らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2014年02月

「長屋の花見」と言う噺

apr07051いくらか温かくなって来た気がします。またすぐに寒くなると判っているのですが、暖かくなるとこの噺を聴きたくなります。
と言う訳で「長屋の花見」です。
さて、解説をする前に……

落語ファンにとってはお馴染みで「落語研究会」の司会を担当していた元TBSアナウンサー山本文郎さんがお亡くなりになりました。79歳だったそうです。改めてご冥福をお祈り致します。これで、榎本滋民先生と一緒に極楽亭で名人の高座を楽しむ事が出来ますね……本当に素晴らしい番組をありがとうございました。

さて今日の噺です。
 元々は上方落語の演目で「貧乏花見」で明治37年ごろ、三代目蝶花楼馬楽師が東京に移し、明治38年3月の、日本橋常磐木倶楽部での第一次の第四回落語研究会に、二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。
 これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

 上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸と違うところですし、持っていくごちそう?や酒?も自らが誂えて持って行きます。

 どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽師が考案したくすぐりです。馬楽--四代目小さん--五代目小さんと受け継がれていった噺です。今でも柳家始め多くの噺家さんが演じています。

 雨戸まで外して焚き付けにするという貧乏長屋の店子連中に大家さんからの呼び出しがかかります。すわ、店賃の催促かと思いのほか「そうじゃあない。花も見頃、今日は貧乏を追い出すために皆で花見に行こう」と大家さん。

 酒も肴も用意したというので、店子連中は「花見だ花見だ」「夜逃げだ夜逃げだ」などといいながら上野の山へ向かいます。
 満開の桜がならぶ上野の山。店子連中は、毛氈とは名ばかりのむしろを敷いて、物乞いの真似をしようとしたり、ほかの花見客が落とした食べ物を拾おうとしたりの大騒ぎ。

 そのうちに、大家さんが用意した酒と肴で宴がはじまるが、じつはこれ本物ではありません。
 お酒は番茶を水で割ったもの。かまぼこは大根の漬け物で、卵焼きは沢庵という始末。
「かまぼこ」を薦められた店子は「ちかごろ歯が弱くなったから食べづらい」とこぼしたり、「卵焼き」を食べようとする店子は「尻尾じゃないところをくれ」などと言い出す始末。
 薄い番茶を「灘の酒」に見立てて飲み出すが、アルコール成分がないから酔おうにも酔えません。
 そのうちに「灘の酒」を飲んでいた一人が、変なことを言い出します。
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるかい?」
「酒柱が立ちました」

 このほか、上方のサゲを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎを馴れ合い喧嘩で妨害し、
向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって
「ちょっと踊らしてもらおうと」
「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」
「酒のお代わりを持ってきました」
 とサゲる噺家さんもいます。

 この噺の問題点は舞台を上野としている処ですね。
 江戸時代は上野の山は寛永寺の敷地内だったので、花見と言っても飲食や歌舞音曲は禁止です。
 許されたのは明治からですので、明治期とするかですが、余りうるさく言わないで、楽しんだ方が良いですね。
 昔のお客は、飲食や歌舞音曲が許されていた向島や飛鳥山じゃ臨場感に乏しいと感じたのでしょうね。続きを読む

幾代餅と紺屋高尾

3363f78e今日は志ん生師で有名な「幾代餅」です。
圓生師で有名な「紺屋高尾」も同じ系統の噺です。

江戸は馬喰町三丁目、搗米屋に奉公する清蔵が、急に体調が悪くなり部屋から出てこない。
お医者様のお見立てによると「体は悪くないが、胸につかえたものがあり、それが原因」とのこと。
店のおかみさんが清蔵に話を聴くと、胸のつかえはなんと恋患い!それも吉原で全盛の花魁、幾代太夫の錦絵に一目惚れしてしまったという。
どうしても幾代太夫に逢いたいという清蔵に、親方は「花魁はしょせん売り物買い物。
一生懸命金を貯めれば、逢えないことはない。まず一年間は必死で働いてみろ」と言う。

そして一年後。清蔵は働きに働いて十三両二分という金が出来た。親方はなかば呆れながらも清蔵を応援し、吉原通の藪医者、藪井竹庵先生に案内を頼む。
竹庵は「搗米屋の職人と名乗っては花魁が逢ってもくれない。野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みにするから、万事鷹揚に振る舞うように」とアドバイス。遊廓では幾代太夫が清蔵をねんごろにもてなしてくれた。

その翌朝「今度はいつ来てくんなますか」という幾代に、清蔵は「来られるのは一年後。
醤油問屋の若旦那というのは嘘で、じつは搗米屋の職人です」とすべてを打ち明ける。
それをじっと聴いていた幾代太夫は、来年の三月に年が明けるから女房にしてくれと、五十両の支度金を清蔵に渡す。
夢見心地で時が過ぎると、立派な駕籠に乗って本当に幾代が嫁いで来た。
 夫婦で餅屋を開くと、美人の幾代餅として評判になり、三人の子宝にも恵まれ、維新の世まで幸せに暮らしたと云う・・・・両国名物「幾世餅」由来の一席でございます。

搗米屋の職人で清蔵と、最高位の花魁、幾代太夫のなれそめの一席。
江戸時代、吉原の大店の太夫は大変な美貌と教養を兼ね備え、遊ぶには大金が必要だったそうです。
なかには高尾太夫の様に大名家に身請けをされた花魁もいます。
これは「仙台高尾」として金馬師がやってます。

清蔵の用意した金、十三両二分は、現在の価値で九十万円以上に相当し、それだけ高い買い物だったのですね。
ひるがえって、職人には高い収入も財産もない。この二人の立場の違いを理解していないと、この噺の理解は出来ないですね。

元は浪曲の演目ですので、落語では志ん生師が落語化したこの噺と、圓生師が直した「紺屋高尾」とがあります。両者の違いは職業と、お金を貯める年月が違いますね。

この噺は正直、志ん生師です。馬生師も志ん朝師も演じています。
それぞれ趣向凝らして、父親の志ん生師とかぶらない様に演じています。続きを読む

らくだと言う噺

ph_01今日は「らくだ」です。どうもこの噺は春の噺とされている様なので。この時期(暦の上では春)でも良かろう?と思うのです。
でも正直言ってもう少し後の時期だと思うのですが・・・

乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
そこに通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、
今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、
「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、
らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても
「ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、
大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、
「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、
立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。
その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、
二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

いざ火葬場に着くと、死骸がない。
どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。
途中で、願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、
焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

もとは上方落語の「らくだの葬礼」言う噺です。
三代目小さん師が東京に移植したものです。

上方版では登場人物に名前がちゃんとあり、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」です。
屑屋さんは無い様ですね。

東京でも可楽師や志ん生師、圓生師等大師匠が得意にしました。
大抵は前半の屑屋さんが酒を飲んで、立場が逆転する処で切ります。

上方では何と言っても松鶴師でしょうね。志ん朝師と談志師が若い頃、松鶴師の「らくだ」を見て、
あまりの凄さに絶句したという有名な事がありました。
ちなみに、終盤に登場する火屋(火葬場)の所在地は、江戸では落合、上方では千日前となっています。
落合の博善社の火葬場には皇室専用の所もあります。

噺の中に登場する、”かんかんのう”は「かんかん踊り」ともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。
九連環は「知恵の輪」のこと。
文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。
飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。続きを読む

崇徳院と言う噺

20100301140326そろそろ梅の花の便りも聞こえる様になりましたが、東京は大雪が降りました。早く暖かくなって欲しいものです。
で、今日は早く春が来る様に春の噺「崇徳院」です。

若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて熊さんが聞いてみると、
清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う・・・つまり恋煩いだったのです。
熊さんが腰に草鞋をぶら下げて相手のお嬢様を探しに出掛ける、首尾よく探し当てたら三軒
長屋が貰えるので、もう一生懸命です。
 手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の   割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみです。
 かみさんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句
を詠むが、なかなか見つからりません。
熊さんが三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶頭が駆け込んできて、恋煩いで寝込んでいるという
お嬢様の話を始めました。
清水院で出会った若旦那に会いたいというのだ。手掛かりは、短冊
に書かれた崇徳院の和歌だと言う。
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、鏡を割って仕舞います。
床屋の親方、心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」

この作品は初代桂文治の作といわれ、上方落語の演目で、後に東京でも口演されるようになりました。
上方では見初める所が高津神社となっています。
又、女性の方の頭に下さる御礼が300両と具体的になっています。
「あんたのとこの若旦那は仁徳のある方ですなあ」と感心する床屋に、「仁徳があるはずや、見初めたんが高津さんや」とするサゲもあるそうです。

この前も書きましたが、この噺のサゲが上方ではサゲをつけないやり方が多くなって来ている事ですが、
その事で、WiKiより引用してみたと思います・・・・

> 5代目笑福亭松鶴の『上方はなし』によると、現在残されている形は桂南光(後の桂仁左衛門)が演じ、弟子の2代目桂三木助に伝えられたものである。他にも桂米之助(後の4代目桂米團治)が演じていた形と二通りある。5代目松鶴は鏡が割れてしまうサゲが納得できなかったので『上方はなしを聴く会』でサゲを変えてやったところ、客から苦情が来て、その後米團治とサゲはどうするべきかで熱い議論になった。

2代目桂春蝶もこの噺を得意としたが、自身はサゲが気に入らず、噺そのものはええのにサゲがあかんとこぼしていた。その他でも、2代目桂枝雀をはじめとして、取っ組み合いのシーンを演じたあとサゲを付けずに「めでたく一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいおうわさでした」などと言って終える演出を取るケースも多く見られる。
引用終わり・・・・

色々ある様ですが、私は個人的には、〜一対の夫婦が〜と言うやり方はどうなんでしょうね?
落語ファンとしては安易に変えて欲しく無いですね。

東京では三代目三木助師が二代目から噺を受け継いで、東京で演じました。
あたらしいくすぐりも考案したそうです。続きを読む

将棋の殿様

4f8fa4f1今日は「将棋の殿様」です。

この噺は古く、初代可楽師が11代家斉候の前で演じたと言う逸話も残っています。
元々は講釈ネタで大久保彦左衛門の逸話がもとになったといわれています。(そりゃ古い訳だw)

ある藩の殿様が、突然将棋に凝りだした。家来一同が相手を務める事になるが、殿様が権力を盾にしたハチャメチャな差し方をするためまともな勝負になりません。
当然のことながら殿様が連戦連勝することになり、つまらなくなった殿様は『敗者の頭を勝者が鉄扇でひっぱたく』というとんでもないルールを考案します。

家来は「これで殿様に一矢を報える」と喜んだが、やはり殿様有利に勝負が進むため結局家来が負けてしまった。喜んだ殿様は家来の頭を鉄扇でゴチン!
家来一同コブだらけになった頃、病気で長期療養をしていた家老の田中三太夫が久しぶりに登城して来ます。

話を聞いた三太夫は、皆の仇討をしてやろうと言って殿様に勝負を申し込みます。
「控えろ。その歩を取ってはならぬ!」
勝負を始めて数刻。早速殿様のわがままが始まったが、三太夫はそれを許さない。
「敵の指図で戦を進める者はおりません。たとえこの場で打首になろうとも、この歩だけは断じて動かすわけには…」

冷静に、正論を用いて追い詰めてゆく三太夫に、殿様はあっという間に負けてしまいます。
「では、鉄扇を拝借いたしまして、この爺が殿の頭をはたかせていただきたいと思います」
実はこの人、家中で一番の剣の達人。殿様は鉄扇を軽く振る三太夫を見て震えあがったが、約束は約束なので素直に頭を差し出した。

「では、失礼して…」
まさか頭をはたく訳にもいかないので、三太夫は殿様の膝を思いっきりひっぱたく。
「アタタ…。皆の者、この将棋盤を片付け…いや、焼き捨てろ! これからは家中で将棋を指すものには切腹を申しつける!!」

と言う筋としては他愛無い噺ですが、三太夫さんが次第に追い詰めていく過程が最大の聴かせ場ですね。
実は古くはこの後もあり、武藤禎夫氏の「定本 落語三百題」によると、

将棋の次は落語に凝ってしまった殿様。またもや家来一同が拝聴するが、全然面白くなくて笑えない。
しかし、ここで笑わないとまたもや鉄扇で叩かれかねないので、無理して笑っていると殿様のしゃべりが厄払いの口上になってしまった。
「東方朔は九千歳、浦島太郎は八千歳、この厄払いがひっとらえ…」
家来一同「笑いましょ、笑いましょ…」
サゲは厄払いの掛け声に引っ掛けたものですが、最近では解り難いためここまで演じないと言う事です。
私も聴いた事ありません。
但し、落語に凝ったと言う噺がある、とは聴いていました。

現在では、喜多八師や市馬師等一門の噺家さんの録音が有ります。
また入船亭扇遊さんが演じた記録も有る様です。

私見ですが、この噺の殿様と「蕎麦の殿様」は同じ人物の様な気がします。
「盃の殿様」や「ねぎまの殿様」とは違う気がします。続きを読む

「厄祓い」と言う噺

b9c2969c今日は「厄払い」です。

この噺は黒門町の十八番で有名ですね。
原話は不詳で、文化年間(1804〜18)から口演されてきました。
東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフを地口オチで演じる噺ですね。
古くは節分だけの営業でしたが、文化元(1804)年以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日と、年に
計五回、夜に廻ってくるようになりました。この噺では、大晦日の設定です。
ですので、きょうあたりでも、良かろうかと言う判断です。(^^)

 与太郎が二十歳になってもぶらぶらしているので、叔父さんが厄払いの口上を教えます。
自分で稼いだ銭で、おっかさんに小遣いでもやってみろ、泣いて喜ぶからと、早速厄払いに出掛けさましたが、
「えー、厄払い」と口ごもっているところへ、「御厄払いましょう、厄落とし」と本職が出てきました。

本職に邪魔だと怒られて路地に入ったら、面白そうな厄払いだと呼び止められました。
 厄払いの前に銭を催促して、豆をもらっていよい口上を始めたのですが、
「あぁら、目出度いな目出度いな」と始めたのは良いが、後が分からなくなったので、叔父さんが書いてくれた紙を懐から出して読み始めます・・・
「……鶴は十年」「鶴は千年だろう」
「あそうか点が付いてるから千年だ」
「亀は……読めねえ、おや裏の店と同じ字だ、裏の店は何ていうんだい」「よろずやだ」
「鶴は千年、亀はよろず年」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出してしまいます。
「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、だんな、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

厄払いはもうかなり行われなくなりましたが、その昔は、祝儀等は江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。
今では、「ひとがた」の紙に名前と年を書いて神社に奉納して厄払いをしてもらう処もあります。
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