はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2015年12月

落語四天王 3 古今亭志ん朝

412UiCVj0oLこんにちは〜 いよいよ今年も終わりとなりました。本年もご贔屓に預かりありがとうございます!
来年も相変わりませずよろしくお願い申し上げます。

今回は記憶に残る噺家さんの四天王の三人目、古今亭志ん朝師について書いてみたいと思います。

3.【三代目 古今亭志ん朝】1938年3月10日 – 2001年10月1日
言わずと知れた古今亭志ん生師の次男です。
初代の志ん朝は兄の金原亭馬生師です。二代目は直ぐに廃業してしまったので、資料によれば美濃部強次氏をもって二代目とする所もあります。

・「出囃子」
「老松」

・「芸風」
もうね、何と言っても華がありました。高座にその姿を見せただけで花が咲いたような感じは忘れられません。
落とし噺から人情噺までオールマイティで、見事な江戸前の芸でした。父親の志ん生師とは違う芸風を目指したそうですが、晩年には大分似て来ていました。恐らく、意識的だったと思われます。
長い間の先輩噺家が築きあげて来た江戸前の噺を結実させた、と言っても過言では無いでしょう。それだけの噺家でした。
本人は最初は外交官になりたかったそうですが、大学受験に失敗した時に父の薦めで落語家になりました。最初は歌舞伎か役者の道も考えたそうですが、何としても志ん生師が落語家にしたかったのは有名な話です。
テンポの良い語り口は謡い調子を思わせるようにリズミカルで、聴いている観客を江戸の世界に誘ってくれました。
個人的にですが、四天王の中で一番江戸を感じさせてくれる師匠でしたね。談志師は「江戸はこんな感じ」と我々に見せてくれた師匠、柳朝師は存在そのものが江戸と言う感じ。圓楽師は「江戸にもいろいろあるでしょう」と言って色々な江戸を見せてくれた師匠。その点、志ん朝師は我々を江戸の世界に誘ってくれた師匠でした。
つくづく早世が惜しまれます。長生きしていれば、六代目志ん生を襲名した可能性も、あったかも知れませんでした。本当に惜しまれます。個人的にですが、師の訃報を聞いた時は激しいショックを受け、暫くは何も手につきませんでした。

・「芸歴」
1957年2月 実父5代目古今亭志ん生に入門。前座名は父の前座名朝太。
1959年3月 二つ目昇進。
1962年5月 真打昇進 古今亭志ん朝襲名
・「エピソード」
色々とありすぎてここに全ては書けませんが、経営の苦しかった名古屋の大須演芸場にふらっと立ち寄り、いきなり無料で出演したり、長い間三日に渡る独演会を大須演芸場でやりました。
晩年、談志師と話した時に、志ん生襲名を薦める談志師に「じゃあ兄さん口上言ってくれるかい?」と言ったそうです。それに対して談志師は「言ってやるよ。その代わりもっと上手くなれよ」と言ったそうです。
存命していても本当に志ん生を継いだ可能性は低いかも知れませんが、我々落語ファンはその間六代目志ん生と言う夢を見ていられました。今はその夢が無くなってしまったので少し悲しいですね。

・「得意演目」
沢山あり過ぎて……

明烏、愛宕山、鮑のし、幾代餅 、井戸の茶碗、居残り佐平次、今戸の狐、鰻の幇間、
厩火事、大山詣、お茶汲、お直し、お化け長屋、お見立て、お若伊之助、火焔太鼓、
火事息子、刀屋、替り目、岸柳島、御慶 、口入屋、蔵前駕籠、強情灸、黄金餅、碁どろ
駒長、子別れ、佐々木政談、真田小僧、三軒長屋、三年目、三枚起請、品川心中、芝浜
素人鰻、真景累ヶ淵 豊志賀の死、酢豆腐、崇徳院、千両蜜柑、宗Δ梁譟∩胴長屋
粗忽の使者、そば清、大工調べ、代脈、茶金、付き馬、搗屋幸兵衛、佃祭、唐茄子屋政談
富久、中村仲蔵、二十四孝、二番煎じ、抜け雀、寝床、野ざらし、羽織の遊び、花色木綿
浜野矩随、引越しの夢、雛鍔 、干物箱、百年目、船徳、文違い、風呂敷、文七元結
へっつい幽霊、坊主の遊び、堀之内、水屋の富、宮戸川、元犬、百川、宿屋の富、
柳田格之進、夢金、四段目、らくだ、六尺棒
他多数

落語四天王 2 三遊亭圓楽

012今回は圓楽師です。

2.【五代目三遊亭圓楽】1933年1月3日 – 2009年10月29日

・「出囃子」
『元禄花見踊』

・「芸風」
スケールの大きな噺をする師匠でした。晩年は入れ歯が合わなかったり、病の為に思うような噺が出来なかったと言われていますが、真打昇進の頃の音源を聴くと、まるでカミソリのような切れ味で、これが圓楽師かと驚かれると思います。
また若い頃は「星の王子様」と自分でキャッチフレーズを作りテレビなどにも多く出演いていました。

・「芸歴」
1955年(昭和30年)2月 – 6代目三遊亭圓生に入門、
1958年(昭和33年)3月 – 二つ目昇進。
1962年(昭和37年)10月 – 真打昇進し「5代目 三遊亭圓楽」
1978年(昭和53年)6月1日 – 師匠圓生一門と共に落語協会を脱退
1980年(昭和55年)2月1日 -師匠圓生死後、圓楽一門で新たに「大日本落語すみれ会」(後に圓楽一門会)を設立

・「エピソード」
何と言っても師匠圓生師と一緒に落語協会を脱退した事でしょう。真打昇進の意見の食い違いで小さん師と圓生師の対立が決定的になり、圓生一門が揃って脱退したのです。当初は圓生師だけが協会を辞めるつもりだったそうですが、弟子はそうも行きません。色々とあったそうですが、欠局一門の殆どが脱退しました。さん生さんと好生さんは協会に残ったので破門になりました。圓生師死後圓楽一門以外の弟子は協会に復帰しますが、圓楽一門は復帰することがありませんでした。その為、基本的には今も一門は定席に出演することが出来ません。
その事を憂いた圓楽師は江東区東陽町に数億の借金をして「若竹」と言う自前の寄席を作りました。その事を知った柳朝師は「圓楽は凄い奴だ」と感心したそうです。
しかし、自分が思った通りに弟子が育って行かない事と経営難もあり四年後に閉鎖しました。
最晩年のある時、春風亭小朝師と競演した時に、楽屋で小朝師に「自分はこれ以上上手くなれない」と言って涙を流したそうです。これには腎臓病や諸々の病の事もあったと思われます。
また「笑点」の司会を長く勤め、落語の認識拡大に多大な功績があったのは事実です。

・「得意演目」
「浜野矩随」「芝浜」等の人情を加味した噺が得意でした。これは三遊亭の芸風に通じるものです。
また、相撲の噺の「花筏」も良く高座に掛かっていて気持ちよさそうに演じていたのを思い出します。

と言う事で、また〜 次回は古今亭志ん朝師の予定です!

落語四天王 1 春風亭柳朝

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え〜共編文庫の「落語コラム」とかぶりますが、四天王を一人ずつ紹介して行きたいと思います。
まずは春風亭朝柳師です。

1.【五代目春風亭柳朝】1929年10月29日 - 1991年2月7日

「出囃子」
 『さつまさ』
「芸風」
 もう、噺の中の人物がそのまま飛び出したような噺家さんでした。粋で鯔背で、ちょっと強面のお兄さんと言った感じでした。少し早口な感じが如何にも江戸っ子を思わせてくれました。
ポンポンと威勢よく繰り出される江戸っ子を彷彿とさせる口調で一見ぶっきらぼうの様な感じもしますが、テンポの良い噺ぶりに引きこまれて仕舞います。

「芸歴」
1950年3月、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)に入門、翌年再入門
1953年5月、二つ目に昇進し、照蔵に改名。
1962年5月、真打に昇進し、5代目春風亭柳朝を襲名

「エピソード」
立川談志師が師匠の他に唯一頭が上がらなかった人物だったそうです。理由は、談志師が前座の頃に嫌と言うほどからかわれたからだそうです。尤も柳朝師は単なる洒落のつもりだったとか。
談志師は晩年の感じを見ると意外と思うかも知れませんが、本来生真面目で、噺家特有の洒落が嫌いでした。その点は談志師の項で詳しく書きたいと思っています。
映画「のようなもの」(旧版)では若手噺家達に気前良く小遣いをあげるシーンがあります。これもいい感じです。

「得意演目」
個人的にですが、「宿屋の仇討」は抜群でした。登場してくる武士に存在感があり、「この怖さなら熊さんが大人しくなるのは仕方が無い」と思わせてくれました。
また「付き馬」も良かったです。
他には「三方一両損」「大工調べ」「船徳」など江戸っ子が活躍する噺ですね。また「駆け込み寺」という珍しい噺も持っていました。


言わずと知れた小朝師や一朝師の師匠です。他の一門は雑用から入らせるのですが、柳朝師は「落語家になるために入門したのだからやらなくて良い。その分稽古しろ」と言ってやらせなかったそうです。
この考えは一朝師の所では続いているそうです、春風亭一之輔師によると「ゆるい一門」だそうです。

また、「二朝会」と言う落語会をやっていました。もう一人の「朝」は古今亭志ん朝師です。もう凄い会で今では伝説となっています。
弟子の右朝師と正朝師が受け継いていましたが、惜しくも右朝師が早世してしまいました。

 次は圓楽師です
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