らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年04月

ウクレレ漫談の牧伸二さんが自殺!

CI0003今日の午後のニュースで、ウクレレ漫談の牧伸二さんが多摩川で遺体で見つかったというニュ〜スが流れました。
その後の続報で、老人性の鬱病による自殺との報道がありました。
私は良く「大正テレビ寄席」で見ていました。
驚きと残念な気持ちで一杯です。

スポニチから引用します

ウクレレ漫談家の牧伸二(本名・大井守常)さんが29日、亡くなったことが分かった。78歳だった。

 29日午前0時、東京都大田区の丸子橋付近の多摩川に「男性が飛び込んだ」との通報があり、警察官が駆け付けたところ川に浮いている男性を発見。病院に搬送されたが、間もなく死亡し、家族が牧さんと確認した。

 警視庁田園調布署は自宅が現場近くにある牧さんが川に飛び込み自殺を図ったとみて、調べている。橋には牧さんが使っていたとみられるつえが残されていたという。

 東京都出身の牧さんは60年代から70年代に「あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた」のフレーズをウクレレに乗せて、社会を風刺した「やんなっちゃった節」が人気を博した。63年から現テレビ朝日の「大正テレビ寄席」の司会となり、番組は15年続いた。

 02年に脳出血を患い療養していたが、最近でも舞台に立つなど仕事に復帰していた。

引用終わり

ショックでしたね。何年か前に脳出血で倒れて大手術して元気に復帰なさっていましたから、大変な驚きです。
確か、破門にはなりましたが、兄弟弟子のポール牧さんも自殺でした。
お笑いをやる方には何故自殺が多いのでしょうか?

それにしても、スケジュールもかなり埋まっていた、そうですので、本当に残念でたまりません。
牧野 周一門下の二人の最後、しかも一世を風靡した二人ですからねえ……

この上は安らかに成仏なさって欲しいと思います。
とりあえすは、お知らせ迄。続きを読む

正蔵師が作った「二つ面」と言う噺

nuenokai(omote)今日は「二つ面」と言う噺です。
これは八代目正蔵師の作です。
最もこの噺には前段とも云うべき噺がありまして、「生きている小平次」と言う怪談噺ですが、この小平次と言うのが、「小幡小平次」と言う人物で、山東京伝の『復讐奇談安積沼』や鶴屋南北の『彩入御伽草』などの江戸時代の怪談話に登場する架空の歌舞伎役者と言う事です。
で、この噺にも登場します。
幽霊なのに誠に人間臭く出てきます。

初席の四日目の事、怪談噺を得意とする噺家の柳亭西柳が高座を済ませ、弟子の佐太郎と近頃の客について話ながら帰っていると、追いはぎが突然金を出せと声をかけます。

佐太郎は驚いて、今日の割を盗られてはなるまいと逃げていってしまいます。
残された西柳は、追いはぎも初仕事ということであふれては縁起が悪いので、何か差し上げたいと、羽織と財布の中の銭を渡そうとします。
ところが、追いはぎはギャーと言う声を上げて逃げてい来ました。

師匠という声がするので見ると、西柳が売り物にしている怪談噺の主人公小幡小平次の幽霊が現れます。
丁寧に挨拶をし、深川の寄席に師匠の噺を聞きに来たというのです。
松島町に部屋があるので来るように誘われ、肩につかまり目をつむると一瞬にして到着しました。

この家は恨みのあった多九郎の子孫のもので、恨みを遂げると、今度はその子孫の守り神になると言います。
寿司をご馳走になり話をし、その中で、怪談話で最近の客は笑うが、それは強がってのこと。
師匠の面の作りはいいが、一つだから客が笑う。後ろにも面があれば客はぎょっとする、二つ面にすれば笑わないと教わります。

幽霊と別れた後、二つ面については忘れていたのですが、秋口になって、風邪を引いたのが長引きます。
その間、弟子の佐太郎が寄席で怪談噺をやっています。
それを知った西柳は二代目柳亭左柳の名を継ぐように勧め、小平次の幽霊から教わった二つ面について伝授します。

その後、佐太郎は師匠の好物の寿司を買いに出かけます。
その時、再び小平次の幽霊が現れ、守り神として箔がつき、極楽へ行くことになり当分会えないので来たとい居ます。
そして、極楽に行った幽霊が娑婆に残した寿命が積もり積もって三百年あるので師匠にやると言って消えてしまいます。
その後、佐太郎が帰って来て、小平次の幽霊とのやり取りを話すと
「へえ〜、師匠結構で」
「何が結構なことがあるものか。怪談噺をやるよりか、ほか能のない人間で、おまけにひどい貧乏人が三百年も生きたら世間の人が笑うだろう」
「笑う?ああ、笑う人には二つ面をお見せなさい」

これは、正直、怖くありません。
むしろ面白いと形容したほうが良い噺です。実は私は好きな噺の一つです。
噺家の世界も垣間見れるので、楽しいですね。
「生きている小平次」では、多九郎が「小平次は生き返る」と語っているので、この噺に続くのでしょうね。
こちらの方はかなり怖いです。
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東京かわら版5月号より

entry_cover1305-thumb-188x360-1518今日は、今日届いた「東京かわら版」5月号より話題を拾ってみたいと思います。

表紙は、立川談修さんと芸協の真打昇進3人ですね。

・「落語と私 私と落語」は小説家の嶽本野ばらさんですね。
兎に角、桂ざこばさんを異常に愛する人だと言う事だけは判りました。
江戸落語は聞かなそうですね。残念!

・今月のインタビューは二本立てで、立川談修さんと、芸協の三笑亭世楽 、春風亭笑好 、雷門小助六 の
三人です。
談修さんは談志師が認めた最後の真打だそうです。早くから真打になれ、と言われていたそうですが、
迷ってるうちに師匠が亡くなってしまいました。
そこら辺の感慨を話しています。
・芸協の方は、色々な修行時代の思い出を語っています。個人的には小助六さんが有望だと思いますね。
世楽 さんは堅実ですがもう一つ華が欲しいですね。
笑好さんはこの人は意外といいですよ。寄席等では明るくて良く合いますね。

・若手の紹介は桂宮治さん。この人が早く真打になるのを見てみたいです。
それぐらい、芸協では期待の星ですね。

・ホリイの落語狂時代は「湯屋番」の分析が載っています。
これは文字には書けないので、どこかで立ち読みして下さいw

・今月のお題は 「塚原卜伝」です。
これは講談ですが、「無手勝流」のエピソードが「巌流島」の噺にも影響を与えているそうです。

・今月のお言葉は柳屋三三さん。
ただいま、全国無休独演会ツアーの真最中だそうです。
読売の長井好弘さんが大阪に出張のついでに西宮の独演会を見て来たそうです。
いつもの三三さんだったとか……場所によってはチケットが売れなくて悲惨な場所もあるそうです。


という訳で今月はこの辺で……
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明日は庚申ですよ皆さん今夜は寝ない様に……

Sarutahikonookamishikishiえ〜、明日が今年2回目の「庚申」の日なので、今日は「更新待」を取り上げます。

この噺はまず、「庚申待」と言う風習を知らないと判らないので、そこから簡単に説明します。

庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事で、宵庚申、おさる待ちなどともいうそうです。
庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講、庚申会、お日待ちなどと言います。
何故、徹夜をするのかと言うと、WiKiによると、

人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である。

だそうです。その告げ口をする神様が神道では、猿田彦で仏教では帝釈天や青面金剛だという事ですので、
これらの神様を祀って、一晩中飲み食いや楽しい話をして過ごした風習で、江戸時代に栄えました。
その昔は、宮中でも詩歌、作文、碁などをして遊び、管弦を楽しみ、夜明け頃下賜品を賜って退出するのが常だったそうです。

で、粗筋は・・・・・
 信心深い日本橋馬喰町、旅籠の主・大黒屋金兵衛は年に一度庚申待の為に客を泊めないで
 町内の人を集めて夜通しの行事を行っています。(了解を得た人は泊めています)
集まった人たちは面白い話をして、夜を明かすのですが、どうもあまり面白く無い話ばかり・・・

そこで、町内の熊さんが、とっておきの話を始めます。
それは――10年前に、往来で体調を崩したお爺さんに出くわした時に、懐の金目当てにお爺さんを殺して、
懐の200両を奪ってしまった・・・という、冗談ともホントともつかない内容を話ます。

ところが、たまたま隣の部屋に泊まっていた侍が、宿屋の主に
 「10年前に父親を殺し、懐の金を盗んだ仇を探しておったが、 隣の熊五郎の話を聞くに、父の仇に間違いない」
「明日、この仇を討つから逃がす出ないぞ。逃がそうものならば、みな斬って捨てるからな!」
 なんて言ったので、皆熊さんを縛り上げて押入れに押し込めてしまいます。
恐ろしさにそれ以降、皆は恐怖の一夜過ごします。

やがて夜が明けて、武士は機嫌よく旅立とうとします。
仇討はどうするんです? と宿屋の主が聞くと、
 「何の話じゃ? 拙者の父は健在じゃ」
 「でも、昨夜の仇討の話は?」
 「ああ云わないと、やかましくて寝られないからだ」

とまあ、「宿屋の仇討」と同じサゲになっています。
そう、「宿屋の仇討」と似ていますね。
この演目は最近では上方から来た「宿屋の仇討」が主流になっていますが、
江戸落語としてはこちらが本来の型です。
「庚申待」と言っても知らない方ばかりなので、演じなくなって仕舞いました。

庚申と言うのは、、干支(えと)の組み合わせの一つで、
十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を甲子、乙丑、丙寅、・・・
と組み合わせると全部で60種類の組み合わせができます。
これを日にちごとに順番に割り振ったものです。
つまり庚申の日は60日に一度やって来ると言う訳です。
昔の酒屋さん等がくれるカレンダーにはちゃんと書かれていましたが、今のカレンダーには
書かれていませんから知らない方も多いと思います。
ここまで説明しないと判らないんじゃやり手が減る訳ですね。
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葛飾区歌

jpg large今日は我が葛飾の「葛飾区歌」についてです。

制定は昭和26年と戦後間もなくと言う頃ですね。
作詞は佐々木源三郎さんと言う方で区撰となっていますので、公募だったのかも知れません。
作曲は平井保喜さんと言う方ですが実は作曲家の平井康三郎さんの事だそうです。
あちこちの校歌等をこの名前で作られています。

歌詞は戦後間もない頃らしく希望に溢れた内容となっています。
我々の世代は中学でこの歌を教わりました。
今はどうなんでしょうね?

葛飾区歌
1 さくら花咲く 江戸川の
水に心を 洗いつゝ
みんな仲よく 手を組んで
築きづこうわれらの 住みよい街まちを
あゝ葛飾に 光あり。
2 みどり燃もえたつ この大地だいち
幸さちはあふれて かぎりなし
進む世界に さきがけて
興おこそうわれらの 文化の街を
あゝ葛飾に 希望あり。
3 昇る朝日に 富士映はえて
平和かゞやく 朝空に
ひゞくサイレン はつらつと
伸のばそうわれらの 明るい街を
あゝ葛飾に 力あり。

残念な事に葛飾からは少なくとも地上からはもう富士山は見えなくなりました。
近年のマンションや高層ビルの為です。
なので、3番はもうかっての姿となりました。続きを読む

あまり後味の良くない噺

houtan今日は「なめる」です。
この噺は正直、あの圓生師が演じていて、十八番にも入っている噺なので今日まで残っていますが、同じような「転宅」の方がずっと後味は良いです。

江戸時代、猿若町に中村座、市村座、河原崎座といういわゆる三座とよばれた芝居小屋が有りました頃のお噺で、、久しぶりに見物しようとやって来たある男。
三座とも大入りで、どこも入れません。
ようやく立見で入れてもらいましたが、何処かで座りたいので、若い衆に相談すると、前の升席に十八、九のきれいなお嬢さんが、二十五、六の年増女を連れて見物してるので、大変な音羽屋びいきなので、あそこで掛け声を掛けると良いかも知れないと教えられて、云われた通りに声を掛けていると、
年増女が男に「あなたは音羽屋びいきのようですが、うちのお嬢さまもそうなので、
よかったら自分たちの升で音羽屋をほめてやってほしい」と、声をかけられました。

願ってもないことと、ずうずうしく入り込み、弁当やお茶までごちそうになって喜んでいると、
年増女が「あなた、おいくつ」と、聞く。
二十二と答えると、ちょうど良い年回りだ、と思わせぶりなことを言います。

聞けば、お嬢さんは体の具合が悪く、目と鼻の先の先の業平の寮で養生中だという。
そこで自然に「お送りいたしましょう」「そう願えれば」
と話がまとまり、芝居がハネた後、期待に胸をふくらませてついていくと、
大店の娘らしく、大きな別宅だが、女中が五人しか付いていないとのことで、ガランと静か。
お嬢さんと差し向かいで、酒になります。
改めて見ると、その病み疲れた細面は青白く透き通り、ぞっとするような美しさ。

そのうちお嬢さんがもじもじしながら、お願いがある、と言います。
ここだと思って、お嬢さんのためなら命はいらないと力むと、
「恥ずかしながら、私のお乳の下にあるおできをなめてほしい。
かなえてくだされば苦楽をともにいたします」という、妙な望み。

「苦楽ってえと夫婦に。よろしい。いくつでもなめます。お出しなさい」

お嬢さんの着物の前をはだけると、紫色に腫れ上がり、膿が出てそれはものすごいものがひとつ。
「これはおできじゃなくて大できだ」
とためらったが、お嬢さんが無理に押しつけたから、否応なくもろになめてしまいました。

その「見返り」と迫った途端、表でドンドンと戸をたたく音がします。
聞くと、本所表町の酒乱の伯父さんで、すぐ刃物を振り回して暴れるから、急いでお帰りになった方がいいと言うので、しかたなく、その夜は引き上げる事にします。

翌日友達を連れて、うきうきして寮へ行ってみると、ぴったり閉まって人の気もありません。
隣の煙草屋の親父に尋ねると、笑いながら
「あのお嬢さんのおできが治らないので易者に聞くと、二十二の男になめさせれば治るとのこと。
そこで捜していたが、昨日芝居小屋で馬鹿野郎を生け捕り、色仕掛けでだましてなめさせた。
そいつが調子に乗って泊まっていく、と言うので、女中があたしのところに飛んできたから、
酒乱の伯父さんのふりをして追い出した。今ごろ店では全快祝いだろうが、あのおできの毒をなめたら七日はもたねえてえ話だ」
と言ったから、哀れ、男はウーンと気絶して仕舞います。

「おい、大丈夫か。ほら気付け薬の宝丹だ。なめろ」
「う〜ん、なめるのはもうこりごりだ」

この噺はその昔はおできの箇所が乳の下ではなく、もっと下の足の付け根あたりだったと言う事です。
つまりバレ噺の範疇だったと言う事ですね。

宝丹と言うのは今もある、上野の守田治兵衛商店で販売する胃腸薬です。
今は粉薬ですが、昔は練り薬で舐めて使用したそうです。

 この噺「なめる」は宝丹宣伝の為に創作された落語とも云われています。
又、「転宅」の元にもなったと言う説もあります。

別題を「重ね菊」とも言い、音羽屋(尾上菊五郎)の紋の一つで、同時にソノ方の意味も掛けているとか。
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