はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年05月

妄想小説「落語三遊協会」

TKY200905300096今日は趣向を変えまして、藪先生のブログで三遊協会が存続したいたら?と言う話がでまして、小説にしたら面白いかもと言われましたので、不肖私hajimeが小説らしきものを書いてみました。
話としては発端の処です。
続きは考えていません。
思いつきの妄想小説なので、出来や公証はめちゃくちゃです。それでも良ければ読んでみてください。


「それじゃ、後は頼みましたよ」
そう言って圓生は三人の中堅噺家に見送られながら、玄関を後にした。
三人は圓生が達者に神楽坂の階段を降りて行くのを見送りながら
「さて、飲み直そうか」
誰が言ったか判らないが皆同じ気持ちだったのだろう。異論は無かった。

「お姉さん、お酒ね。適当に持って来て」
今日の幹事の圓楽が陽気に言うと中居は笑顔で下がって行った。
「なあ、強次、圓生師匠はああ言ってたが、俺に副会長の座、譲れよ!」
いきなりの注文は談志である。
強次とは古今亭志ん朝の本名である。

この日、圓楽、談志、志ん朝に加えて落語界の重鎮圓生はある秘密の会合を持っていたのだ。
それは……
「いや、兄さん、それはマズイよ、師匠は私にって先ほども言って帰って行ったばかりだし」
「だから、お前が辞退すれば、代わりに俺がやると言うんだよ」
「でも……こういっちゃ失礼だけど、私は噺では兄さん方に負けるとは思っていない。だから香盤を飛び越えて真打になれたのだと思う」
「どうしても駄目か、ああ」
「そうですね……」
「なら仕方あるめえ、これまでだ」
そう言って出て行こうとする談志に向かって圓楽が
「由ちゃん、ちょっとお持ちよ。急いで帰る必要は無いよ」
「何だい全さん、何か良い知恵でもあるのかい。こいつはどうしてもウンと言わないんだぜ」
「だからさ、師匠は、副会長は強次と言ったかも知れないけど、何もその通りにしなくても良いじゃ無いか」
意味ありげな圓楽の表情に談志は何かを見つけた様だ。
「聴こうじゃ無いか、全さんの考えを」
全さんとは圓楽の前座名、全生から来ている。本名の寛海では硬すぎるからだ。
「つまりさ、会長は一人と決まってる。これは師匠さ」
「それは判ってる。その次だ」
せっかちな談志は先を早く聞きたがっているが、圓楽はその様子も楽しんでいる感じだ。

「つまりね、副会長を我々3人にすれば良いのさ」
「はあ? そんな事許されるのかい」
「そうですよ。第一圓生師匠が何と言うか……」
驚く談志に不安がる志ん朝。対照的である。
「それぞれに役割を与えれば良いじゃ無いか!」
「役割?たとえば?」
談志がこの話に食いついた様だと圓楽はおもむろに話始める。
「つまりね、それぞれ得意な分野で勤めれば良いと思うのさ」
中居さんが持って来た熱燗を談志と志ん朝の盃に注ぎながら
「強ちゃんは会長の師匠をサポートする役目をちゃんとやって貰う」
「それから由ちゃんは対外的な事を全て仕切るのさ」
「対外的な事?」
「ああ、主にマスコミ向けの分野さ。これからはマスコミ受けがしなけりゃ『三遊協会』だっておぼつかないさ。だからそれが大事になって来る。それが出来るのは由ちゃん、あんたが最適だ。政治力もあるし、何より目立つから、注目を集め易い」
「なるほど……考えたな……で、全さん、あんたは何をやるんだい?」
「わたしはね、圓生一門に睨みを利かすさ」
談志と志ん朝は顔を見合わせて
「圓生一門は一枚岩じゃ無いのかい?」
「それはマズイんじゃ無いですか」
それぞれに口にしたが、圓楽は
「いやね、弟子全部に話してる訳じゃ無いんだ。小煩そうなのは事後承諾としてるんでね。その口封もやらないとね」
「全さん、あんた思ったより策士だね」
談志がそう言って笑い、酒を圓楽の盃に注いだ。

圓楽は飲めないながらも、それをゆっくりと飲み干すと
「実はね、師匠が橘家一門に何故声を掛けたか判るかい?」
「いや、単に人気者の円鏡目当てじゃ無いのかい?」
談志は興味なさそうに返事をする。
「とんでも無い!重大な意味があるのさ」
「ほう……それは訊きたいな」
志ん朝も「何なんですか?」
とこちらも興味を示していた。
「つまりね、圓生を次ぐ者は代々圓蔵を継いでいるんだよ。圓蔵と言う名は三遊亭の出世名だ。
それが仕方無いとは言え、縁もゆかりも無い一門に持って行かれたままだ」
「師匠はあの一門を三遊協会に取り込んで、ゆくゆくは円鏡に別な名を与えて、圓蔵の名を返して貰う腹積もりじゃ無いかと思っているんだ」
「なるほど……考えたな圓生師匠……」
「だから三平さんには興味を示さなかったのか……」
談志は圓楽の深い読みに感心をしていた。

「どうだい、さっきの副会長3人案は?」
「俺は気に入った。構わないよ。やってくれ!」
「私もそれで構いません」
談志、志ん朝とも賛成をした。
「じゃあ、三遊協会の前途を祝して乾杯しよう」
圓楽の音頭で盃を交わした。
「我々三人は離れていては良く無いと思っている」
圓楽は安堵した様につぶやいた。

後に落語界最大の騒動となるその前夜の話でした。

お粗末様でした〜(^^)

ああ、勘違い

20040825003537今日は「今戸の狐」です。
戸中期の名人・乾坤坊良斎(1769〜1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。
良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人で、
本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」(髪結新三)等のの世話講談をものしました。

明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、戦後は五代目志ん生師しか演じ手がなかったそうです。
その後、馬生師と志ん朝師が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心に聴かれます。

安政のころ。乾坤坊(けんこんぼう)良斎というの噺家の弟子で、良輔という男。
どう考えても作者では食っていけないので、一つ噺家に転向しようと、大看板で、三題噺の名人とうたわれている初代・可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらいました。

ところが、修行は厳しいし、場末の寄席にしか出してもらえないので、食う物も食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。
内職をしたいが、師匠がやかましく、見つかればたちまちクビです。
もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなく内職を始めます。

「今戸焼」と言う素焼きの土器や人形の本場なので、器用な処で、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、
こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいました。
良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家があり、そこのかみさんは千住(通称骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これも何か手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、
偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ
と強談判してきました。

仕方がないので、紹介し一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになりました。

一方、可楽の家では、師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売って貰った金を、
楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人です。
博打に負けてすってんてんにされ、腐ってると、前座の金を数える音が聞こえてきたので、
これはてっきりバクチを開帳していると思い込み、これは金になると思い込みます。

翌朝、可楽のところに押しかけ、お宅では夜遅く狐チョボイチをなさっているようだが、
しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したいと、強請ます。
これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、
家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだと教える。

乃楽から道を聞き出し、今戸までやって来た虎、早速、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。
「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」
ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。
「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「間抜けめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

狐チョボイチとは、寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、
三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

江戸時代の寄席では、中入りの時、
前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、
前座の貴重な収入源でした。
明治になり圓朝師が前座に定給を与える事にして、この制度を辞めさせました。
ちなみにクジがあったのは東京だけで、上方はボリと言うシステムがありました。
ボリとは、噺家が普段の噺とは違い、特別な噺をするので別にお客から少額の金額を募る制度です。
生半可な腕では客はソッポを向いてしまうので、噺家にとっては真剣だった様です。
どうしてもお金が入用な時等にやったそうです。続きを読む

「東京かわら版」6月号より

img124今日は、本日来ました「東京かわら版」6月号から話題を拾ってみたいと思います。

表紙はご覧の通り扇辰師匠ですね。
今、一番乗ってる噺家さんとも言えますね。さすが「かわら版」ですね。

・私と落語は 舟木一夫さんです。 その昔、玉置さんとチャーリー脇野さんらと圓生師を呼んでお座敷で「妾馬」をたっぷりと演じてもらった事があるそうです。
日劇では志ん朝師と共演も数多くこなし、談志師ともTVでは共演があるとか。
この世代はラジオで落語を聴いて育った世代なので、落語に親しみは持っているそうです。

・インタビューは、もちろん入船亭扇辰師です。
珍しい噺に挑戦するのは「その方がお客様も喜ばれるし、寄席でも使ってくれるから」だそうです。
意外と計算高いと自身で語っています。まあ冗談ですが……
「茄子娘」で師匠の事を話しています。なんていい噺なんだと思ったとか。

弟子を取ってみて師匠の有り難さが良く判ったそうです。喬太郎師にも弟子を取る様に進めてるとか……

・若手の紹介は春風亭ぴっかり☆さん
正式には「ぴっかり☆」と☆が付くそうです。
その昔、歳のサバを読んでAKB48の第一期のオーデションを受けたそうですが落ちたとか、
受かっていたらどうなってたんでしょうか? 興味があります(^^)

・本日のお題は「鏡ヶ池操松影」で江島屋騒動です。
現在、志ん生師や今輔師で聞けるのは全体の噺の一部ですが、それでも聴き応えがあります。
残りも聞いてみたいですね。

・訃報は牧伸二さんが載っています。残念でした。

・堀井ちゃんのコーナーは「天狗裁き」のタイムテーブルですが、これ志ん生師や馬生師と米朝師とは噺が違うので無理があると思いますが、一応力技で比べています。

・芸協の真打披露の模様と、立川流の談修さんの真打昇進の記事が載っています。

・最後の「今月のお言葉」は圓歌師の「もう疲れちゃった」と言う言葉ですが、真に受けてはいけないとのこと。
先日の池袋の帰りでもお弟子さんが家に帰る様に説得してるのに本人は歓楽街の方へ行きたがっていたそうです。お元気です。

今月はこんな処で……
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ゲームとは中毒性のあるものか?

Hikaru_Shindo今日は「碁泥」です。

上方落語の「碁打ち盗人」を三代目小さん師が、大阪の桂文吾師に教わり、大正2年ごろ、東京に移しました。
小さん師は、初め「芝居道楽」などのマクラとして演じ、後に独立させ一席の噺としました。
門弟の四代目小さん、孫弟子の五代目小さんと継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。
柳家以外では6代目柳橋師、それに馬生師や志ん朝師の高座がありますね。
上方では現在はあまり演じられない様です。

碁仇のだんな二人。
両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、
畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づきません。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決めます。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。
「マッチがないぞ」「たばこを持ってこい」

閉口した女将さんは、一計を案じ、煙草盆に紅生姜を入れて出します。
二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かけます
そうとは知らぬ二人、碁に夢中である。煙草をつけようとしても紅生姜だから点きません。
「あれ!?おかしいなあ。つかねえ」と言いながらも、碁盤ばかり見つめています。。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁狂いの泥棒。
誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとすると、
聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音がします。
矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。
風呂敷包みを背負ったまま中に入り込むと、見ているだけでは物足らず、いつしか口出しを始めます。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。
こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目助言はご無用、と。
おや、あんまり見たことのない人だ、と。
大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

碁とか将棋とか云うのは、凝ると「親の死に目に会えない」等といわれた位の中毒性のあるゲームですね。
私は将棋はてんで駄目ですが、囲碁は昔務めていた職場が全員囲碁好きでして、覚えました。
やってみると中々面白く、「こりや夢中になるのも無理は無い」と思いました。
そう云った事は昔から沢山あったのでしょうね。
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この時期にあると柳橋師の「青菜」を思いだす

27728359今日は、柳橋師について書いてみたいと思います。
もう過ぎてしまいましたが、16日は命日でした。

明治32年(1899年)10月15日 - 昭和54年(1979年)5月16日)
東京都文京区出身
本名、渡辺金太郎、
出囃子は『大阪せり』。
日本芸術協会を創設し、44年もの間、会長を務めました。

明治42年(1909年)ないし明治43年(1910年)、9歳で子供落語家春風亭柳童として初舞台。
師匠は4代目春風亭柳枝

大正4年(1915年)、5代目春風亭枝雀と改名し二つ目
大正6年(1917年)8月、師匠4代目柳枝が結成した睦会に加入。て7代目春風亭柏枝を襲名
大正10年(1921年)3月4代目春風亭小柳枝襲名
大正15年(1926年)2月、柳橋を襲名。師の初代華柳の意見を入れて亭号は春風亭のままにする。
昭和5年(1930年)、柳家金語楼とともに日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成し、
以降44年間会長職を務める。
昭和49年(1974年)3月1日、会長職を副会長・5代目古今亭今輔に譲り、相談役就任。
昭和54年(1979年)、没。享年79。

とにかく、若い頃から売れに売れ、ものすごい人気だったそうです。
かの圓生師をして、弟子になろうと本気で考えたとか・・・

柏枝時代に大阪に行って『子別れ』(大阪では『子は鎹』)を演じたとき、余りの出来の良さに大阪の客から
「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪花の空に柏枝喝采」の狂歌を贈られたそうです。

また寄席の高座で、「湯屋番」を演じている時に若旦那が番台から落ちる処で本人も高座から落ちて、
ヤンヤの喝采を浴びたそうです。

吉田茂総理等と親交があり、また、秩父宮殿下もファンだったそうです。
晩年は落ち着いてしまったのか、芸の冴えが無くなり、コアな落語ファンからは注目を浴びる存在では無くなりました。
個人的にはそれでも好きでしたがねえ・・・

噺は独特の柳橋節とも言われる話し方で、3代目小さん師譲りの噺、『時そば』『碁どろ』『長屋の花見』『天災』『猫久』『野ざらし』『青菜』『おせつ徳三郎』『星野屋』『二番煎じ』『一目上がり』『お見立て』『粗忽の釘』『試し酒』『大山詣り』『子別れ』『目黒のさんま』等を得意としました。
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