らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年03月

久蔵は良く5升も飲むお金を持っていたと言う謎?

0316今日は暑かったですねえ。もう一気に夏ですか?急いで春の噺をやらないと出来なくなりそうですね。
で、今日は「試し酒」です。

今村信雄氏(1894〜1959)の新作落語で、昭和初期に創作されました。
原型は、中国の笑い話だそうです。

ある大家の主人が、客の近江屋と酒のみ談義となります。
お供で来た下男久造が大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争いが始まります。
その挙げ句に賭けをすることになって仕舞います。
もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。
久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。

さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久蔵
「ちょうだいすますべえ」
一升入りの盃で五杯を呑み始めます。
なんだかんだと言いながら、息もつかさずあおってしまいました。

相手のだんな、すっかり感服して小遣いを与えましたが、どうしても納得出来ません。
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ五升なんて酒ェのんだことがねえだから、
心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

この噺には筋がそっくりな先行作があり、明治の英国人落語家・初代快楽亭ブラック師が
明治24年3月、「百花園」に速記を残した「英国の落話(おとしばなし)」がそれで、
主人公が英国ウーリッチ(?)の連隊の兵卒ジョンが呑む酒がビールになっている以外、まったく同じです。
このときの速記者が今村の父・次郎氏ということもあり、このブラックの速記を日本風に改作したと思われます。
さらに遡ると中国に行きつくという訳です。

作者の今村氏は著書「落語の世界」で、「今(s31年現在)『試し酒』をやる人は、柳橋、三木助、小勝、小さんの四人であるが、中で小さん君の物が一番可楽に近いので、
今、先代可楽を偲ぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」
と、書いています。
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陰火でも煙草の火は点く!?

_SS500-1_今日から春のお彼岸ですねえ。お墓参りは行きましたか? 私は今朝済ませました。

今日は「悋気の火の玉」です。
来は夏の噺かも知れませんが、お彼岸という事で、取り上げました。

安永年間(1772〜81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。
原話は、天保4(1833)年刊、桜川慈悲成(1762−1833)作の笑話本「延命養談数」中の「火の玉」です。

これは文楽師の十八番でしたが、五代目圓楽師も文楽師亡き後はよく演じていました。

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。
堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかったが、ある時、
付き合いで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまい、
通ったあげくにいい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになってしまいます。

こうなると面白く無いのが本妻で、ちくりちくりといやみを言い、だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」という調子でふてくされるので、
亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくありません。
次第に本宅からの足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなってしまいます。

そうなると、ますます収まらない本妻、あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めます。
それを知った妾も負けじとやり返します。
向うが5寸釘ならこちらは6寸でとエスカレトして行き、ついにはお互いが念が通じたのか、同時刻に亡くなってしまいます。

自業自得とはいえ、ばかを見たのはだんなで、葬式を一ぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けません。
それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立つ様になりました。
鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。
ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのです。
困った旦那は叔父の谷中の木蓮寺で和尚に相談して、お経で成仏させてもらうことにします。

時刻は丑三ツ時。
番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、
三べん回ると、ピタリと着地。
「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこはおまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。
「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

この噺の元になった実話というのは、安永ごろ、吉原遊郭内の張り見世である上総屋の主・逸磨の妻と妾の間に起きた騒動のことだそうです。

大音寺って?よく噺に出てきますが、現・台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺のことです。
「文七元結」や「蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところだったそうです。

でも幽霊の火の玉って陰火でしょ、あれで煙草に火が点けられるのでしょうか?
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究極の花見だよね

nagayahanam-thumb急に暖かくなった?ので今週の末には桜が東京でも咲くそうです。
それにしても早いと感じますね。
ですので、「長屋の花見」です。

元々は上方落語の演目で「貧乏花見」で明治37年ごろ、三代目蝶花楼馬楽師が東京に移し、
明治38年3月の、日本橋常磐木倶楽部での第一次の第四回落語研究会に、二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。
これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、
江戸と違うところですし、持っていくごちそう?や酒?も自らが誂えて持って行きます。

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽師が考案したくすぐりです。
馬楽--四代目小さん--五代目小さんと受け継がれていった噺です。
今でも柳家始め多くの噺家さんが演じています。

雨戸まで外して焚き付けにするという貧乏長屋の店子連中に大家さんからの呼び出しがかかります。
すわ、店賃の催促かと思いのほか「そうじゃあない。花も見頃、今日は貧乏を追い出すために皆で花見に行こう」と大家さん。

酒も肴も用意したというので、店子連中は「花見だ花見だ」「夜逃げだ夜逃げだ」などといいながら上野の山へ向かいます。
満開の桜がならぶ上野の山。店子連中は、毛氈とは名ばかりのむしろを敷いて、物乞いの真似をしようとしたり、ほかの花見客が落とした食べ物を拾おうとしたりの大騒ぎ。

そのうちに、大家さんが用意した酒と肴で宴がはじまるが、じつはこれ本物ではありません。
お酒は番茶を水で割ったもの。かまぼこは大根の漬け物で、卵焼きは沢庵という始末。
「かまぼこ」を薦められた店子は「ちかごろ歯が弱くなったから食べづらい」とこぼしたり、「卵焼き」を食べようとする店子は「尻尾じゃないところをくれ」などと言い出す始末。
薄い番茶を「灘の酒」に見立てて飲み出すが、アルコール成分がないから酔おうにも酔えません。
そのうちに「灘の酒」を飲んでいた一人が、変なことを言い出します。
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるかい?」
「酒柱が立ちました」

このほか、上方のサゲを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎを馴れ合い喧嘩で妨害し、
向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって
「ちょっと踊らしてもらおうと」
「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」
「酒のお代わりを持ってきました」
とサゲる噺家さんもいます。

この噺の問題点は舞台を上野としている処ですね。
江戸時代は上野の山は寛永寺の敷地内だったので、花見と言っても飲食や歌舞音曲は禁止です。
許されたのは明治からですので、明治期とするかですが、余りうるさく言わないで、楽しんだ方が良いですね。
昔のお客は、飲食や歌舞音曲が許されていた向島や飛鳥山じゃ臨場感に乏しいと感じたのでしょうね。

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花見の趣向だったよね?

DSC083301え〜寒かったり、暖かったりしていますが、如何お過ごしでしょうか?
花粉等やPM2.5等と言う恐ろしいものも飛び交っているそうで、油断なりません。
で、今日は「花見の仇討」です。

仲の良い三人が花見の趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。

 四人が夫々、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 当日、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時にうるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、
酒を飲まされて寝てしまいます。
 
一方、巡礼には成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始たが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。
、場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いかな。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、
これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

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若侍は本当に雁首を探したいだけだったのか?

20100503193027c1a今日は「巌流島」です。

原典は中国の古典「呂氏春秋・察今篇」という逸話集からです。
安永2年(1773)刊の「坐笑産」中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されていますが、
その後上方落語「桑名舟」として口演されたものを東京に移す際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の
「佐々木巌流」の一節が加味され、この名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人が、昔佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち会いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し、勝負をしなかったという伝説を物語る場面がありました。
この説明がなければ、「巌流」といっても何のことかわからず、むしろ「岸流島」の演題が正しいと言われています。

六代目円生師、八代目正蔵師、三代目小円朝師などの大看板が手掛けましたが、何と言っても
志ん生師のが絶品です。
時にこれは貴重な映像も残っています。
上方では、東海道・桑名の渡し場を舞台にしています。

浅草の御廐河岸から渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。
船縁で一服つけようとして、煙管をポンとたたくと、罹宇(らお)が緩んでいたと見え、雁首が取れて、川の中に落ちてしまいました。
船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言ってる処に
屑屋が、早速商売っ気をだして不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄いたすか。今拙者が落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」ときたから紙屑屋は仰天してし舞います。

いくら這いつくばって謝っても、若侍は聞き入れません。
あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、中間に槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗合いたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油で「ならば貴殿が代わりに相手をしろ」と云う始末。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これは面白い。船頭、船を向こう岸にやれ」
さあ、船の中は大騒ぎになります。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立ちます。
すると、老人は槍の石突きでトーンと杭を突きます。
反動で船が後戻りしていき、見る見るうちに岸から離れて仕舞います。

悔しがる若い方の侍。
何を思ったか裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込びます。
こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同慌てるが、
老人少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

この若侍は本当は老人に一泡吹かせようと狙っていた・・・とは考えられませんかねえ・・考え過ぎですかね。
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小言を言う事を生き甲斐にしている人.・・・実は親切?

f7973dcb今日は「小言幸兵衛」です。
この噺は六代目圓生師が得意にしていました。最も他の師匠方も演じていました。
志ん生師は「搗屋幸兵衛」と言う方を演じていました。これは、「小言幸兵衛」の前段と一応されています。
麻布の古川に住む大家の田中幸兵衛さんで、一応同じ人物となっていますが、今では完全な別バージョンと考えた方が良いのでは無いでしょうか。
元々は、『借家借り』という上方落語の演目でしたが、かなり古くから江戸でも演じられていました。

麻布の古川に住む田中幸兵衛さんと言う人、朝、長屋を一回りして、小言を言って来ないと気が済まない気性で、親切心からつい小言が出るのだが、その度が過ぎるきらいがあり、中々店子が長続きしません。
しかし、造作が良いので、借りたい者は次から次へとやって来ます。
今日も豆腐屋さんが来たのですが、口の効き方が気に食わない事から始まって、色々と言います。
ついに豆腐屋さん切れて、啖呵を切って出て行って仕舞います。
次に来たのが仕立屋さんですが、始めは良く、上機嫌で話していたのですが、息子さんの事になると一変。
貸せないと言い出します。
理由を聴くと、「長屋に心中がでるから」と言う事。訳を聴いてみると・・・・

自分の所から心中なぞ出ようモノなら、大家さんの責任になりますので、うっかりとは貸せないのですがね。
大家さんは、普通は地主に雇われた家作(長屋を含む借家)の管理人ですが、
町役を兼ねていたので、絶大な権限を持っていました。
万一の場合、店子の連帯責任を負わされますからその選択に神経質になるのは当たり前で、
幸兵衛さんの猜疑心は、異常でも何でもなかったわけです。

こうやって考えると、幸兵衛さんは、親切で責任感の強い、イザとなったら頼りになる人物とも思えますね。
でもそれじゃ噺にならないので、少しエキセントリックにそして妄想癖がある様に描いていますね。

落語に出て来る大家さんでも「髪結新三」に出て来る大家さんは少し”ワル”で、新三が無宿者と知ってても、
店を貸しています。噺の中でも新三に向かって「江戸中で無宿人に貸す大家がいると思っているのか・・・」
の様な台詞を言っています。知ってて貸している”ワル”なんでしょうね。
幸兵衛さんだったら、絶対貸さないでしょうね。続きを読む
 
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