値段が一人前3両だったとも言われています。
献立は今でも残っていて、私も見た事がありますが、今の人の口に合うかどうか……。
一つだけ、良いなと思ったのは、「柿の味醂漬け」と言うもので、果物の柿を皮を剥いて、本味醂を掛けたものです。
これは中々乙な味がしました。かの池波正太郎先生もお気に入りだったそうです。

・『ネタ』
よく、江戸の三大祭と云いますが、実際は「江戸の二大祭り」です。と言うのも、江戸の祭りで、神田明神の「神田祭」と、赤坂日枝神社の「山王祭」が江戸の二大祭りなのです。
 それは何故かと言うと、この二つの祭りだけが、将軍家から祭りの支度金として百両を賜ったからです。
 その為、この二つの祭りの山車や神輿は江戸城内に入る事が許されました。その山車や神輿を将軍が上覧をしました。
ある記録によると、未明に山下御門に山車や神輿が集まり、江戸城内に入場して練り歩き、将軍が上覧して、最後の山車が常盤橋御門から出て行ったのが日が暮れた頃だったと言います。
それぐらい盛大に行われたので、この二つの祭りは交互に隔年で行われる事になりました。

 神田祭は、江戸幕府開府以前に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じ、神社では毎日祈祷を行っていたそうです。、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たしたのでそのため特に崇敬するところとなり、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったと言います。

山王祭は、江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚かったので将軍も上覧をしたと言うことです。

ちょっと早いけど夏だ! 大山詣りだ!

oymmairi2季節的は早いのですが、今日は「大山詣り」です。

 六月といいますと、落語国では大山詣りの季節ですねえ。尤も落語国では旧暦ですが……。
その昔、江戸っ子が寺社にお参りするのは、信仰もありましたが、結局は娯楽だったんですね。
何の娯楽かって? 文字とおり色っぽい娯楽から観光まで含めてですがね!
江戸時代も下ると、こうした団体旅行は完全に観光化されてまして、ちゃんと組織化されてます。
今の観光会社みたいなもんですね。先達さんの手配もしてくれるんです。もちろん宿の手配もですね。今と余り変わらない、違うのは歩いて行く事ですね。これはしょうがないですね。

【原話】
1805年の十返舎一九の「滑稽しつこなし」からという説や狂言からとの説もあります。
【ストーリー】
長屋でも大山詣りに行くことになったのですが、熊さんは残って後の長屋を守る役になってくれなんて言われてしまう。文句を言うと、本当はしょっちゅう喧嘩をするから残らせようとの魂胆。今回は喧嘩をしたものは二分の罰金を払ったあげく、坊主にしちゃおうということになりまして。熊さん、俺は大丈夫だと見栄を切ります。

無事お詣りが済んで、明日には江戸に戻るという晩、気が緩んだのかやっぱり喧嘩しちゃった。それで熊さんは決まり通り坊主にされてしまう。翌朝熊さんが起きてみると既に皆は経った後。宿の人にくすくす笑われて本当に坊主にされたことに気付きます。

やられた熊さん、一計を案じ、一足先に江戸に戻ります。長屋のおかみさん連中を集めて、途中金沢八景見物に舟に乗ったときに舟が転覆して、皆亡くなってしまったと嘘をつく。供養のために坊主にしたというから皆信じちゃって、おかみさん達も供養に尼になります。
そこで男衆が帰ってきて、さあ大変。
一方、亭主連中。帰ってみるとなにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。おまけに念仏まで聞こえる。これが、熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。
連中が息巻くのを、先達さんの吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

【演者】
色々な噺家さんが演じていますが、現役では柳家小三治師でしょうねえ。歴代だと八代目三笑亭可楽師や勿論古今亭志ん生師も良いですね。色々な噺家さんが演じていますので聴いてみてください。

【注目点】
大山は、神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山で、中腹に名僧良弁が造ったといわれる雨降山大山寺がありました。
山頂には、石尊大権現があります。つまり、修験道の聖地なんですね。
その昔、薬事法が緩かった頃はここでオデキに効く薬が売っていましたが、今は禁止され無くなりました。個人的にですが、子供の頃は随分お世話になりました。ほんと良く効きました!

『能書』
上方には「百人坊主」と言う伊勢神宮にお詣りに行く噺がありますが、これが江戸に流れて来たと言う節と、滝亭鯉丈の作品で文政四年(西暦1821年頃)に出版された「大山道中栗毛俊足」に似たパターンの噺があり、この頃は既に演じられていたみたいです。これが東西で別々に発展したものではないかと言う説もあります。(要はちゃんと判っていないのでしょうね)

サゲに関してですが、当時は髷を何より大事にしていて、文字通り命の次に大事なものだった様です。
今でも女性は髪を大事にしますが、昔はその比じゃ無かったそうです。
これが無くなると言うのは本当にショックで辛いことだったのでしょう。
髷がなければ実社会から脱落することを意味していたとか。アウトサイドに落ちて行くと言う事なんでしょうね。
又、失敗や軽い犯罪をしても頭を丸めれば、許されたそうです。

十代目文治師匠のこと

hqdefault今日は十代目 桂文治師です。小柄ながらパワフルな高座を見せてくれました。

「十代目 桂 文治」(1924年1月14日 〜 2004年1月31日)
噺家の初代柳家蝠丸の家に生まれる

・1946年6月、2代目桂小文治に師事し、柳家小よしを名乗るが師の亭号の桂小よしに改名。
・1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。
・1958年9月、真打昇進。
・1979年3月、十代目桂文治を襲名

この文治と言う名は桂派の家元の名前で桂を名乗る噺家さんでは一番重い名前です。
ちなみに、三遊亭では圓生、柳家では小さん、金原亭では馬生、古今亭では志ん生、そして春風亭では柳枝が家元の名前となっています。
襲名に際しては八代目正蔵師の強い薦めがあったそうです。

「芸風」
伸治時代は兎に角パワフルな芸風で「あわてもの」というそそっかしい人の噺では圧倒的な高座を見せてくれました。落語を演じているのではなく、本当にこの人の話をそのまま語っているのではないか? とさえ思わせてくれました。笑いすぎて、お腹の筋肉が痛くなるという嘘のような現象を味あわせて貰いました。
文治を襲名してからはやや落ち着いた高座になりましたが、それでも切り口の良い噺を聞かせてくれました。

「こだわり」
江戸言葉には特にこだわりがあり、私が知ってるのでは「カッコイイ」は関西弁で江戸言葉では「様子が良い」。「ど真ん中」ではなく「まん真ん中」などと語っていましたね。
いつも着物姿で歩いていました。個人的に私の地元でよく拝見しました。
高座着も色紋付は殆ど着ていなかったと思います。(TVでは判りません)着物は柄でも羽織は必ず黒の紋付きでした。これは江戸の噺家は本来黒の紋付きの羽織を着て高座に上がるのが本来で、それ以外の柄物の羽織を着るのは上方から入って来た風習だからです。
そんなこだわりも見せてくれました。

「ネタ」
晩年のことですが、寄席等の通勤に使用していた西武新宿線の女子高校生の間では「ラッキーおじいさん」と呼ばれていたそうです。師匠出会うことが出来れば、その日は幸せになると言われていました。

「得意演目」
「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」「お血脈」「長短」「蛙茶番」「義眼」
「鼻ほしい」「火焔太鼓」「道具屋」「替り目」「ラブレター」「あわて者」
「猫と金魚」「二十四孝」等滑稽話多数!

三遊亭圓彌師のこと

62bd8804398d8709366689cc931c0106今日は三遊亭圓彌師のことを……。

優しい口調ながらも本寸法で、三遊亭の噺を受け継いでいました。
また鳴り物も得意で、圓生師の「圓生百席」ではお囃子として参加しています。

「三遊亭圓彌」
1936年7月20日 – 2006年4月29日

「出囃子」
最初は、『四季の寿』でしたが、師匠没後師匠の出囃子であった『正札附』を使いました。
このことから見ても自身でも三遊亭の正当な後継者自負していたと思います。

「経歴」

1958年10月、8代目春風亭柳枝に入門。「枝吉」
1959年 師匠没後 六代目圓生一門に移籍 「舌生」
1961年9月、二つ目昇進し「円弥」
1972年9月、真打昇進。「圓彌」
2006年4月29日、肝臓癌のため都内の病院で死去。享年69。

若いころにはNHKの落語番組で「幻の噺家」と自らキャッチフレーズを言っていました。
また踊りの「藤間流」の名取でもありました。噺家さんはほとんど、踊りや唄(小唄等)の稽古をしています。それは古典落語にはその要素が沢山入っているからです。また、歌舞伎とは切っても切れない関係なので、歌舞伎座等では噺家さんが良く来ています。逆に落語の会などでは歌舞伎の俳優さんも見に来るそうです。

長い間空席となっている春風亭柳枝の名前ですが、生前に圓彌師が襲名する話がありました。
でも色々なことがクリア出来ず結局襲名は出来ませんでした。
恐らく、それから三遊亭の後継者に傾いたのだと思います。

本当に古典を語る為に生まれたような噺家さんでした。口調が良いので安心して聴いていられました。
古典落語に対する造詣が深いのにも係わらず、寄席等ではそれをひらけかす事もありませんでした。でも聴いていればそれが良く判る高座でした。
姿形も綺麗で、その意味でも本当に素晴らしい噺家さんでした。

亡くなる寸前まで寄席に出ていたと思います。その点でも素晴らしかったですね。
 
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