らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年12月

大滝詠一さん安らかに……

993acdaf74ceabfba39ff2b934a3f9b1今朝、衝撃のニュースが飛び込んできました。
歌手で音楽プロデューサーの大滝詠一さんが急死なされました。
――スポニチの記事より転載――

ミュージシャンの大滝詠一(おおたき・えいいち、本名=大瀧 榮一)さんが亡くなったことが31日、分かった。岩手県出身、65歳だった。

 30日に午後5時すぎ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ病院に運ばれたが帰らぬ人となった。警視庁福生署などによると、大滝さんは当時家族と一緒で、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と話しているという。119番通報で救急搬送する際には既に心肺停止状態だった。

 岩手県江刺郡梁川(現奥州市)生まれ。1968年に早大に入学後、細野晴臣を紹介され、70年「はっぴいえんど」としてデビュー。自身のレコード・レーベル「ナイアガラ」を立ち上げたほか、山下達郎や大貫妙子が所属していたバンド「シュガー・ベイブ」のプロデュースなどを行った。

 81年に、シングル「君は天然色」がヒット。同曲が収められたアルバム「A LONG VACATION」がヒット「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。松田聖子のアルバムプロデュースなどでも話題になった。

 97年には12年ぶりにシングル「幸せな結末」を発表し、フジテレビのドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌としてミリオンセラーを達成。来年3月21日には84年3月21日発売のヒットアルバム「EACH TIME」の30周年を記念して、「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売が予定されていた
――転載終わり――

正直、ショックでした。
働き出して、最初のボーナスでステレオ装置を石丸電気で買い、そのままレコード売り場に行き、
自分の働いたお金で最初に買ったLPレコードでした。
本当に擦り切れるまで何回も何百回も聴きました。
あの頃の自分にとって「世の中にはこんな素晴らしい音楽があるんだ!」と想わせてくれました。
これからも活躍されると思っていましたから、心の動揺が抑えきれません。

心よりご冥福をお祈り致します……続きを読む

ある暮れの一日

index今日は12月の28日ですね。
我が家では暮れの内にやって置かなければならない事があります。
しかも、家長(もう使っていない言葉ですし、戦後日本では家長制度は廃止されました)が行わなければならない事がかなりあるのです。
今日は、そんなお話……

今朝は、朝早く起きて、神棚と荒神様、大黒様のお社の掃除です。
真鍮製の色々な道具も金属磨きでピカピカに磨き上げます。

その時に、古いしめ縄を外しておきます。
綺麗になったら、古い御札を下げて、掃除した後に、先日神社で戴いて来た新しい御札を収めます。
「ええ、大神宮様、大神宮様、願わくば、私にも宝くじが当たります様に〜御願い申し上げます……」なんて「富久」の久蔵みたいな事をお願いします。
「7億円が無理ならせめて3億円、それが駄目なら1億円……じゃあ1千万、500万、100万、……10万でもいいですす!――駄目ならせめて5万じゃなかったら只、ただはいけません!」

それにしても、文楽師の「富久」は良かったなぁ〜そりゃ小三治師や志ん朝、志ん生師も悪くはないけど、やはりこの噺は黒門町だと改めて思いながら、しめ縄を飾ります。
大黒様や荒神様にも小さなしめ縄を飾り新しい御札を収めます。
その他に私の家は秩父の三峰神社を祭ってあるお社が他にあるので、そこには六尺の長いしめ縄を飾るのです。

それと、お供えを飾ります。店と家と飾ります。
大きなお供えの他に小さなお供えを家のあちこちに飾るのです。
箪笥の上、便所、等家中に10箇所ほどうらじろと一緒に飾ります。

その他にも色々とやるのですが、それは午後に廻します。
我が家の暮れはこうして過ぎて行きます。

今年も大変お世話になりました。
明年も相変わりませず、宜しくお願い致します。続きを読む

「掛取り」という噺

HITO-3今日は「掛け取り」です。
ものの本によりますと、初代林家蘭玉師の作と記載されていまして、その後2代目桂蘭玉師が大きくアレンジし、
現在の形に近い物になったそうです。
最も最近は演者の得意な芸を入れて演じられていて演題も単に「掛取り」と表記される事が多いです。

八五郎の家は大晦日だというのにお金がありません。そのことで女房と喧嘩になりそうなので、
困った八五郎は借金取りの好きな趣味で断りをしてやろうと思いつきます。

狂歌マニアの大家相手には「貧乏をすれど我が家に風情あり、質の流れに借金の山」などの狂歌を並べ、
最後は歌舞伎の菅原伝授手習鑑のパロディに持ち込んで返済の延期を約束させてしまいます。

魚屋の金公には、喧嘩っ早い相手の性格を利用。「借金をとるまで梃子でも動かない!」と言ったのを逆手に取り、「金が入るまで、そこに何十年でも座っていろ!!」とやり返して結局借金を棒引きにさせてしまう事に。

芝居好きの酒屋の番頭には、番頭を仮名手本忠臣蔵の上使に見立てて招きいれ、近江八景の駄洒落で言い訳した後芝居がかりで追い払ってしまうと言う離れ業。

三河屋の旦那には、旦那を三河万歳の「才蔵」に見立て、萬才の調子で「待っちゃろか。待っちやろか。待っちゃろかと申さあば。ひと月ならひと月目、二月なら二月目、こけら〜じゃどうだんべえ。」「なかなか、そんなことじゃあ〜勘定なんかできねぇ」「できなけれぇば、待っちゃろか」の掛け合いに持ち込み、最後には呆れた旦那が「ならばいつ払えるんだ」と問うと、「ああら、ひゃーく万年もォ、過ぎたなら(払います)」

元は上方落語ですが、上方では「掛け取り」または「天下一浮かれの掛け取り」という題で演じられます。
ちなみに、初期の型では八五郎が自宅内に篭城してしまい、困った掛取りが隣の主人に「火事だ」と叫んで追い出してくれと頼むが、八五郎が窓から五十銭出して「これで火を消してくれ」とやり返してしまうと言う落ちが使われていたそうです。

昔は掛売りですから、大晦日に払わなくてはならず、まとまったお金が必要でした。
そのお金が無い!と言うのですから一大事な訳です。
三代目金馬師は払いを節分まで延ばし、演題も「節分」と言う題で演じていました。

落語協会副会長の柳亭市馬師は得意な歌で、それも三橋美智也さんのファンと言う人を登場させて、噺の中で思う存分歌っています。
とにかく芸達者な演者に掛かると、この上なく楽しい噺です。
続きを読む

夢金と言う噺

img_462095_28986087_0ここのところ、かなり寒いので皆さん体調管理にはお気をつけ下さい。
で、今日は「夢金」です。

話は、安永2年(1773年)に出版された笑話本・「出頬題」の一遍である『七福神』。別題として「欲の熊蔵」「錦嚢」などがあります。

欲深い船頭の熊は、今夜も二階で「百両欲しい」と寝言を口にしながら眠っています。
雪の降りしきる静かな晩だけに、金勘定をしているのではと、泥棒に勘違いされはしないかと気が気でない船宿の夫婦。
その時、おもむろに戸を叩く音がします。ようやく戸を開けてみると、文金高島田を身に付けた綺麗な女性を連れた、およそその相手に似つかわしくない浪人風情の男が立っています。
事情を聞くと妹を連れての芝居鑑賞の帰りで、屋根船をあつらえたい旨を伝えてきたが、肝心の漕ぎ手がいないからと、一旦店の者は断るのですが、そこに聞こえてきたのが熊の寝言で、ならば酒代をはずむからということで、熊を船頭にいざ出発します。
舟が進み始めてしばらくした時、男が熊に相談を持ちかけてきたのですが、その内容は連れている女は妹でもなんでもなく、懐に大金を持っているから連れてきたということで、熊の欲深いところを見込んで二人で殺して金を山分けしようという、とんでもないものでありました。
駄賃を2両くれるというのですが、武士が泳ぎが出来ないと分かると、人殺ししてまで金は欲しくないし、2両とはしみったれているので嫌だと、震えながら交渉。
すると山分けにしよう、と相談が決まった。船の中で殺す訳にはいかないので、中洲に降ろしてそこで殺す事に決まりました。
浪人をまず中洲にあげといて、とっさに船を大川に引き戻し、「もー少しで、上げ潮になって背が立たないぞ〜」悪態を付きながら船をまなべの河岸に着けて、色々聞くと本町のお嬢さんと分かりました。
 家に連れて行くと、大騒ぎの最中。お礼は後日伺うが、まずは身祝いと酒手を差し出します。
どうせ殺しを手伝っても、その後で斬り殺されてしまうのが関の山と、断りつつ受け取ったが、失礼な奴でその場で包みを破いて中を見ると、50両が二包み。「100両だ! ありがてぇ」両手でわぁ!と握りしめると、あまりの痛さで目が覚めた。
「アァ…夢だ」

タイトルにあるように夢を題材にした噺。
そのタイトルからネタ割れしてしまうのですが、果たしてどこからどこまでが夢の中の出来事なのか、そのあたりを想像しながら噺を楽しみたい噺ですね。
サゲに来て、「夢」と「金」の正体が分かる仕組みになっていますが、最近ではあまり綺麗なサゲでないと言われているので、貰った金を手にして「百両〜」と叫んで、目が覚めるといったサゲなどが一般的になっています。

男が頼んだ船は”屋根船”と言います。
屋根船とは、屋根のある小型の船で、屋形船より小さく、一人か二人で漕ぐ屋根付きの船。夏はすだれ、冬は障子で囲って、川遊びなどに用いた船で、別名、日除け船とも言いました。続きを読む

「大師の杵」と言う噺

217b4919弘法大師とは、空海上人とも呼ばれ、日本に真言宗を広めた偉いお坊さんですね。
知らない人は居ないと思いますが・・・・

空海上人22歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教しました。
美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていきます。
宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人でしたが、最近、そのおもよさんが痩せてきたと言う。
婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けます。
ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまいます。
この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけた。

 おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻で、布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思います。
一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解りませんが、惚れた弱み、上人を追いかけます。

 六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞き、今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ません。
悲観のあまり多摩川に身を投げてしまいます。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面します。
その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔りました。
近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になりました。伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う事です。

 小朝師がその真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。

弘法大師の生涯には、二十代の若き日に謎の空白期があるとされ、その時期の恋物語を無責任に想像したのがこの噺で。噺の舞台が落語にはめずらしく川崎になっているのは、言うまでもなく川崎大師からの連想だと思います。

川崎大師は、川崎大師のHPから引用しますと・・・・
今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、 ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、 わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。

 ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、 海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。

兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。

それは、大師の尊いお像でした。 兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。

 その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。

 法灯をかかげて、悠久ここに880余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる 帰依をあつめています。

となっています。噺はみんな”ウス”でした。(^^)続きを読む

「鍋草履」と言う噺

44e44935今日は寒くなってきましたので「鍋草履」と言う噺です。

芝居茶屋の若い衆が誂えの鍋を梯子段の下へ置き、幕が閉まるのを待っていたが、
舞台で上演中で出入り止めになっていて、客のところへ鍋を持って行く事ができない、仕方なくその幕が終わるまで芝居見物を決め込みます。
ところが、そこへ降りて来た客が、鍋へ足を突っ込んでしまいます。
「知らぬが仏、見ぬもの清」だから、そのまま食べさせてしまえと言われ、そのまま持って行ってしまいます。

お客は遅いとイライラしながら待っています。そこへ持ってきたので、早速食べる事にします。
中身はと見ると、崩し豆腐に崩し魚と変わってるが中々のいい味。
食べ進むに連れて、何やら硬いものがあります。
そこへ、先ほどの男がやってきます。若い衆が何事かと聞くと「鍋の中の草履を取りに来た」

この噺は、初代圓右師の録音が残されていますが、長らくやり手がなかった噺を、現芸協会長の歌丸師が復活させた噺です。今では歌丸一門はもとより、芸協の若手も演目に掛けます。

当時の芝居見物は飲み食いしながらの見物で、注目の場面になると真剣に見物するというスタイルだったそうです。
その為、薄暗い場内で見栄をはる顔を良く見るため、顔を照らす黒子さんもいました。
そういう時等に掛け声が掛かったようです。
ですから、中村仲蔵等は、一発決めたのに、シーンとしてる場内をみて、「やりそこなった」と感じたのでしょう。

この噺は、芝居茶屋の若い衆が止められてるので、忠臣蔵の四段目あたりだと思われます。
続きを読む
 
最新コメント
記事検索
月別アーカイブ