らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2014年01月

景清と言う噺

ff135a43今日は「景清」です。
笑福亭吾竹師の作といわれていて、後世に改作などを繰り返し現在の形になったとされています。
3代目圓馬師によって江戸落語にも伝えられました。

東京版の粗筋を・・・
 腕のいい木彫師の定次郎はふとした事から目が見えなくなっていました。
お医者さんにもかかっていたが見放され、信心で治るものならと、赤坂の円通寺の日朝さまに日参し、今日が満願の日であった。
確かに御利益があって、昨日ぼーっとではあったが光を感じるようになっていたのですが、嬉しさのあまり母親の意見を振り払い夜通し願掛けをしていますた。
すると、隣に婦人が同じように願掛けしていて、その婦人にちょっかいを出して信心どころではなくなって仕舞いました。
すると目の前が真っ暗になって、前よりは悪くなってしまいました。
ヤキモチもいい加減にしろと、啖呵を切って帰ってきてしまいます。

 石田の旦那の勧めで上野の清水の観音様に願掛けする事になったが、前回の仏罰があるので三七21日ではなく100日それがいけなければ200日と短気を起こさずに通うようにと意見された。

 そして、今日はその満願日。しかし、目に変化は現れません。
こんどは観音を罵倒しているところに、石田の旦那が現れ意見をされます。
母親が、目が開いたらこの仕立て下ろしの着物が縞ものだと分かるだろうし、帰ったら赤飯と鯛の焼き物と少しのお酒を用意して待っていてくれる。それを考えると帰れない、と言う。

 それを無理に手を引き、坂を下って池之端の弁天様にお参りし、帰ろうとした途端、真っ黒い雲が現れ雷が鳴り始めた。真っ暗になって凄まじい雷雨になりました。
土橋まで来るとなお激しくなり、旦那も逃げ帰ってしまい、定次郎は気を失って倒れます。
9時の鐘を聞くとすーっと雨がやんで、定次郎も気が付きます。
 「う〜寒い、旦那は居ないし・・・ あぁ!目が・・・、目が開いた。(指折り数える定次郎)有り難うございます」。とって返してその晩は夜通し祈願して、翌朝母親を連れてお礼参り。目がない方に目が出来たという、めでたい話でした。

東京では桂文楽師の名演が光ます。最後の定次郎が目が開いたシーンは感動的ですらあります。
上方ですと、最初は「柳谷観音」で次は清水寺です。そして清水寺の揚柳観世音。観音は、定次郎の眼は前世の因縁があって治らぬが、その代わりに景清の奉納した眼を貸し与える。と言う事で目が見える様になりますが、目玉と共に豪傑の精まで入ってしまったと見えてやたらに強くなって。
大名行列に暴れ込み、歌舞伎の景清よろしく名乗りを挙げ、殿様の駕籠の前に立ちはだかって見得を切ってしまいます。
殿様「そちは気でも違ったか」 定次郎「いや、眼が違った」 とサゲます。

上方だと長くなるので文楽師は目が開いたところで、「おめでたい噺で・・」と切って下げています。

日朝さまと言うのは、日蓮宗身延山久遠寺の貫首で、眼病守護及び学業成就の行学院日朝上人(にっちょう しょうにん、1422〜1500)の事です。
仏の心を備える功徳を積んで清浄の肉眼と心の眼を開かれたので”眼病守護の日朝さま”と崇められるようになったそうです。
上野の清水の観音様は、天海大僧正が「東叡山寛永寺」を開いた時に、比叡山にならい、江戸の守護の意味を持たせて、比叡山や京都の有名な寺院になぞらえた堂舎を建立しましたが、清水観音堂もその内のひとつです。

池之端の弁天様は不忍池の中島に、寛永寺が弁財天を祀ったお堂の事ですね。
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「二番煎じ」と言う噺

206c91bb今日は「二番煎じ」です。
元は、元禄3年(1690年)に出版された江戸の小咄本『鹿の子ばなし』に掲載された「花見の薬」を上方で同時期に改作し、夜回りの話とした『軽口はなし』の「煎じやう常の如く」だそうです。
大正時代に五代目三遊亭圓生師が東京へ移したといわれています。
上方では初代、二代目桂春團治師、二代目露の五郎兵衛師らが、東京では、六代目柳橋先生や八代目可楽師らが得意としました。

町内の旦那衆が火事を防ぐため、火の番の夜回りをすることになりました。
番小屋に集まり、集まった顔ぶれを二組に分け、交代で町内の見廻りをはじめます。
凍てつくような江戸の冬。金棒は冷たくて握れず、拍子木を打つのに懐から手を出すのも一苦労。
「火の用心」の声も北風に震えるようです。やがて番小屋に戻り、囲炉裏を囲む旦那衆。

すると、禁じられている酒を持ってきた人がいたり、猪鍋の用意をしてきた者がいたりして・・・
役人に見つかると面倒なため、酒を土瓶に移し、煎じ薬と称してそっと宴をはじめます。
猪鍋で楽しく酒を飲んでいると、番小屋の戸をたたく音がする。役人が見回りに来たのです!
一同はあわてて酒や鍋を隠し、役人を迎え入れます。

役人は「変わった事は無いかな?」等と聞きますが、気もそぞろ。
「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」
「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」
しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。
ところで、さっき鍋のようなものを」

「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」
もう一杯もう一杯と、
酒も肉もきれいに片づけられてしまう。
「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

江戸の冬は今よりも寒かったということで、地軸が今の位置とずれているのだそうです。
その関係でしょうか。雪がたくさん降ったのだそうです。
元禄の頃の記録で年間30日以上積雪があったそうです。
ですから、積もらなくても雪が降るのは珍しくなかった様です。
私が子供の頃でも、池や水たまり等に氷が張るのは毎日の事でした。

自身番については、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、
火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていましたが、それは建前で、ほとんどは「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。
ですが、この「番太郎」が中々仕事をしなかったそうで・・・

二番煎じとは、漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。
金気をきらい、土瓶などを用いました。

この噺は、北風の吹く江戸の夜空が目に浮かぶような感じが出れば、良いでしょうね。
そこに、熱々のぼたん鍋(しし鍋)と熱燗ですかねえ、これは応えられませんね。(^^)続きを読む

「植木屋娘」と言う上方噺

 0016今日は「植木屋娘」です
 とある資産家の植木屋さんに一人娘がおりまして、これがもう、近所でも評判の美人で、親父さんの自慢の娘。
そりゃ、親父さんとしては、嬉しいけどまたそこが心配のタネです。
そこで親父さんは考えた、
「悪い虫がつく前に、養子もろうて、楽隠居・・・」ってんでね。
目をつけたのが、お向かいのお寺の居候のイケメン伝吉さん。
娘のお光さんも、まんざらでもない様子。

お寺に交渉へ行くと、
「あれは、武家の出で500石を継ぐ身じゃ、やれん。」けんもほろろに、断られますが、
そんなことじゃ、めげない親父さん、「だったら既成事実をつくりゃいいんじゃ〜」と、
二人だけにして、お酒の席を設けます。

なんだかんだと上手くいきそうですが、その時はあっさりと伝吉さんも帰ってしまって、親父さんがっかり・・
その後、幾つかの縁談があっても、断り続ける、娘さん。
「ひょっとして、男嫌い?」 と噂の立つころ、
娘さんがなんと、「電撃妊娠!」
 どひゃ〜あ・相手は誰だ〜 なに〜伝吉?あの伝吉!
「でかした!ようやった!ようやった!」大喜びの親父さん。

その既成事実を引っさげて、お寺と交渉。
「し・しかし伝吉は、500石の跡目を・・・」
「その子ができたら、その子に継がせばええ。 そやさかい伝吉は貰う。」
「そんな無茶な。侍の家を勝手に取ったり継いだりできるかいな。」
すると植木屋の親父さん。
「大丈夫。 接ぎ木も根分けも、うちの秘伝でおますがな。」

以前は、と言うより、松鶴師や文枝師のサゲは、
住職に掛け合いますが、伝吉の答えは「商売が植木屋でございます。根はこしらえものかと存じます」
と、言うサゲでした。
米朝師は、「むかし、夜店などで質(たち)の悪い商人から買った植木に根がなくて、すぐ枯れてしまったりするのがあったそうですが、これはちょっとひどいサゲで、伝吉という人間もこれで大変悪い男になってしまうし、この一篇の落語が実にあと味のよくないものになります。」
と言う理由で変えました。

これと似てる様で違う話ですが、「崇徳院」のサゲを枝雀師が、
「互いに探す相手が知れまして一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいお話でございます」
と変えました。
これに文枝師は「「めでたしめでたしで終わるのは落語ではない」「『一対の夫婦〜』では講談なのであって落語ではない」と語っていたそうです。
従来からあるサゲが良くないとか、後味が悪いとか言う理由で変えるのはまだしも、文枝師の発言は最もだと思います。
東京の「居残り」とは違いますからね。この噺(植木屋娘)の場合は納得できますね。
(最も、私は「居残り」も変えてほしくありませんがw)

東京では現在は、歌武蔵さんが演じています。続きを読む

寛政力士伝

0d84826d「大相撲」が始まりましたね。と言う訳で、今日は「寛政力士伝」より「小田原相撲」です。

江戸の相撲取りで人格、技量ともに優れた力士に横綱谷風梶之助がいました。
温厚でまず怒った事がなかったが、人生でただ一回だけ怒った事があったのです。

 伊豆の下田に大巌(おおいわ)大五郎という素人だが強い相撲を取る男がいました。
ところがこいつ、取り口も汚く相手を負かし、人を殺めた事もあったのですが、バックに地のヤクザが付いていたので手出しが出来ません。

有頂天になった大巌は「江戸の相撲取りと一番やりたいが、恐くて箱根を越えられないだろう」とうそぶいていた。この声を谷風が聞いて、小田原で3日興行を打って対戦する事になりました。

当日の賑やかな事、初日は頭突きの鯱(しゃちほこ)清五郎をあてます。
頭突きでは敵う者が居位という強者でしたが、その二人が対戦し大巌の胸に頭付きを食らわしました。
普通の人間だったら血反吐を吐いて倒れる所ですが、さすがの大巌受け止めます。
行司に見えないように指で目つぶしを食らわし鯱、もう一度頭突きを掛けたが、見透かされ体を変わして投げ飛ばされて、沼津まで飛んでいったと言う・・・

 これを見ていた谷風、これほど強いとは思わず、宿に帰って思案していると、親子連れが入ってきました。母親が言うには、亭主は奉納相撲で大巌に汚い相撲で投げ殺されたので、その遺恨を晴らして欲しいという嘆願。
年端もいかない息子も家の鶏が産んだ卵50個あるから必ず勝ってよと置いていきました。
この頃の卵は貴重品です。
 それを襖越しに聞いていた雷電が、ものの順番として私が取りましょうと言います。
谷風からOKが出ると、この卵は私のものですよね、といって丼に割り込んで飲み込んでしまった。

 2日目木村庄之助が呼び上げます、大巌、こなた雷電。雷電は197cm、169kg有ったという、大巌はそれより一回り大きかった。軍配を上げると、誰しもぶつかると思っていたが、雷電両手を上げてバンザイの形になります。
大巌驚かず二本差してガブリ寄りに、さしもの雷電も土俵際まで追いつめらましたが、ここで両の腕を下ろして、カンヌキの形になりました。
大巌の両の腕が内側に曲がり、血の気が失せてブルブルと震え始めます。
その時「ブキッ」と異様な音がして、続けてもう一度響きます。
雷電両腕を上げると大巌の腕がブラリと垂れ下がっていて、後々の事があると言うので、雷電張り手で大巌の顔面を張ります。
後年雷電の張り手は禁じ手になったほどスゴかったのですが、それを左右連続で張ったからたまりません。顔が3倍にも膨れあがってしまいました。
後は廻しと肩を持って投げ飛ばした。場内割れんばかりの大歓声です。
 谷風、雷電の師弟が親子のあだを討ったという、小田原相撲の一席。

「寛政力士伝」と言うのは講談や浪曲の演目で、このエピソード以外にも多くの噺があります。
・横綱谷風の品格を物語るエピソード「谷風七善根」
・親不孝の若者を改心させる「出羽屋幸吉」
・谷風の土俵入りを邪魔したため放り投げられたのがきっかけで、人望を失った侠客を兄弟分となって救う「橋場の長吉」
・病気の親の看病のため不振に陥った力士と対戦して勝ちを譲る「佐野山権平・情け相撲」等の噺があります。

谷風も雷電もご存知の通り実在の力士です。それぞれの力士については今日は書きませんが、検索していただくと、沢山出てきます。
まあ噺は創作だと思いますがね。(^^)
でも聴いていて楽しいし、いい話ばかりですね。
当時、力士は庶民から見れば、スーパーマンの様な感じだったのでしょうね。続きを読む

「味噌蔵」と言う噺

ef2b762d今日は「味噌蔵」です。
少し時期が早いかもしれませんが、冬の噺なので・・・

驚異的なしみったれで名高い、味噌屋の主人の吝嗇(しわい)屋ケチ兵衛さん。
嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと、いまだに独り身。

心配した親類一同が、どうしてもお内儀さんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしない
と脅したので、泣く泣く嫁を取りました。
赤ん坊ができるのが嫌さに、婚礼の晩から新妻を二階に上げっぱなしで、自分は冬の最中だというのに、
薄っぺらい掛け蒲団一枚で震えながら寝ります。
が、どうにもがまんできなくなり、二階の嫁さんのところに温まりに通ったのが運の尽き。
たちまち腹の中に、その温まりの塊ができてしまいました。

 妊娠した嫁を里に返し、出産費用を節約する等をして節約します。
やがて男の子が生まれ、嫁の里に行くことになりました。
火の始末にはくれぐれも注意し、貰い火を受けたら味噌で目張りをしてでも、財産の味噌蔵だけは
守るようにと言い残して出掛けます。

旦那が泊まりの隙に、帳簿をごまかして宴会をやろうと皆で番頭に言って、刺身や寿司などを取り寄せます。
近所の豆腐屋には、冷めると不味いから、焼けた順に少しずつ持って来るように味噌焼き田楽を注文します。

 宴たけなわの所へ、旦那が戻って来たからたまりません。カンカンに怒り、全員生涯無給で奉公させると言い、酔っ払いを寝かせます。
 そこへドンドンと戸を叩く音。外から「焼けて来ました」の声。「え、火事だよ、どこだい」「横町の豆腐屋です四、五丁焼けましたが、あとどんどん参ります」驚いて旦那が戸を開けると、プーンと味噌の焼ける匂い。
「こりゃいかん、味噌蔵に火が入った」

田楽 は、中世の田楽法師が、サオの上で踊る形に似ているところから。
武士が大小を差した姿を「田楽串」、槍でくし刺しになるのを「田楽刺し」といいました。
どちらもその形状からです。
室町時代からあったといわれ、朝廷では、大晦日のすす払いの日に田楽を酒の肴にする習慣がありました。
「寄合酒」(ん回し)にも登場しますね。でもあちらは冷めてると思いますが・・・

この噺は三代目三木助師が有名ですね。噺の中に現代的なクスグリを入れて、受けました
噺の中で、火事の時、味噌で蔵に目塗りをすると言う下りですが、非常時には実際あったそうです。
最も後でそれを剥がしてオカズにする事は無かったそうですが・・・当たり前ですね。(^^)

口うるさい上司にその言うことを聞かなければならない部下という風に設定を置き換えて聞けば、身にしみて感じる人も多いかも知れませんね。
日頃の鬱憤を晴らす部下の抵抗は、どの時代にでもあったと言う事ですね。
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「かぜうどん」というお噺

udonya-thumbタイトルには「かぜうどん」といれましたが、上方の言葉を上手く書けませんので、あらすじ等は「うどん屋」で行います。
 まあ両者は同じものですからね。

 夜、市中を流して歩いていた、うどん屋を呼び止めたのはしたたかに酔った男。
「仕立屋の太兵衛を知っているか?」と言い出し、うどんやが知らないと答えると、問わず語りに昼間の出来事を話し出す。

 友達の太兵衛のひとり娘、みい坊が祝言を挙げた。あんなに小さかったみい坊が花嫁衣装に身を包み、立派な挨拶をしたので胸がいっぱいになった・・・。うどんやが相づちを打つのをいいことに、酔客は同じ話を繰り返すと、水だけ飲んでどこかに行ってしまう。
 ただで水だけ飲まれたうどんや、気を取り直して再び町を流すと、今度は家の中から声が掛かるが、
「赤ん坊が寝たところだから静かにして」
 でかい声はだめだ、番頭さんが内緒で店の衆に御馳走してやるってんで、ヒソヒソ声で注文するのが大口になるんだと思った矢先、ヒソヒソ声で、鍋焼きの注文。
 こりゃ当たりだなと、ヒソヒソ声で「さぁどうぞ」客が食べ終わって、勘定のときに
「うどん屋さんも風邪ひいたのかい」

 このような内容なのですが、東京はうどんは「鍋焼きうどん」となっています。これは江戸では、うどんよりも蕎麦でした。
 うどんが東京で流行ったのは明治維新後の事で「鍋焼きうどん」が流行りました。ですから、「かぜうどん」は大阪の江戸時代でも通じるのに対して「うどん屋」は明治以降でなければならないのです。

「うどん屋」は明治期に三代目小さん師が東京に移植したものです。そこからも「うどん屋」が当時、流行っていた「鍋焼きうどん」を想定していたと言えるでしょうね。
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