はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2016年01月

忘れられない噺家さん達  2 三代目桂三木助

c0135543_2035086【三代目桂三木助】、1902年3月28日 – 1961年1月16日
 今回は三代目三木助師です。
.「出囃子」
「つくま」

.「芸風」
日本芸術協会所属(今の芸協)でしたが、当時の芸協は新作派が多く古典をやる噺家は肩身の狭さを感じていたそうです。その為、最晩年に落語協会に移籍しました。
圓朝作と云われる「芝浜」を独自に作り上げました。以降、芝浜は夫婦の情愛や明け方の描写を入れて名作落語として認識され、一気に名前が売れました。今でもこの型で、多くの噺家が口演しています。
粋で鯔背な噺家の代表とまで言われました。また落語評論家の安藤鶴夫氏に随分可愛がられたそうです。

.「芸歴」
1918年頃 – 柳枝の元に弟子入りするが断られ仕方なく春風亭柏枝に入門し、柏葉を名乗る。
1921年9月 – 二つ目昇進し、春風亭小柳と改名。
1926年 – 大阪の二代目桂三木助門下に移り、桂三木男と改名。
1927年10月 – 東京に戻り春風亭橋之助、真打昇進で四代目春風亭柳昇と改名。
1932年5月 – 五代目春風亭小柳枝と改名。
1937年 – 落語家から舞踊家に転向。花柳太兵衛を名乗る。
1943年10月 – 弟子を抱えるほど舞踊で名取りになったが戦争の激化により落語家に復帰、
二代目橘ノ圓と改名。
1950年4月 – 三代目桂三木助を襲名。

.「エピソード」
大変な食通で、毎日食べるものを買う店が決まっていたそうです。人形町まで弟子に買いに行かせた話は有名です。
五代目小さん師とは同姓で、義兄弟の杯を交わしたほどの大親友でした。この縁で、最晩年に生まれた長男の名前に小さん師の本名と同じ盛夫と名付けました。
後年、長男は小さん師に入門し、四代目桂三木助を襲名しました。
また若い頃は博打打ちもやっていたそうで「隼の七」の異名もあったそうです。
.「得意演目」
芝浜、火事息子、へっつい幽霊、ざこ八、味噌蔵、崇徳院、三井の大黒、ねずみ、宿屋の仇討、御神酒徳利、さんま火事、蛇含草、近日息子、加賀の千代、化物使い、巻き返し、他

忘れられない噺家さんたち 1 三代目三遊亭金馬

1352179431【三代目三遊亭金馬】1894年10月25日 – 1964年11月8日

.「出囃子」
「本調子カッコ」

.「芸風」
ラジオで一世を風靡した師匠です。聴いて判る噺を追求したので、人物の描き分けがハッキリしていました。その為多くの人から親しまれました。「楷書で書いたような落語」と評されました。
一方で、噺の描写も上手で、仲間内からの評価も随分高かったそうです。
大変物事に詳しく博識だったそうです。噺にもその辺が出ています。

.「芸歴」
1912年 講談師放牛舎桃李(放手金桃李、揚名舎桃李、2代目放牛舎桃林とも)に入門。
1913年暮れ 初代三遊亭圓歌にスカウトされ、三遊亭歌当を名乗る。
1916年(1917年とも) 二つ目昇進し、2代目三遊亭歌笑襲名。
1919年12月 三遊亭圓洲に改名。
1920年9月 真打昇進。
1926年4月 3代目三遊亭金馬を襲名。
1954年2月5日 釣りの帰りに列車に刎ねられ、左足先を切断。以後、高座では正座出来ずにいつも釈台を置くようになる。

.「エピソード」
最初は講談師を目指したのですが「落語向き」と言われ転向しました。初代圓歌師に入門したのですが、師弟の折り合いが良くなかったそうです。その為名人と呼ばれた三代目圓馬師に文楽師共々稽古を付けて貰いました。圓馬師の繊細さを文楽師が豪放さを金馬師が受け継いだと言われています。
また釣りが趣味で、その縁で、戦争孤児となった「竿中」の娘さんの海老名香葉子さん(三平師の女将さん)を引き取って育てたのは有名です。

.「得意演目」

「池田大助」「居酒屋」「浮世床」「うどんや」「蛙茶番」「堪忍袋」「狂歌家主」
「禁酒番屋」「金明竹」「くしゃみ講釈」「孝行糖」「高野違い」「小言念仏」「権兵衛狸」、「雑俳」「三軒長屋」「品川心中」「死神」「たがや」「大師の杵」「高尾」「高田の馬場」、「茶の湯」「付き馬」「てれすこ」「転失気」「転宅」「道灌」「道具屋」「唐茄子屋政談」、「佃祭」「長屋の花見」「二十四孝」「錦の袈裟」「花見の仇討」「一目上り」「雛鍔」、「妾馬」「目黒のさんま」「やかん」「弥次郎」「藪入り」「夢金」「湯屋番」「寄合酒」他。

落語四天王 4 立川談志

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さて、落語四天王もいよいよ最後の立川談志師です。暮れの「赤めだか」見ました? 正直、原作の方が面白かったですね。
ビートたけしさんの談志師はちょっと滑舌が悪かったですね。晩年は兎も角、談春師の入門の頃は良かったと記憶してるのですが、存在感は確かにありましたね。でも他の俳優さんでも見たかったです。

4.【五代目(七代目)立川談志】1936年1月2日 – 2011年11月21日
いよいよ立川談志師です。世間では色々と言われておりますが、ここは私個人が思って来た事を中心に書かせて戴きます。
ご批判もあろうかと思いますが、そこは平にお許しを……

・「出囃子」
「木賊刈り」

・「芸風」
落語協会脱退前と後に分ける必要があると思います。協会に居る頃は本格派でした。江戸前の噺を追求していたと思います。粋な芸風を目指していたと言い換えても良いと思います。
この頃は落語は「業の肯定」であると言っていました。
それが脱退後は「イリュージョン落語」を標榜してから本筋とは離れて行きました。尤もそれは自身でも判っていたらしく、晩年は度々「自分は逸れちゃったから」と語っていました。

・「芸歴」
1952年年4月、五代目柳家小さんに入門。小よし
1954年3月、 二つ目昇進し柳家小ゑん この名前を本人は結構気に入っていたみたいです。       曰く「粋な名前」だと……
1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進
1983年  落語協会脱退「落語立川流」を設立、小さん師より破門される。
・「エピソード」
もうね、色々とありすぎて全ては書けないのですが、目立った所から……

圓生一門の脱退騒動では談志師が陰で暗躍していたと言われています。色々な噂がありますが、本当のところは判りません。
協会を脱退したのは弟子の真打昇進試験の事がらみでした。これが理由と言うより切っ掛けとなった感が強いですね。
「落語立川流」を創設して自分が家元となり弟子から上納金を取るようになりました。これも前代未聞でしたが、真打昇進時にお祝いとして返してくれたみたいです。
自分に意見を言ってくれる人が居なくなったので段々と芸の方向が本筋から離れて行きます。「粗忽長屋」を「主観長屋」と改題して演じていました。ある時、志ん朝師に「俺の『主観長屋』は良いだろう!」と言った所。志ん朝師が「なに言ってるの普通に出来ないからでしょ」と言い返されたそうです。
このように非常に志ん朝師を意識していたと思います。方向が違ってしまったのは根底に「自分は本筋では志ん朝に叶わない」と言う想いがあったからだと個人的には思っています。
つまり、それだけ志ん朝師を高く評価していたと思います。
「金の取れる芸は志ん朝だけ」と言っていた事が現していると思います。
恐らく談志師は志ん朝師をライバルと目していたのでは? と思うのです。
反骨精神に富んでいる反面、とても人情家の一面もあったそうです。基本的には「とても優しい人だった」と語る人も大勢います。
個人的にですが、仕事の関係で接した事がありますが、きちんとした常識のある優しい方でマスコミのイマージとは大分違うと思いました。
また、これも個人的にですが、落語を評論させたら右に出る者がいないと思います。それだけ落語の本質を見抜いていました。著作も非常に多く、そのどれもが落語をとても愛していた事が本当に良く判ります。
恐らく落語評論家としてでも超一流だったと思っています。

・「得意演目」
居残り佐平次、浮世床、小猿七之助、蝦蟇の油、紙入れ、九州吹き戻し、金玉医者、
蜘蛛駕籠、慶安太平記、源平盛衰記、紺屋高尾、黄金餅、五貫裁き、権助提灯
権兵衛狸、西鶴一代記、鮫講釈、三軒長屋、三方一両損、持参金、、品川心中、芝浜
寿限無、清正公酒屋、疝気の虫、粗忽長屋(主観長屋)、ぞろぞろ、代書、妲己のお百
田能久、短命、付き馬、つるつる、鉄拐、道灌、富久、二階ぞめき、人情八百屋、鼠穴
野晒し、文七元結、へっつい幽霊、松曳き、饅頭こわい、木乃伊取り、三方原軍記、やかん
幽女買い、夢金、鼠穴、よかちょろ、らくだ

☆特に「鼠穴」は良かったです!!
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