はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2016年02月

「愛宕山」について

110802_togetukyo_atago『愛宕山』
え〜早いものでこの前マッカーサーが上陸したと思ったらもう三月が間近です!
そこで春の噺を紹介しようかと思うのですが、まず最初は私の好きなこの噺です。
この噺は上方落語がルーツです。東京では文楽師の十八番でした。
三代目圓馬師が東京風に脚色したのを圓馬師から文楽師に伝わったものです。
晩年は医師から止められていたにもかかわらず、高座に掛けて、その後楽屋で暫く横になっていたそうです。
それだけ、最後の処で力が入ったのですね。
最近では志ん朝師がやり、その後かなりの噺家さんがやります。
志ん朝師のも良かったですね、文楽師が省略した下りも入れて、一八と旦那の絡みも見事でした。

【原話】
上方に古くからあった噺を三代目圓馬師が東京に持って来ました。だから、事実上の圓馬師の弟子でもあった文楽師はこの噺を受け継いだのです。
【ストーリー】
あらすじは上方と東京では若干違いますので、東京でやります

京都見物に来た旦那、あらかた見てしまったので、明日は愛宕山に行こうと思いつきます。
連れの幇間の一八に言うのですが、「朝飯前」と言う返事。
翌日、一同連れ立って愛宕山へとやって来ます。

調子のいいことを言う一八を見て、旦那は繁造を一八にぴったり着かせる。「どんなことがあっても上までひっぱりあげろ。連れてこないと暇を出すよ」と脅して、いざ出発。
大きい口を叩いていた一八は、最終的には繁造に押してもらって、やっとのことで途中の休憩所まで辿りつきます。

茶屋で休んでいるときに一八が土器投げ(かわらけなげ)の的を見つけます。
向こうに輪がぶらさがっていて、そこにお皿を投げて上手く輪をくぐらせるという遊び。
旦那がやってみせると、負けん気の強い一八、また「朝飯前」だと嘯く。が、もちろんやってみるとうまくいかない。

そこで旦那が趣向を凝らし、取り出したのが小判三十枚。
煎餅を放る人がいるんだから、それより重量のある小判ならうまく放れて面白いだろうと。
そんなもったいないことを、と止める一八を無視して旦那は投げ続けます。
小判が惜しい一八は自分を的にしろと叫ぶが、旦那は三十枚全てを投げきってしまいます。

さて、投げてしまった小判はどうするか。旦那は「あんなものは惜しくない。取りたきゃ取れ」と言う。
そう言われては取りに行くしかないが、そこは崖っぷち、狼もうろうろしているというし、そう簡単に降りてはいけません。
そこで、傘を落下傘代わりにして飛び降りるというもの。皆が見つめる中、なかなか飛び降りられない一八を見て、旦那が繁造に「後ろから突け」と命じ、一八は無理矢理下へ落とされてしまいます。

さて、崖を降りた一八、目の色を変えて小判を集めはじめます。全ての小判を拾い終えた一八に
旦那「皆貴様にやるぞ」
一八「ありがとうございます」
旦那「どうやって上がる」
困った一八に、旦那は「先に行くぞ」と薄情な言葉を残します。

さて弱った一八、突然服を脱ぎ、脱いだ服を裂き始める。どうしたどうしたと旦那達が見守る中、裂いた布で縄をよって、竹をしならせ、その反動でどうにかこうにか崖上へ無事上ることができました。

上にたどりついた一八に、
旦那「偉いやつだね、貴様は生涯屓にするぞ」
一八「ありがとうございます」
旦那「金はどうした」
一八「あ、忘れてきました」

【演者】
やはり八代目文楽師が抜きん出ていますね。志ん朝師も良かったですね。

【注目点】
東京では下男の繁造が登場しますが、上方ではふたりとも大阪を食い詰めて京都にやって来た幇間と言う設定です。
そこで、この二人によって、京都の悪口が始まります。
この辺は東京人にはその対抗意識と言うのが正直分かりません。(^^)

『能書』
上方版では小判は20両で、それも一気に投げて仕舞います。
それと、一八が登る時に口ずさむ歌が違います。
東京は、『コチャエ節』で、上方は、『梅にも春』です。

『ネタ』
この噺の嘘は、京都の「愛宕山」ではかわらけ投げは行われていないと言う事です。
同じ山系に属する高雄山の神護寺で行われているそうです。
江戸でも王子の飛鳥山、谷中の道灌山で盛んに行われました。
志ん朝師はこの噺を演じる前に、香川県高松市の屋島で実際にかわらけ投げをおこなっています。
愛宕山にも一門で登っています。

忘れられない噺家さん達  4  初代 林家三平

2今回は三平師匠です。
【初代 林家三平】1925年11月30日 – 1980年9月20日
言わずと知れた、昭和の爆笑王です。普通噺家は真打以外は寄席のトリを勤める事は出来ませんが、この師匠と三代目圓歌師は二つ目でありながら上野鈴本のトリを勤めました。

・「出囃子」
『祭囃子』

・「芸風」
自作の漫談調の噺がほとんどでした。よ〜し子さん〜」と歌いながら小咄を挟んで行くスタイルで、立ち高座が多かったですね。
でも実は裏ではかなりの努力をしていました。それが判ったのは死後の事です。
一時、病で倒れたのですがリハビリをして復帰しました。でもその直ぐ後で癌が見つかり帰らぬ人となります。最後に長男のこぶ平さんとハワイに行ったのがとても楽しそうでした。
私も上野公園をジョギングしている姿を幾度も見かけました。実際話してみると、とても穏やかで明るい感じでいつの間にか人の心を掴んでしまう技量の持ち主でした。

・「芸歴」
1925年11月30日、七代目柳家小三治の長男として東京根岸に生まれる。
1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門 林家甘蔵を貰ったとの記録もあるが本人は否定。公式には前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平を名乗る。
1949年10月20日、父正蔵死去。同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移る。前座からやり直す。
1951年3月、二つ目昇進。
1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る
1958年10月、真打昇進

・「エピソード」
最初は、古典落語を演じていましたが、どうにも酷い高座だったそうです。その頃の仲間内から大変下手な奴と馬鹿にされていたそうです。でも三代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していたそうです。
残された古典落語の録音(貴重!)を聴くと、そう下手ではありません。私は生で三平師の古典は聴いた事がありませんので真実は謎ですね。古典以外の漫談なら沢山聴きました。
今でこそ「昭和の爆笑王」と言われていますが生前の評価はかなり低かったです。六代目圓生師は全く認めていませんでした。(色物と同格と思っていたそうです)

・「得意演目」
源平盛衰記、湯屋番、自作落語、

忘れられない噺家さん達  3  八代目 橘家圓蔵

95db6c7f【八代目 橘家圓蔵】1934年4月3日 - 2015年10月7日
 一時一世を風靡した噺家さんです。「ウチのセツコが」が有名ですね。

・「出囃子」
 『虎退治』

・「芸風」
 若い頃から落語家と言うよりもタレントとして売れに売れました。テレビやラジオ等に毎日出まくっていましたね。
持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、テレビやラジオなどの放送番組で人気が出ました。
特にニッポン放送でやっていた談志師との番組はそのギャクの返しや反応の速さは特筆ものです。
兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、愛妻の節子夫人を「ウチのセツコ」がと売り出しました。

・「芸歴」
1952年12月 -四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)に入門。前座名は橘家竹蔵。
1955年3月 - 二つ目昇進。橘家舛蔵と改名
1965年3月 - 真打昇進。5代目月の家圓鏡を襲名。
1982年10月 - 8代目橘家圓蔵を襲名

・「エピソード」
 圓蔵を襲名後から古典落語に力を入れ始めます。談志師に弟子の稽古を頼み、一緒に行き、弟子より先に噺を覚えてしまった事も数多くあるそうです。
 その昔、入門前ですが、市川に鈴本と言う寄席があった時に、自分の家のある平井から良く聴きに行ったそうです。芝居が終わり、その帰りに談志師が師匠の小さん師と目白の家に帰る為に市川の駅で電車を待っているのを良く見かけて「自分も早く入門したい」と思っていたそうです。

・「得意演目」
穴どろ、 浮世床、鰻の幇間、大山家の人々、蜘蛛駕籠、七面堂、品川心中、心眼、粗忽の釘
幇間腹、道具屋、猫と金魚、寝床、反対俥、無精床、堀の内、湯屋番、
 特に「猫と金魚」「反対俥」「堀の内」「穴どろ」は結構聴かせてくれました。
 個人的にですが、寄席という空間で彩を放つ師匠でした。高座で話してるのですが、まるで身近に居る感じで話すと言う感じでした。他には見られない師匠でした。

先日、襲名当時の新宿末廣亭での「堀之内」の高座を聴きました。その中で「橘家圓蔵というのは橘家の家元の名前だから」とも語っていました。これについては、まあそうなので何も言いませんが、他に「師匠の名前を継いだ。本当は総領弟子の三平が継ぐのが本当だが、ああなってしまったので……」と何とも歯切れの悪い言い方をしていました。その裏には色々な思いがあるのだと思いました。
後継については既に弟子の中には「継ぎたい」と言う者も出て来ているようです。果たしてどうなりますやら……
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