らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2016年03月

小圓遊師匠のこと

小圓遊「三遊亭小圓遊」
今回は小圓遊師です。四代目三遊亭圓遊師の弟子で、本格派の古典を演じていました。粋な芸風でした。本格派なのに軽い感じが本当に良くて粋な噺家さんでした。
最も、有名になったのはテレビ番組の「笑点」の大喜利のメンバーになってからです。
大喜利では桂歌丸師とバトルを繰り広げました。歌丸師が小圓遊師を「バケモノ」と呼べば小圓遊師が歌丸師を「ハゲ」と罵っていました。
このやり取りが評判を呼んで「笑点」は一躍人気番組となって現在に至ります。

「出囃子」
『二上がり鞨鼓(にあがりかっこ)』
柳家小三治師と同じですね。

「経歴」

1955年(昭和30年)、都立文京高校を中退し、4代目三遊亭圓遊に入門。前座名「金遊」
1958年(昭和33年) – 二つ目昇進。
1968年に9月に 真打昇進。4代目小圓遊を襲名 笑点に既に出演していました。番組で真打披露が行われました。
1979年(昭和54年)8月 – 桂歌丸と共に落語芸術協会理事就任
1980年(昭和55年)10月5日 山形県村山市北村山公立病院で19時44分、死去。享年44(満43歳没)直接の死因は「動脈瘤破裂」

亡くなった本当の原因はお酒の飲み過ぎと言われています。一説によると「笑点」では当時「キザ」で売っていました。「キザの小圓遊」で人気者だったのです。
しかし本当の自分の芸風は本格派です。そのギャップに悩んだと言われています。
地方公演等に行くと、人気者で声が掛かりますがその殆んどが「笑点」のキャラクター関係の声だったそうです。
また、高座で本格的な古典を演じても「テレビと違う」と言う評判になりこれに随分悩んで結果としてお酒に逃げてしまったそうです。
実に惜しいですね。この亡くなった時には今も「笑点」のメンバーである林家木久扇師が最後を看取っています。この時の同じ落語会の出演者でした。

歌丸師との仲ですが実は悪くありませんでした。数々のエピソードは殆んどが「ヤラセ」でした。二人は同時期に芸協の理事になっており、同じ釜の飯を食った仲で、若手真打として一緒に協会を盛り立てていたのです。今も元気ならきっと歌丸会長の良き相談役となっていたでしょう。その意味でも本当に惜しかったです。

「得意演目」
蛇含草、替わり目、崇徳院、へっつい長屋、浮世床 ほか多数!!
小圓遊師の死はショックでした。当時テレビを見ていたらテロップが流れ「三遊亭小圓遊さんは本日亡くなりました。心よりご冥福をお祈りいたします」と出たのです。
最初は全く意味が判りませんでした。現実感が無いという感じでした。
その後の放送で師の座っていた場所が座布団だけの空席なのを見て改めて亡くなったのを感じました。

二代目 桂文朝 師のこと

php今日は文朝師です。個人的にはとても好きでした!!

物凄く有名という訳ではありませんが、春風駘蕩としたほんわりした温かさでどんな噺でも演じてしまう器用さと堅実さを併せ持っていました。

経歴
二代目桂 文朝(かつら ぶんちょう、1942年3月31日〜2005年4月18日)

1952年7月 – 2代目桂小南(当時は山遊亭金太郎)に入門。前座名は山遊亭タア坊。
1955年 – 山遊亭金時に改名。
1959年1月 – 二ツ目昇進。桂小西
1970年4月 – 真打昇進。2代目桂文朝を襲名。
1984年1月 – 桂文生、桂南喬とともに落語芸術協会を脱退し、落語協会に移籍。
2005年 – 癌のため死去。享年63。

珍しいのは協会を移籍していることです。この当時、芸協では新作派が持て囃され古典派は肩身が狭かったそうです。そこで、三人とも師匠小南師の許可を取って落語協会に移籍しました。ただ、その時の芸協の幹部は快く思わなかった様で、三人を「裏切り者」と最後まで呼んでいた師匠もいたそうです。
特に文朝師は「芸協の志ん朝」とアダ名された程の期待がありましたから尚更です。
落語協会に移籍しても若手の信望が厚く、多くの若手に噺を教えましたが、最後まで弟子は取りませんでした。

出囃子 『外記猿』 ダイナミックでスリリングな出囃子です。

個人的には特に好きな師匠なのですが、その中でも子供が出てくる噺は抜群でした。
噺の中に登場する子供(金坊、定吉など)の描写は特に素晴らしかったです。

生前、扇橋、小三治、文朝の三人で落語の会を開いていました。その高座を小三治師が高座の袖から毎回見ていて「この人は上手だな〜」と何時も感心していたそうです。

小南師に入門したのですが、当時小南師は未だ二ツ目で弟子は取れません。文朝師も当時は十歳の小学生でした。そこで小南師は自分の師匠の名人三代目金馬師に預けたのです。文朝師は毎日学校から帰ると金馬師の家に通ったそうです。夏休みは泊まっていたとか? ですから文朝師は金馬師と小南師の二人の落語のエッセンスを受け継いでいるのです。CDも多く発売されています。

お薦め演目
初天神 真田小僧 明烏 寝床 居酒屋 居残り佐平次 茶の湯 花見の仇討ち 悋気の独楽 ほか多数

十代目 金原亭馬生師の思い出

hqdefault暫くは、私の思い出に残る噺家さんを取り上げて行こうと思います。最初は、古今亭志ん生師の長男で、志ん朝師のお兄さんの十代目金原亭馬生師です。

十代目金原亭馬生
1928年〈昭和3年〉1月5日〜1982年〈昭和57年〉9月13日)

言わずと知れた五代目古今亭志ん生の長男。長女は女優池波志乃で、夫である中尾彬は義理の息子になります。

出囃子『鞍馬』 ですが、晩年の僅かな期間だけは父の出囃子『一丁入り』に変えました。これは私の考えですが、恐らく後に癌に侵されるのですが、生来の病弱で、自分が長生き出来ないと悟って父親の出囃子を使ったのだと思います。それ以来『一丁入り』は寄席や落語会では出囃子としては流れていません。

高座は繊細で父親とも弟の志ん朝師とも違います。演じている間は高座に何とも言えない優しさが溢れます。これが特徴でした。
だからキッチリとしていたか、というと意外にラフで、演目もその場で決めていたそうです。それでも通用してしまっていました。そのことは「笠碁」を演じた高座にも現れています。
「東京落語会」で演じた高座とCDで発売されている高座とではかなり違います。どちらも面白いのですが、個人的には「東京落語会」の高座が良いですね。余分な言葉を排除して、仕草、目線などでお客を笑わせています。

経歴
1943年(昭和18年)8月 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名はむかし家今松(4代目)
1944年(昭和19年)9月 古今亭志ん朝(初代)に改名
1948年(昭和23年) 古今亭志ん橋を襲名して真打昇進。
1949年(昭和24年)10月 10代目金原亭馬生を襲名。
1982年(昭和57年)8月30日 第260回東横落語会で「船徳」を口演。最後の高座となる。
9月13日 逝去。享年54。戒名「心光院清誉良観馬生居士」

喉頭がんを患ったのですが、「自分は噺家だから声が無くなるのは困る」と手術を拒否しました。その為、最後はかなり苦しんだそうです。
最後の高座「船徳」口演した時ですが、見ていた人も「かなり辛そうだった」と言っています。
この事で好対照だったのが立川談志師で、最後は手術をして声を失って筆談をしていたそうです。でも、この事は弟子にも一切知らせませんでした。声を失ってからは家族水入らずで過ごしたそうです。この時、落語家立川談志はこの世から居なくなったのだと思います。残りの人生を松岡 克由、個人に戻って過ごしたのだと思います。無くなる寸前まで噺家として生きた馬生師と家族の為に最後は個人に戻った談志師。どちらも面白いと思いました。
でも馬生師はカッコイイです! 粋な噺家さんNO1です!

「花見の仇討」について

Image005春の噺の解説をして来ましたが、やはり春と言えば桜ですね! それで今回は「花見の仇討」です。花見の噺には「長屋の花見」という名作もあるのですが、「長屋の花見」は上方の「貧乏花見」を移植したものですが、噺の立脚そのものが東西で違っておりまして、これが東西の暮らしの哲学に関わる問題なので今回はこちらにします。

【原話】
明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

【ストーリー】
仲の良い三人が上野のお山に花見に行くのですが、その趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
 二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って
「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」
 と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。と話がまとまります。

 花見の当日、四人がそれぞれ、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 ところが、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時に、うるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、家に連れて行かされ、酒を飲まされて寝てしまいます。
 一方、巡礼には途中で話の成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始めましたが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
 と言いますが三人は
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。三代目金馬師や三代目三遊亭小圓朝師や八代目林家正蔵師も良かったです。
個人的には桂文朝師が好きでした。

【注目点】
柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いですね。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

『能書』
正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

『健二のネタ』
 江戸時代は今よりも花見で色々なパフォーマンスをするのが多かったようです。今はカラオケなんか電源を用意してする人もいますね。
噺の中の「六部」とは、六十六部の略で、法華経を六十六回書写して、一部ずつを全国の六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者のことで、室町時代に始まったそうです。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者もこう呼んだそうです。

「崇徳院」について

karuta崇徳院様と言えば百人一首の歌「瀬をはやみ」で有名ですが、これが落語だとかなり面白い噺になって来ます。楽しい噺ですね。

【原話】
この作品は初代桂文治の作といわれ、上方落語の演目で、後に東京でも口演されるようになりました。

【ストーリー】
若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて、幼なじみの熊さんが訊いてみると、上野の清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う……つまり恋煩いだったのです。
大旦那は熊さんに、そのお嬢さんを見つけてくれれば住んでいる三軒長屋をくれると言います。そこで熊さんはそのお嬢様を探しに出掛けます。腰に草鞋をぶら下げてもう一生懸命です。
手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみです。
かみさんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句を詠むが、なかなか見つかりません。
熊さんがなんと三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶頭が駆け込んできて、出入り先のお嬢様が恋煩いで寝込んでいると言うお嬢様の話を始めました。
清水院で出会った若旦那に会いたいというのです。手掛かりは、短冊に書かれた崇徳院の和歌だと言います。ついに出会ったのです!
お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、床屋の鏡を割って仕舞います。
でも床屋の親方、心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」

【演者】
三代目 桂三木助師が有名ですね。個人的には三代目 古今亭志ん朝師が好きですね。若旦那と熊さんのやり取りがいいです!

【注目点】
上方では見初める所が高津神社となっています。
又、女性の方の頭に下さる御礼が300両と具体的になっています。
「あんたのとこの若旦那は仁徳のある方ですなあ」と感心する床屋に、「仁徳があるはずや、見初めたんが高津さんや」とするサゲもあるそうです。

『能書』
最近では上方ではサゲをつけないやり方が多くなって来ているという事ですが、人気者だった二代目桂枝雀師が取っ組み合いのシーンを演じたあとサゲを付けずに「めでたく一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいおうわさでした」などと言って終える演出を取り入れましたが、やはり落とし噺ですのできちんとサゲを言って欲しいです。

若旦那が寝込む噺は他に「千両みかん」などもありますが、この噺は最後がハッピーエンドで終わっているので後味が良いですね。これは重要なことで、トリでこの噺をやればお客さんは気分よく家に帰れる訳です。寄席の最後に出て来る噺家はそんなことも注意して演目を選ぶそうです。
 いい出来の噺を聴いて帰るときは何だか懐が暖かいですね〜

「明烏」について

oomon今回は八代目文楽師の十八番「明烏」です。
これは凄いです。そして楽しいお噺です!

【原話】
実際の心中事件から題を得て作られた、新内の「明烏夢淡雪」から人物だけを借りて作られた噺で、
滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺に仕立てました。
その発端が現行の「明烏」です。

【ストーリー】
日向屋の若旦那である時次郎は、一部屋にこもって難解な本ばかり読んでいるような頭の固い若者で、息子の時次郎の将来を心配した親父さんが、町内の源兵衛と多助に頼んで浅草の裏のお稲荷さんにお参りに行くと偽って、吉原に連れていってもらうことにした。
日帰りのお参りではなくお篭もりするようにと、お賽銭として、銭も沢山持たせます。

吉原の大門を鳥居だと言い、巫女さんの家だと偽って女郎屋に連れ込むのですが、そこは店に入るととうとうバレてしまいました。
こんなところにはいられないからと、若旦那が一人で帰るというのを、吉原の決まりとして大門で通行が記録されているので、三人連れで入って一人で出ると怪しまれて大門で止められると嘘で説得して、無理矢理に一晩つきあわせます。
翌朝になって、若旦那が起きてこないので、源兵衛と多助花魁は若旦那の部屋に起こしに行きます。
「若旦那良かったでしょう? さあ帰りましょう」
そう言っても起きてきません。仕方なく花魁に頼むと、
「花魁は口じゃ起きろ起きろというが足で押さえている」
と布団の中でのろけているので馬鹿馬鹿しくなった二人が先に帰ろうと言うと、
若旦那は
「先に帰れるものなら帰りなさい、大門で止められます」

【演者】
もうこれは文楽師が一番と言っても良いですが、文楽師亡き後、色々な噺家さんが演じていますが、極め付きは志ん朝師でしょうね。
文楽師は寄席では初日にこの噺を多く掛けたそうです。

【注目点】
文楽師は寄席でトリを取ると初日は必ずと言って良い程この噺を掛けたそうです。
源兵衛が甘納豆を食べる場面では、寄席の売店で甘納豆が売り切れたというエピソードが残っています。

『能書』
志ん朝師も晩年を除き、この甘納豆のシーンはやりませんでした。代わりに梅干しのシーンに替えていました。それぐらい文楽師の仕草が見事だったという事です。

私なんか正直、志ん朝師の方が文楽師より良いぐらいですが、古い落語ファンの方に云わせると
「文楽の方が遥かにいい!」そうです。何でも決定的な事が志ん朝師の噺には抜けているそうです。ですから、実際の吉原を知らないのは辛いですねえ……これにつては反論出来ませんね。
それだけもう遊郭というものが遠いものになってしまったという事なんですね。(何でも西の方には未だ残ってるということですが……)
 
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