らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2014年09月

浅草演芸ホール九月下席九日目

3363f78e 今日はお休みなので、浅草に行ってきました。toshiさんから譲られた招待券を有効に使いたいという目的もありました。
 早くから行くつもりでしたが用事が重なり到着したのは仲入り後でした。高座には喬志郎さんが上がって新作をやっていましたが、急いで行ったのと、暑さで汗だくだくで聴いてる余裕はありませんでした。
入場すると「招待券の人は二階ですから、下にいくとお金取りますよ!」と凄まれ、最初から嫌な思いです。
私は二階が好きなのと、従来から、椅子を縄で縛って制限をするくらいなら、招待券のお客は二階にすれば良いと思っていましたから、その事には何も思いませんが、言い方があるだろう……そう思いました。
気持よく笑おうと思って来ているのに、あの口のきき方は無いだろうと思いました。

・江戸屋猫八   ものまね
・蜃気楼龍玉   子ほめ
・柳家喜多八   代書屋
・林家正楽     紙切り
・柳家さん喬    幾代餅

 さん喬師の「幾代餅」クサかったですw でもそれがこの日の寄席の雰囲気と妙にマッチしていて、中々良かったです。これがあるから寄席は面白いですね。かなりの人が泣いていました。

 ここで一旦出まして並び直しました(夜の部の招待券です)
かなり長い列が出来ていまして、しかも入場が遅れました。
一階は満員で二階もほぼ満員になりました。

前座   林家 たま平 コブくんの長男だそうです。「二人旅」の煮売屋のくだりをやってました。前座の噺か?

・林家ぼたん     漫談  意外と雑というか荒い高座でした。最初で会場がざわついていたのですが……
・古今亭志ん陽   与太郎噺(幾つかの小咄)
・林家あずみ     三味線漫談  初めて高座を見ました。初々しくて良かったです。将来が楽しみです。
・林家うん平     よっぱらい   「替り目」の俥屋が出て来ないバージョン
・桂文生        漫談
・丸山おさむ     声帯模写    声帯模写というより立派なコンサートでした!
・古今亭志ん輔   紙入    新吉が貸本屋ではなく小間物屋でした。

ここで事情が出来、ここまで聴いて帰宅しました。

まあ、寄席らしい感じでしたね。ホールの従業員皆が感じ悪いのではないですが、お客の係の者が感じ悪いのが浅草の評判を落としていますね。
という訳でまた〜 (^^)続きを読む

「孝行糖」という噺

ameuri 今日は「孝行糖」です。

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳です。
三代目円馬師が東京に移植、戦後は三代目金馬師の十八番として知られ、
四代目金馬も演じています。
「本場」の大阪では、現在は演じ手がないと言う事だそうです。

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説がありますが、実はその以前、
弘化3年(1846)2月ごろから藍鼠色の霜降に筍を描いた半纏を着て、
この噺と同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが
幕末の政商・藤岡屋由蔵の「見聞日記」に記されています。
まず、当人に間違いありません! いたんですよ!与太郎!

親孝行が認められてお上から青ざし五貫匁という褒美を頂いた与太郎に長屋の連中は大喜び。
この金を元手に与太郎に商売をさせようということになり、親孝行の功で褒美を頂いたことから「孝行糖」という名で流しの飴屋をやることに。
親孝行の徳、この飴を食べると子どもが親孝行になるというので、孝行糖は大人気。
ある日いつものように文句を唱えながら飴を売り歩いていると大名屋敷前で鳴り物を止めよと咎められる。
しかし、のんきな与太郎は叱りつける侍の言葉にあわせて「ちゃんちきちん、すけてん」などと歌うものだから、捕らえられてしまう。
偶然通りかかった人が門番に事情を説明して与太郎を助け出し、道の端へ与太郎を連れて行きこう言った。
「打ち首にされてもおかしく無いが親孝行の徳でお前は助かったんだ。どれ、何処を殴られたか言ってみろ」
すると与太郎。泣きながら体を指差して
「こぉこぉとぉこぉこぉとぉ(こことここと)」

結局はただのダジャレなんですが、そこがまた良いですね〜(^^)

水戸さまの屋敷前と言うのは今の後楽園の処ですね。
いまでは車が引きも切りませんが、当時は町外れで寂しかったんですね。
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「付き馬」という噺

oomon今日は「付き馬」です。これはほんとうは江戸弁で「つきんま」と言うそうです。

 原話は元禄5年(1692年)に出版された笑話本・「噺かのこ」の第四巻、「薬屋にて人参を騙りし事」です。又の題を「早桶屋」とも云い、圓生師はこの名で演じていました。

 吉原で「今は持ち合わせがないが、お茶屋のツケを集金すれば金ができるので、明日払いで良けりゃ遊んでってやるよ」ということでどんちゃん騒を始めます。
 翌朝、郭の中のお茶屋だから一緒に集金に行こうと、若い衆を連れ出し、ちょっと大門の外の空気を吸ってみようと、更に外に引っ張り出す。この後、風呂に入り飯を食って若い衆に払わせ、浅草の雷門まで来てしまいました。
 ここから中まで戻るのは面倒だから、近くの早桶屋の叔父さんに金をこしらえて貰おうと言い出します。付き馬の牛太郎を外に待たせたまま、早桶の注文をして、外に聞こえるように「早くこしらえておくれ」と云います。
 若い衆を呼んで「出来たら叔父さんから受け取ってくれ」と言い残して男は、帰ってしまいました。
「出来たけど、どうやって運ぶ」と聞かれて、早桶を注文したことを知らさせるが後の祭り。棺桶代を請求されて金が無いというと、「おい奴(やっこ)、中まで馬に行け」

 もともとは、薬屋で朝鮮人参をだまし取るという内容だったものですが、廓噺に変わりました。
 私が最初に聴いた時(圓生師でしたが)疑問に思ったのは、早桶屋の事でした。時代は「花やしき」等があり、どう見ても明治から大正です。
「図抜け一番小判型」等と言う座棺がそのころでも使っていたのかどうか?でした。
 てっきり江戸時代迄だと思っていたのですが、違いました。
 よく調べると、寝棺は火葬、座棺は土葬用と書いてありますが、一概にそうでも無いようです。
 ある調べでは昭和21年の京都市では火葬の74%が座棺を使用していたそうです。最も25年には半分に下がりますが・・・
 つまり、戦後もある時期迄は座棺が結構使用されていたと言う事です。
 小三治師は若い頃銭湯で、この早桶の職人だったお爺さんと仲良くなり、色々と教わったそうです。
「そのうち、こうゆうのも話しておかないと忘れさられてしまうからな」
 そう言ってたそうで、正にその通りですね。

 付き馬の由来は、昔は吉原の馬子さんが其の物の家まで取りに行って」たのですが、そのうちに、集金した金を持ち逃げする馬子が多くなったので、馬子じゃなくて、店の若い者に集金させる様になりました。そこから「付き馬」という様になりました。

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浅草演芸ホール九月上席八日目夜の部

4cca5763今日は、休みなので、用事を済まして浅草に直行しました。お目当ては喬太郎師です。七割程埋まった客席に座って聴き始めました。

喬之助 ……寄合酒  肴の種類を変えて上手く纏めていました。この人はフラがあるのでいいですね。
ホームラン……漫才
栄枝   ……自分の趣味を混ぜた漫談 この人は古典上手いのに最近は余りやりませんね。惜しいです。
ぺぺ桜井……ギター漫談 いつものように絶好調でした!
左龍  ……普段の袴  いい出来でした! ちょっと稲荷町を思い出しました!
文楽  ……替り目   珍しく気合が入っていました。やれば出来るじゃないですか師匠! いつもお願いします。
圓丈  ……金明竹 名古屋編 最近ハズレばかりだったのですが、 今日は良かったです。もう場内大爆笑で、
お腹を抱えて笑っていました。久々師匠の本気見ました!

   仲入り

丈二  ……漫談 もう少し頑張りましょう! それに病弱ネタは辞めましょうね。
にゃん子金魚……漫才  今日は頭にお月見の道具を載せて頑張っていました。何時も凄いと思うけど特にワイルドでした。
志ん橋(志ん輔代演) ……出来心、前の高座がハイスピードだったので、あえてゆっくり目に演じ、間抜けぶりが際立っていました。
ダーク広和  ……マジック
一朝 ……芝居の喧嘩 場内をどっかんどっかん沸かしていました。拍手が凄かったです。
小菊…… 俗曲 色っぽい都々逸を沢山聴かせて戴きました。

喬太郎……「孫帰る」
 
 凄かったです。この日の喬太郎師は本当に凄かった。二五分あった時間のうち一五分近くはマクラに宛てていました。夏休みやお盆、人情噺などのキーワードを発していたので、もしかしたら「孫帰る」かな? と思っていました。
 マクラの大半はウルトラマンやそのガチャポンの噺で、半分ほど居た若い女性(多分ファンでしょう)が特に喜んで受けていました。
 噺に入っても前半はドッカンドッカン受けていましたが、祖父の一言の後は場内水を打ったように鎮まりました。
そして、圧巻だったのは祖父の無念さを喬太郎師は無言で、一分以上に及ぶ仕草と目線の動きで表現しました。勿論若い女性は殆ど泣いています。この「孫帰る」はそれだけインパクトのある噺です。
 今日の喬太郎師は噺をかなり膨らませていました。
 私の稚拙な表現では表わせませんが、長く記憶に残る高座でした。勿論ダントツで今年一番です。

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六代目笑福亭松鶴師匠について

img_785584_61456213_0明後日五日は六代目笑福亭松鶴師の命日です。
そこで、松鶴師を取り上げます。

本名は、竹内日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」
生まれは1918年8月17日 で命日が1986年9月5日です。68才の生涯でした。
5代目笑福亭松鶴師の子供として生まれました。母は落語家6代目林家正楽の養女でした。

1918年 大阪市西区京町堀に生まれる。
1933年 高等小学校を卒業し、漫談家・花月亭九里丸の紹介で心斎橋のお茶屋に丁稚奉公に出るも、
仕事はそこそこに落語や歌舞伎の鑑賞に入れ込む。
1938年 兵役検査を受けるが不合格。これを機にお茶屋を辞め遊ぶ傍ら、父松鶴のサークル「楽語荘」や雑誌「上方はなし」編集の手伝い、落語に関わるようになる。
1944年 中之島の大阪市中央公会堂にて、遅れた出演者の代演として芸名無しで初舞台。演目は「寄合酒」
1947年 父松鶴に正式に入門。5月19日、今里双葉館にて正式に初舞台。父の片腕であった4代目桂米團治より初代笑福亭松之助と命名される。
1948年 4代目笑福亭光鶴(こかく)と改名。
1962年 3月1日、6代目笑福亭松鶴を襲名。道頓堀角座にて襲名披露興行。出囃子を「船行き」とする。
1966年 大阪府民奨励賞受賞
1971年 1月30日、芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞
1981年 11月3日、上方落語家としては初の紫綬褒章受章。
1986年9月5日没

豪放磊落な芸として知られていましたが、実に繊細な一面もあった様です。
談志師を始め、志ん朝師や色々な噺家と交流があり、その面倒見の良さは定評がありました。
談志師が語っていますが、普段は軽い噺しかやらず、物足りなく思っていたら、ある日「らくだ」を演じ。
震える程感動したそうです。

晩年は高血圧の為口が回りきらず、本人もじれったい高座でしたが、それでも味がありました。

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