らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年10月

高田馬場という噺

6e5870f3今日は「高田馬場」です。
実は、先週からピロリ菌の除去の薬(ランサップ400)を飲んでいました。
今朝の投薬で1週間飲み終わりました。
私はお酒は呑まないので、その点は普通の生活をしていました。
飲んでいて途中から胃の調子が良くなったのが判りました。
何となくですが空腹時の胃の痛みが無くなりました。
これが効果?でしょうか?
いずれにしろ、ひと月後と言われた検査が楽しみです(^^)

で、「高田馬場」の噺です。
1758年「江都百化物」の「敵討の化物」が源話です。
前半は「ガマの油」と同じですね。後半は一見敵討ちモノと思える様な展開ですが・・別名;仇討ち屋とも言います。

浅草の境内でガマの油売りの口上を聞いていた老侍が、二十年前の古傷にも効くかと聞いて来ます。
昔、配下の奥方に懸想して、手込めにせんとしたところへ夫が戻り、これを切った。まずいと思って逃げたが、乳飲み子を抱いた奥方が投げた刀が背中に当たり、寒くなるとその古傷が痛む。名は岩淵伝内という。
これを聴いた蝦蟇の油売り、
 「やあ、めずらしや岩淵伝内、その折の乳飲み子とは拙者のことなり、親の仇、尋常に勝」
「いや、今は所要の帰り道、役目を果たして明日改めて討たれよう、場所は高田馬場、時は巳の刻に」ということで双方が納得で別れます。
 本物の敵討ちが見られるとの噂が噂を呼び、翌日には高田馬場に大勢の見物人が集まります。
待つ間に酒を飲む、甘味を食べる、茶を飲むと茶店は何処も大賑わい。大変な賑わい様。
しかし、いつまで待っても仇討ちが始まらないので、近くの店に入ると、昨日の仇の侍が酒を飲んでいる。
訳を聞いたら、仇討ちは人を集める芝居で茶店から売上の一部を貰う商売をしている。ガマの油売りは息子だ。
「そうやって楽う〜に暮らしておる」

高田馬場は、寛永13年に旗本達の馬術の練習をする為に作られました。
 享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木が造られ、8軒の茶屋が有ったと言われています。
土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと。
また、ここは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社(西早稲田3−5−43)の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っています。

三代目金馬師は圓馬師とドサ回りに出た時、金沢の浅野川の橋の袂で、ガマの油売りの口上に出会いますが
あまりにも下手なので、代わりに口上をやり小遣いを貰ったそうです。
後で圓馬師に「そんな事をやってはいけない」と叱られたそうです。

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「鍬潟」という噺

20110826_2309065今日は「鍬潟」という噺です。

原話は安永6(1777)年に大坂で刊行された笑話本、「新撰噺番組」巻五の「一升入る壺は一升」です
上方落語で、東京にいつ移植されたかは、不詳だそうです。
5代目圓生師が高座に掛けていたそうです。
それを6代目圓生師が継承しました。
私は高座でこの噺を芸協の若手の高座で聴きましたが、「逃げの噺」として演じていたそうです。
志ん生師だと「義眼」というところですね。

身長が二尺二寸(68センチ)という小さな男が隣の長屋の甚兵衛さんに、自分の身長の事を嘆くと、
甚兵衛さんは、「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、誰にも負けない働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をします。
その鍬潟も、三尺二寸(97センチ)しか身長が無かったのです。

ある時、江戸で無敵の大関・雷電為右衛門と鍬潟を対戦させようと云う事になりまして、鍬潟が江戸にやってきます。
鍬潟は策を考えまして、エイの油を体中に塗りたくります。
いざ対戦という時になり、雷電は鍬潟を捕まえようとしますが、滑って中々つかめません。
さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番になります。

「おのれ鍬潟、来年はみてろよ」と雷電は捲土重来を期します。
さて翌年今度は雷電が大阪にやってきて、鍬潟の家を訪ねます。
すると7人もの子沢山です。
「勝負師は子供を作ると弱くなると言って作らんもんだが、あんたはこんなにも沢山の子供を作って、
なを、あの勝負根性」
「見事なもの、是非兄弟の縁を結んでくれ」
そう雷電は鍬潟に頼みます。
鍬潟は「あんさんが兄で・・・」といいますが、
「いや、勝負に勝ったあんたが兄さんだ!」
そう言って兄弟の契を結びました。
8尺の雷電が4尺の鍬潟の弟になったというお噺でした。

これを聴いた男は自分も奮発して相撲取りになります。
そして猛稽古をして修行を積みます。
ある日、稽古疲れで、家に帰ると高イビキ。
起こされると、布団から手足が出ていたから、
稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。
女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

鍬潟は、架空の力士ですが雷電は実在の力士で、江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回、
生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。
文化8(1811)年2月、43歳で引退。
という記録が残っています。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にする事がありました。
でも、実際に割りを組んで、相撲は取らせる事は無かったそうです。

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浅草演芸ホール10月下席初日夜の部

4cca5763昨日は仕事がお休みでしたので、浅草の夜席に行きました。
本当は昼席に行きたかった! だって茶楽師が出るからですが、色々と用事が重なりまして、断念!
それで夜席になりました。

夜席に開場(招待券の人が入れる時間)よりわずかに遅くなってしまいました。
昨日は2階席も開いていましたので、当然2階に上がります。
2階の一番前の端で見るのが好きなのです。

昨日は初日だというのにプログラム通りに全く行われないのです。
これなら、前後5日間で行う意味がありませんね。
ほとんど、代演……まあ、予定通りだとかなり酷いメンツでしたから、返って良かったのですが……

中に入ったらもう前座の遊松さんが「道灌」を演じていました。
この人、遊三師のお弟子さんなんですね。経歴を見ると昨年の入門なんですね。
それにしては達者でした。
それでは順に紹介していきます。

・可龍……「コウモリの恩返し」(こうもり) 小朝師以外で始めて聴きました。可も無し不可も無しといった感じです。

・神田京子……「山内一豊、出世の馬買い」 講談は評価するほど聞いてないので、パスです。

・夢吉……「蜘蛛駕籠」の枕だけ。慢談の部分が長い! 高座はやっと明るくなったけど……噺しろよな!

ここまでプログラムに書かれている人は出て来ていません……酷いでしょう?

・鯉朝……「夏泥」 結構まともに聴けてしまったw 比較の問題でしょうか?

・南玉……曲独楽

・里光り……「始末の極意」 この人これが多いな!捨てネタか? はっきり言ってこの人才能無い!

・南なん……「幇間腹」 陽気で結構でした。

・マジックジェミー この時隣のおばさんが、本気で高座のジェミーさんと会話しようとして大声を出すのがウザかった。帰ろうと思いました。

・小南持……「写真の仇討ち」 演者が違うとこうも違うか!という見本。良かったです。

さてトリの遊雀を楽しみにしようと思っていたら、携帯が震え出しまして、用事ができてしまい。やむなく帰宅する事になってしまいました。

出場演者が殆んど変わってしまっているのに、演芸ホールが何の張り紙もしてないのがおかしいですね。
だから前の道路に出している演者の木札がガラガラで殆んどはまって無かったのですね。
それが不親切だと思いました。
相変わらず若い兄ちゃんは態度悪いしw
改善して欲しいですね。続きを読む

新宿を舞台にした噺

hirosige今日は、内藤新宿を舞台にした噺「文違い」です。

落語で新宿を舞台にした噺は珍しく、「四宿の屁」「縮みあがり」くらいしかありません。
珍しいと言えますね。

 父娘の手切金として五十両を工面して、夫婦になろうと花魁に持ちかけられた半ちゃんは、
走り回ったが二十両しか作れなかった。
 それではと、花魁が、病気の母の薬代として三十両欲しいと向かいの部屋の田舎おやじ客、
角さんの馬の買付金をだまし取った。
 合わせて五十両を母に渡して来ると出ていった花魁は、その金を若い男に眼病の治療費として渡した。
男が落としていった手紙を読むと、新宿女郎を騙して五十両を作ってもらうとの女文字で、騙されていたことを知る。
 一人部屋に残された半ちゃんが箪笥からはみ出した手紙を読むと、半ちゃんを騙して五十両を作り、
その金を男に貢ぐ内容。
そこへ花魁が戻ると、よくも騙したなと叩く。
 向かいの部屋で聞いていた角さんが、店の者を呼び付け「大金とか色男とか騒いでいるが、
ワシが母親の薬代としてやった金だから心配するなと止めてくれ。
いや待て、それではワシが色男だとバレてしまう」

最初の花魁がつく嘘ですが父親ではなく母親として演じるときもあります。

新宿は、正式には「内藤新宿」と呼ばれ、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。
また、甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。
元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。
明和9年(1772)に復興しました。
一度廃止されたのは遊郭として栄えすぎた為と言われています。
遊郭と言えば、志ん朝師が「うちのオヤジは貸座敷といつも言っていた」と
言っていましたね。本来はこう呼ぶのだそうです。

今は繁華街になって、ビルの群れですが、明治の頃はかの圓朝師の家もありました。
花園公園の中に碑が立っています。明治21年から28年(1888−1895)まで住んでいたそうです。
かなり大きな家だったらしく、この公園と隣の花園小学校を合わせた敷地だったそうです。
今度、末広亭に行く時にでも観ておきましょうね。

今でこそ西新宿は高層ビルが立ち並んで都会になっていますが、
かの圓生師が柏木(西新宿)に住んでいた時、贔屓から「可哀想に」とか「大変ですね」とか
かなりの田舎に住んでいたと思われたそうです。


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道灌という噺

1850d4e8今日は柳家の噺家さんが最初に教わるという「道灌」です。

初代林家正蔵の咄本『笑富林』(1833年刊)に原型が見られる。江戸発祥の落語です。
8代目桂文楽師匠が初めて高座で演じた噺だそうです。白梅亭という寄席での事だそう・・・・

八つぁんがご隠居の家に遊びに来ていて、ふと目に止まった絵を訪ねます。
 鷹狩りに出た太田持資公が、俄かの村雨に合い、雨具を借用したいと山中のあばら家を訪ねると、少女が盆の上に山吹の花を差し出した。
中村一馬が兼明親王の古歌「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」で(実の)と(蓑)をかけ合わせた断りの意味でしょうと、解説すると、まだまだ自分は歌道に暗いと帰城した。
後に入道して大田道灌となり返歌をした。「急がずは濡れざらましを旅人の後より晴るる野地の村雨」
よし分かった、傘借りに来たとき雨具がねぇって歌だと勘違い。
相手がこの歌知らなかったら、その人は歌道に暗いって事だなと勝手な思い込み。
 家に帰ると、雨が降り知人が訪ねて来た。提灯を貸してくれというのを無理に雨具を貸せと言わせ、
件の歌を聞かせた。この歌知らねぇようじゃ歌道が暗いな。
「ああ、角が暗いから提灯借りに来た。」

都電荒川線「面影橋駅」の側に掛かる「面影橋」のたもとに、「山吹の里」の碑が建っています。
この辺から下流の江戸川橋までの一帯は昔「山吹の里」と呼ばれていた所だそうです。
噺の舞台は、きっとこの辺だったのでしょうね。
現にこのあたりには、落語に登場する話しと同じ様な逸話が残っています。

東京落語では、入門したての前座へのはじめての稽古を、この噺からはじめる一門が多い(特に柳家)ので、
そのため代表的な前座噺です。寄席等でも高い確率で聴けます。
古今亭は「からぬけ」ですね。

五代目小さん師等はこの演目で寄席などでトリの演目に掛けていましたが、これは小さん師ならではだと思います。
私は、同じ様なので六代目圓生師が「たらちね」をトリで演じたのを聴いていますが、それは見事なものでした。
でも他の噺家さんでは駄目だったでしょうね。
前座噺を見事に演じる事が出来たら名人とも言われています。
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松曳きという噺

mDSC_8635今日は「松曳き」です。
粗忽の噺の一つですが、この噺に登場してくるのは、実はお殿様なのです。
主人であるお殿様と家臣の三太夫さんがともに物忘れのたちで粗忽者。
お互いに噛み合わないことを言い立てるうちに状況がどんどん混乱してくるという構成になっています。

江戸詰のさる殿様が家臣の田中三太夫を呼び出します。
このお殿様と三太夫さんは、物忘れが激しいうえに粗忽者。
二人はいつも周囲の混乱を招きます。
お殿様は庭の築山横にある赤松を泉水べりへ移そうと提案しますが、三太夫さんは先代の植えた松が、万が一枯れるようなことがあってはいけないと直言します。
「餅は餅屋と申します」と本職の植木職人に移植が可能かどうか訊ねますが、なぜか「餅屋!これ餅屋!」と餅屋を呼びに行ってしまう。やっと呼び出された植木職人が殿様と対面し、松の移植について言上するが、三太夫に「言葉は丁寧に。あたまに”御”、おしまいには”奉る”の言葉をつけるように」とアドバイスされたので、滅茶苦茶な会話になって仕舞います。
そうこうするうち、三太夫に国表(故郷・地元)から書面が届く。書面に目を通した三太夫さんは顔色を変えます。
そこには、「国表において御殿様、姉上様、御死去」、つまり殿の姉が死んだという趣旨が書かれていたのです。
三太夫さんは急いで殿の元へ戻り、このことを報告しますが、実は書面を詳しく読まずに急いで来てしまったので、再び書面を確認しに、帰宅すると、そこには『国表において、御貴殿、姉上様、御死去』、つまり自分の姉が死んだという内容だったことに気いたのです。
このことを改めて殿に謝罪しますが、お殿様は激怒し、三太夫に切腹を申しつけます。
三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていたお殿様、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」

五代目小さん師を初め、談志師が得意にしていました。
今では白酒さんが得意にしています。
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