らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年07月

暑い!怪談噺を聴こう!

90629e88-s今日は怪談噺「妲己のお百」を談志師で聴いて戴きます。
去年もやったんですが、年に一度位はこう云う趣向も良かろうと思いましてね。

実は「妲己のお百」とあだ名されるとんでもない悪女は、今は美濃屋の”こさん”として女主人になっている。
そこへ元は芸者で目を患っている”みねき”ちが、娘”およし”を預けにくる。”こさん”の勧めで”みねきち”は医者にかかって泊まりの養生をすることになったが、そのあいだに”こさん”は一芝居打って”およし”を吉原に売り飛ばしてしまった。
 いったん美濃屋に戻った”みねきち”は「”およし”に会いたい」と言うが、こさんは適当な言い訳で誤魔化して先延ばしにする。再び目が悪くなり、物音がする度に”およし”のことを言うので、バレる前に昔の仲間の重吉を雇って殺してしまうことにする・・・

悪い女ですねえ、自分の事しか考えていないという性格で、この後の殺しの場面は凄い迫力があります。
談志師匠怪談噺として、音源を残してくれていますが、さすがに良いです。
最も最後に照れるのがカワイイです(^^)

妲己のお百とは
「妲己」は中国殷王朝末期の妃で、悪女の代名詞的存在とされました。狂言作者・河竹黙阿弥の「妲己のお百」で知られる吉原の遊女、毒婦のお百が生まれました。秋田藩佐竹家の御家騒動に絡んで夫の那珂忠左衛門は斬罪となり、彼女はその後転変の人生を送ります。その転変ぶりは「秋田杉直物語」や「増補秋田蕗」などで彼女の性格を拡大して描かれ、京・大阪・江戸をへめぐった淫婦として、妲妃の名前を冠して講談「妲妃のお百」となり、歌舞伎化されました。

稀代の悪女って事なんですね。

※ 本日上方落語の笑福亭松喬師がガンのためお亡くなりになられました62歳でした。
若すぎますね。これから大輪の華が咲くという時期でしたのに……
心よりご冥福をお祈り致します。南無……続きを読む

浅草演芸ホール7月下席9日目

4cca5763今日は休みなので寄席に行こうと思ったのですが、用事が山の様に溜まっていまして、しかも夏風邪を引きまして体調が最悪なので、諦め様と思いましたが、何とか都合をつけてちょっとだけ覗いてきました。

着いたのは午後の2時半少し前で、嫁さんに車で送って貰いました。
車から降りてメガネが真っ白に曇ってしまった処を寄席から出て来たさん吉師匠にからかわれて仕舞いました。
どうやら、顔は兎も角身体で何となく覚えられていたみたいです。

入場しますと1階はほぼ満席で2階も7割は埋まっていました。
夏休みのせいか、異常に子連れが多く、ちょっと嫌な感じがしましたが皆大人しく見ておりました。
高座には馬風師が上がっており、三平、こぶ蔵の悪口を何時もの、様に話していました。

次は小里ん師で「長短」でしたが、増々5代目を思い出させる高座ぶりでした。
仲入りの後の食いつきは歌奴さんで懐かしい「都々逸坊や」でした。
これかなり古い新作で私が子供の頃梅橋さんなんかが良くやっていましたね。

猫八さんが黒の紋の入った着物姿で座って高座を勤めます。
噺の中に物真似を入れた型ですね。新境地かも知れませんね。

次が歌る多師で「つる」で調子の良い噺を聴かせてくれました。
次は代演で菊丸師で「たがや」です。季節の噺なので必ず何処かで掛かりますね。

そして、鏡仙三郎社中の太神楽が終わるとトリの歌武蔵師です。
今日は相撲の漫談でしたが、歌武蔵さん以外は話せ無い世界を話してくれました。
面白さで言えばかなり面白かったです。

ここで昼の部は終わりでしたが、今日は夜の部の浅い出番で蜃気楼龍玉さんが出るので見て帰ろうと思い残りました。

前座が志ん輔さんの処の半輔さんです。今日は元気さとお客とが合わない感じでかわいそうでした。
いいものを持ってると思います。演目は「寄合酒」でした。

そして志ん公さんで「転失気」でしたがサゲが違っていて「奈良時代からです」というものでした。
オリジナルも?ですがこれも?ですね。

そして蜃気楼龍玉さんです。演目は「子ほめ」でしたが、普通はこの噺はテンポ良く演じるのが普通です。
そういないと熊さんの粗暴さが目立ってしまうからです。
処が龍玉さんはワザとテンポを落としてじっくり語ります。
もうこの噺は殆んどの方が内容やサゲを知ってる噺なので、段々お客が焦れてくるのが私にも判りました。
ギリギリまで粘った挙句、赤ん坊を間違いの文句で褒めるシーンでテンポを早め一気にサゲまで持って行きました。
う〜ん、この演出に賛否はあるでしょうが、寄席でこういう演出を見れたのは幸いでした。
さすがと言えますね。
ここで具合が悪化したので帰宅しました。
まあ、満足の行く日でした。本当はこの後さん喬師とか、馬石さん、白酒さんなんか出たのですがね(^^)

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東京かわら版8月号より

img002今日は「東京かわら版」8月号より話題を拾ってみたいと思います。
表紙は五街道雲助一門の真打三人衆ですね。
桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉の三人です。

・「落語と私」はこの度ドラマで立川談志師を演じる事になった中山秀征さんです。
演じるにあたってあらゆる資料を読み尽くしたそうで、ご自身の談志論を語っています。
まあ概ね外れてはいないと思います。

・対談は表紙の三人です。
修行時代の事、特に前座時代の事を楽しく語っています。

・「お二階へご案内」の兼好さんのコラムは、兼好さんはクーラーが苦手で嫌いなので家では点けていないのだそう
で、暑い時は裸族になってるのだそうです。

・若手の紹介は 柳家喬の字さんです。
入門10年目だそうです。

・地域寄席の紹介は北沢タウンホールです。
ここは色々な発表会に使われますね。実は私も知人や妻の趣味で何回か行きました。
周りの道が狭くてね。車だと往生します。

・本日のお題は 「ガーコン」です。 ご存知川柳師の名作ですね。
前座時代の右朝師が命名し、そのセンスを気に入った川柳師が採用して二人の交流が始まったそうです。

・堀井ちゃんのコーナーは雨の降る噺は何時頃聞けるのか?というデーターを駆使した話で、
演目にもよりますが、「笠碁」も「夢の酒」も6月が一番多いという事でした。
でも僅かの差ですがね。

・ニュースでは、明治の落語の速記が載っていた「百花園」が電子書籍化されるそうです。
今回は1〜60号迄で3000円だそうです。
紀伊國屋書店kinoppy等で購入可能だそうです。

今月はこんな処で……続きを読む

貴方の家の傍の砂場にも……

1103-1今日は「黄金の大黒」です。

明治末から昭和初期にかけて、初代春団治師の十八番だった上方落語を、金語楼師が東京に持ってきて、脚色しました。
今でもよく演じられる噺ですが、残された音源は少ない様です。

長屋の一同に大家から呼び出しが掛かりました。
普段から店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、
店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりなので、
てっきり滞納で店立ての通告と思い込みます。

ところが、聞いてみると、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、
大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。
お目出度い事なので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、皆一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ご馳走になるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていません。
中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、もう大変。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物です。
それでも、無いよりはマシなので、、交代で着て、変な祝いの口上を言いに行きます。

そして、待ちに待ったごちそう。
鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、
さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、
寿司をわざと落として、
「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。
そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、呑や歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、
見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

大黒様は、もとは大黒天と言い、インドの戦いの神で、シヴァ神の化身であるマハーカーラと言い、
頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進したという訳です。

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、
門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人が居たそうです。

この噺を聴いて今ではこのような大家さんはいないでしょうね。落語の世界ならではですね(^^)


※ 24日の今日、「若大将のゆうゆう散歩」が放送されました。明日も堀切からだそうです。続きを読む

このお殿様は何処の国の方だろう?

jpg今日は「盃の殿様」です。

生粋の江戸落語ですが、原話その他、がハッキリとは分かってないそうです。
二代目柳家(禽語楼)小さん師の明治23年の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、
六代目三遊亭円生師が、十八番に仕上げた噺です。

今では、小満ん師や喜多八師等数多くの噺家さんが手がけますね。

心の病に臥せった大名が、花魁のの錦絵に興味を示しました。
大名が吉原に行くのは如何なものかと重役が協議をした結果、病気治癒のためなら止むを得ないということになり、三百人の行列で繰り出しました。
冷やかしのはずだったですが、殿様が花扇花魁に夢中になってしまい、それから、毎日のように吉原に通いましたが、ついに国表に戻る日が来ました。
 
国表に戻っても、花扇のことが忘れられず、江戸までの三百里を十日で往復するという藩内一番の速足、
足軽の早見東作に命じて、江戸の花扇に七合盃の使いに出しました。
 花扇は快く飲んで盃を返してくれました。
国に帰る途中で早見は、さる大名行列を妨げた廉で捕らわれ、詮議の結果、話を聞いた大名が感銘して、盃を空けて主君に返すように命じました。

国元に戻って子細を説明すると、殿様は「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」と、殿様が盃を空け、
その大名に返盃をするように命じたのですが・・・・
 返盃を命じられても、どこの大名か分からず、早見は未だに日本中を探しているという・・・・

このお殿様のお国ですが、足の早い者で片道五日で江戸迄行けるという範囲ですから。九州というほど遠くは無いと思うのです。
北だと仙台あたりでしょうか?西だと大阪あたりですかねえ?
噺を聞きながらそんな事を想像して仕舞います。

ところで、遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、
一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。
太夫は、享保年間(1716〜36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六,七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、元々この二つを併せた尊称が「花魁」と呼ばれました。
これは、禿が自分が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で
「おいらん」と呼んだことからだとか。

ところが、宝暦7年ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がってその下だった散茶女郎が
トップに出て、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになったそうです。

「遊女」という言葉は幕府公認の遊郭のいる女郎の事で、「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、
江戸では吉原以外にこの名称は許されなかったそうです。
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鮑のお爺さんって何?

8_480360今日は「鮑のし」です。

原話は、米沢彦八が元禄16年(1703年)に出版した「軽口御前男」の第一巻・「見立ての文字」です。
元は上方落語で、志ん生師や馬生師等が得意にしました。
また、木久扇師も演じます。その関係か彦いちさんもやりますが、志ん生師とは比べられません。
与太郎だか甚兵衛さんだか判らない演じ方でしたね。これはがっかりでした。

甚兵衛さんは人柄は良いのですが、いまいち生活力に欠ける男です。
今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。おかみさんに「何か食わしてくれ」とせがむと…?
「おまんまが食いたかったら佐々木さんちで五十銭借りてきな」
この前、甚兵衛さん一人で借りに行ったら断られた。しかし、おかみさんが貸してくれと言っていたと告げれば…。

半信半疑ながらも佐々木さんのところへ行き、「ウチのかみさんが」と言ったら…借りられた。
首をひねりながらも家に帰ると、今度は魚屋で尾頭付きを買って来いというご命令。
「今日、大家さんの息子さんが嫁を迎えるんだよ」
そのお祝いだと言って尾頭付きを持って行けば、あの大家さんの事だから、祝儀にいくらかくれるだろうから、その金で米を買って飯を食わせてやる…との事。

「お飯が食えるぞォ!」
ウキウキ気分の甚兵衛さん。ところが、魚湯に行くと鯛は五円。買えない。しかたがないから、アワビ三杯を十銭値引きでなんとか買ってきた。
帰ってくると、かみさんお渋い顔をしたが、まぁ仕方がないと諦めて今度は大家さんのところで言う口上を教える。

「こんちはいいお天気でございます。承りますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます」
いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)が参りますけれど、これはそのほか(個人としての祝い)でございます…というのを強調し、何とかご祝儀をもらって来いと甚兵衛さんを送り出す。

大家に会うと、いきなり大声で「一円くれ」。『コンチワ』を連発したり、承るを『ウケマタマタガレ』などと言い間違えたりしながらも、何とか向上を言いきって引き出物を差し出した。
「これ、アワビだよなぁ。このアワビ、アンタの一存で持ってきたのかな。それともおかみさんと共同かな?」
甚兵衛さんが「家内と共同」だと答えると、何故か大家さんはこれは受け取れないと言い出した。
「どうして? 受け取ってくれないとオマンマが…」
何しろお飯が懸っているため、甚兵衛さんは引き下がらない。とうとう大家さんは怒りだしてしまった。
「アワビはな、一名『片貝』ともいう縁起の悪い貝なんだ!」
【磯の鮑の片思い】というのを知らないのか…とか、うちの息子を別れさせたいのか…とか言いたい放題。
挙句の果てに、貝を思いっきり投げつけられてしまった。

「お…おまんまが食えない…」
ショックと空腹でフラフラになった甚兵衛さんが、すごすご帰る途中で親分とバッタリ。
話を聞いた親分は、一つ意趣返しをしてやれとこんな策を授けた。
「祝い物には『熨斗』って奴が付いているだろ? あれはアワビから作るんだよ」
海女が深い海に潜り、命からがら取ってきたアワビを仲の良い夫婦が協力して熨斗に仕上げるのだ。その根本であるアワビを、なんで受け取らないのか…!!
「そう言って怒鳴り込んでやれ! 土足で座敷に駆け上がって、クルッと尻をまくってやれ!」
「今、褌しめてねぇ…」

それは置いといて。あの大家の事だから、ついでにこんな質問をしてくるだろう。
「『仮名で"のし"って書いた奴があるが、あれは何だ?』って聞いてくるだろうから、こう言ってやるんだよ。
【あれはアワビのむきかけです】ってな」
知恵をつけられて、やる気になった甚兵衛さんはものすごい勢いで大家の家に突入。本当に土足で座敷に上がり込み、「クルッと尻をまくってやりたいところだが、事情があって今日はできねぇ。よく聞けェ!」
所々つっかえながらも、何とか件の向上を言いきった甚兵衛さん。感心した大家さんは、もう一円上げるから、ついでに「仮名でノシ」…と親分の予想通りの質問をした。

「なるほど。じゃあ、今度は二円あげるから、もう一つ答えてくれないかな。仮名でノシと書いた奴に、一本杖をついたような『乃し』というのがあるが、あれは一体何なんだ?」
「え!? …あの、それは…。あ、アワビのお爺さんでしょう」

上方では三代目春團治師が有名ですがオチも、
「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になったある」
となっています。

熨斗は、本来はアワビの一片を、方形の色紙に包んだもので、
古く室町時代から、婚礼の引き出物として珍重されましたが、
紀州産限定で生産量が少なく、次第に「の」「乃」など、文字で代用したものが普及しました。
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