らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2013年01月

瀬をはやみ〜

karuta例年ですと、そろそろ梅の花の便りも聴けるのですが、今年は遅れていますね。早く暖かくなって欲しいものです。
で、今日は春の噺「崇徳院」です。

若旦那が寝込んでしまったので、旦那様に頼まれて熊さんが聞いてみると、
清水堂で出会ったお嬢さんが忘れられないと言う・・・つまり恋煩いだったのです。
熊さんが腰に草鞋をぶら下げて相手のお嬢様を探しに出掛ける、首尾よく探し当てたら三軒
長屋が貰えるので、もう一生懸命です。
 手掛かりは短冊に書かれた崇徳院の和歌で、
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の   割れても末に 逢わんとぞ思う」と言う歌のみです。
 かみさんに教えられた通り、往来の真ん中、湯屋、床屋など、人が集まるところで上の句
を詠むが、なかなか見つからりません。
熊さんが三十七軒目の床屋で休んでいると、鳶頭が駆け込んできて、恋煩いで寝込んでいるという
お嬢様の話を始めました。
清水院で出会った若旦那に会いたいというのだ。手掛かりは、短冊
に書かれた崇徳院の和歌だと言う。
 お互いに見つけたと、互いにこっちに来いと揉合いになり、鏡を割って仕舞います。
床屋の親方、心配するな。
「割れても末に買わんとぞ思う」

この作品は初代桂文治の作といわれ、上方落語の演目で、後に東京でも口演されるようになりました。
上方では見初める所が高津神社となっています。
又、娘さん方の頭に下さる御礼が300両と具体的になっています。
「あんたのとこの若旦那は仁徳のある方ですなあ」と感心する床屋に、「仁徳があるはずや、見初めたんが高津さんや」とするサゲもあるそうです。

この前も書きましたが、この噺のサゲが上方ではサゲをつけないやり方が多くなって来ている事ですが、
その事で、WiKiより引用してみたと思います・・・・

> 5代目笑福亭松鶴の『上方はなし』によると、現在残されている形は桂南光(後の桂仁左衛門)が演じ、弟子の2代目桂三木助に伝えられたものである。他にも桂米之助(後の4代目桂米團治)が演じていた形と二通りある。5代目松鶴は鏡が割れてしまうサゲが納得できなかったので『上方はなしを聴く会』でサゲを変えてやったところ、客から苦情が来て、その後米團治とサゲはどうするべきかで熱い議論になった。

2代目桂春蝶もこの噺を得意としたが、自身はサゲが気に入らず、噺そのものはええのにサゲがあかんとこぼしていた。その他でも、2代目桂枝雀をはじめとして、取っ組み合いのシーンを演じたあとサゲを付けずに「めでたく一対の夫婦が出来上がります。崇徳院というおめでたいおうわさでした」などと言って終える演出を取るケースも多く見られる。
引用終わり・・・・

色々ある様ですが、私は個人的には、〜一対の夫婦が〜と言うやり方は好きになれませんね。

東京では三代目三木助師が二代目から噺を受け継いで、東京で演じました。
あたらしいくすぐりも考案したそうです。


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明烏を聞いて当時の若者はどうしたのだろう?

oomon今日は文楽師の十八番「明烏」です。

実際の心中事件から題を得て作られた、新内の「明烏夢淡雪」から人物だけを借りて作られた噺で、
滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺に仕立てました。
その発端が現行の「明烏」です。

文楽師は寄席でトリを取ると初日は必ずと言って良い程この噺を掛けたそうです。
源兵衛が甘納豆を食べる場面では、寄席の売店で甘納豆が売り切れたというエピソードが残っています。

日向屋の若旦那である時次郎は、一部屋にこもって難解な本ばかり読んでいるような頭の固い若者で、
息子の時次郎の将来を心配した親父さんが、源兵衛と多助に頼んで浅草の裏のお稲荷さんにお参りに行くと偽って、吉原に連れていってもらうことにした。
日帰りのお参りではなくお篭もりするようにと、お賽銭として、銭も沢山持たせます。
 
吉原の大門を鳥居だと言い、巫女さんの家だと偽って女郎屋に連れ込むが、そこは店に入るととうとうバレてしまいました。
こんなところにはいられないからと、若旦那が一人で帰るというのを、吉原の決まりとして大門で通行が記録されているので、三人連れで入って一人で出ると怪しまれて大門で止められると嘘で説得して、無理矢理に一晩つきあわせます。
 翌朝になって、若旦那が起きてこない。花魁は口じゃ起きろ起きろというが足で押さえていると、布団の中でのろけている。ばかばかしくなった二人が先に帰ろうと言うと、先に帰れるものなら帰りなさい。
「大門で止められます」

文楽師亡き後、色々な噺家さんが演じていますが、極め付きは志ん朝師でしょうね。
私なんか正直、志ん朝師の方が文楽師より良いぐらいですが、古い落語ファンの方に云わせると
「文楽の方が遥かにいい!」そうです。
実際の吉原を知らないのは辛いですねえ・・・反論出来ませんね。

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東北、仙台でのお噺

P2060609今日は、左甚五郎の噺で落語ではおそらく最後の噺になる「ねずみ」です。

名工・左甚五郎は、十年も江戸・神田橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。
その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしています。

ある年、まだ見ていない奥州・松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきました。
十二、三の男の子が寄ってきて、ぜひ家に泊まってほしいと頼むので承知すると、
うちの旅籠は鼠屋(ねずみや)といって小さいが、おじさん、布団がいるなら損料(そんりょう)を払って借りてくるから、二十文前金でほしいと、言います。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。
前に虎屋という大きな旅籠(はたご)があり、繁盛しています。
出てきた主人、うちは使用人もいないから、申し訳ないが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでほしい
と言うから、ますますたまげます。
その上、子供が帰ってきて、料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

それとなく事情を聞くと、このおやじ、卯兵衛(うへえ)といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、
五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。
性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、
二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、
親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取ったと、いうのです。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋(いこまや)の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気(けなげ)にも、
このままでは物乞いと変わらない、おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、
一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊りを」
と書いて、看板代わりに入口に揚げさせ出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。
これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。
新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。
そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人・飯田丹下(いいだ・たんげ)に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。
それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は「ちくしょう、そこまで」と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」と手紙を書いた。
不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、
虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

前にも書きましたが、三代目三木助師が、浪曲師の広沢菊春師に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。
「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年7月に初演しました。

「竹の水仙」「三井の大黒」ト並んで甚五郎三部作とも言われています。
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東京かわら版2月号より

img114今日は昨日来た「東京かわら版」2月号を紹介したいと思います。

表紙は小燕枝師で、メガネを掛けていますね。

・落語と私 小島よしおさんですね。好楽師について「平林」をやった話ですね。

・インタビューは 表紙の小燕枝師ですね。この師匠は、いぶし銀の様な噺家さんですね。
小さん師の教えとか。話しています。
曰く「道灌」ではねられる様になったら一人前だそうです。
若いころの無茶ぶりなんか面白いですね。

演芸クイズの答えが載っています。

・兼好師のコラムも絶好調で、今年の節分で厄を抜けるそうです。やれやれですね。

・若手の紹介は 柳屋さん若さんで入門が三四歳というのはある意味凄い!

・本日のお題は 「雲霧仁左衛門」です。これなんか、池波正太郎センセイを思い出します。
元は講談だそうです。

・柳家小ゑん師が自宅を改造して天体望遠鏡を設置して天井が開く仕掛けを作ったそうです。

・堀井ちゃんのコーナーはよく聞くネタ7個で誰を一番聞いたかというデーター
「子ほめ」遊三、「時そば」昇太、「初天神」一之輔、「替り目」談春。、「粗忽の釘」燕路
「たらちね」ほたる、「金明竹」談笑となりました。

今月はこんな処で・・・・続きを読む

大仏餅という噺

daibutumochi001今日は「大仏餅」です。
ある雪がしんしんと降る夜に、子供が店の中に入ってきました。
訳を聞くと、父親が怪我をしたので血止めを分けて欲しいと言うのです。
聞けば、新米の盲目乞食が仲間内から縄張りを荒らしたと突かれて怪我をしたと言う事。

山下の大店のご主人は奥から、取って置きの薬を塗ってあげます。
子供の歳を聞くと六つだといいますが、当家の息子も袴着の祝いで八百善から料理を取り寄せて、お客さんに食べて帰ってもらったところだが、息子は旨い不味いと贅沢すぎる。
その反対にこの子は雪の中、裸足で親の面倒を見ている感心な子だと、料理を分けてあげたいと申し出ます。父親が出した面桶は朝鮮さわりの水こぼし、あまりにも茶人が使う高級品です。
それを分かって、部屋に上げて八百善のお膳を二つ用意しました。

 聞くと、過日は八百善の料理を味わっていた事もあるし、お茶の心得もあったが、貧乏して茶道具の全ては売り尽くしたのですが、この水差しだけは手放せなかった。
千家の宗寿(そうじ)門弟で芝片門前に住んでいた神谷幸右衛門だという。
あの神谷さんですかと驚いて、出入りの業者が言うには庭がどうの茶室がどうのと言っていたが、一度招かれたが所用があって行けず残念であったと述懐し、その河内屋金兵衛ですと自己紹介しました。
お互い相知った仲であった。

 鉄瓶点てで、お薄を差し上げたいと言いますが、お菓子が無いので、そこにあった大仏餅を菓子代わりに差し出し、子供と食べ始めたが餅を喉に詰まらせ息が出来なくなってしまいます。
あわてて、背中を強く叩いたら息が出来るようになり、同時に眼が見えるようになりました。
そこまでは良かったのですが、鼻がおかしくなって声が巧く出ないようになってしまった。
「鼻?、今食べたのが大仏餅、眼から鼻ィ抜けた」

三遊亭圓朝師の三題噺で、よくも即興でこれだけの噺が作れたモノだと
感心してしまいます。
仕込みオチと言うのでしょうかね。
「目から鼻に抜ける」と言う言葉の意味が、
ちゃんと分かっていないとサゲが生きて来ませんね。

この噺が有名になったのは、、1971年8月31日、国立劇場小劇場における第五次落語研究会で文楽師が、
この演目を掛けたのですが、途中「神谷幸右衛門」の名前が出てこず、「勉強しなおしてまいります」と言い、
高座を降り、二度と高座に上がらなかった事があったからです。
それまでは、圓朝師の作と言っても割合地味な噺だったからです。

この噺は三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。
出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」です。
文楽師の独壇場だったのですが、八代目正蔵師も高座にかけた様です。

75_2大仏餅と言うのは、江戸時代に京坂地方で流行した餅で、上に大仏の像を焼印で押したものです。
京都誓願寺前や方広寺前などに有名な店があった。のちに江戸でも流行。
 江戸では浅草並木町(現・台東区雷門2丁目)の両国屋清左衛門が始めたといわれるています。
大仏の像を焼き印で押した餅菓子で、浅草の観音詣でをした人に土産として売れたと言います。さすがに今は有りません。続きを読む

2回じゃ駄目だったの?

西行法師今日は「西行」です。
遍歴の歌人として名高い西行法師ですが、もとは佐藤兵衛尉憲清という、禁裏警護の北面の武士でした。

ある日、殿の内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、憲清が
「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿の内侍に恋わずらいをして仕舞います。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、
気の毒に思しめして、文をよこしてくれました。
何事ならんと憲清が見ると、夢にまで見た内侍の御文です。
開けて見ると、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、
人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」とあります。

これを読んで、さすが憲清さん、たちまちその意味を解きます。
この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。
三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。
地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。
西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と解読します。

当日、待っていたのですが、待ちくたびれて、ついウトウトして仕舞います。
そこへ、内侍が現れ
「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとした途端に憲清、危うく目を覚まし、
「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」
と返したので、で内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に憲清が、
「またの逢瀬は」と尋ねると
内侍は「阿漕(あこぎ)であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ憲清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。
歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、
一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名して出家します。
西行法師、若き日の逸話です。

とここで切る噺家さんが多いのですが、今日はサービスで、最後迄書きます。(^^)

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」と言っています。
これを聞いた西行法師、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

西行法師の噺には、鶴光師が演じている、「西行鼓ヶ滝」がありますね。
こちらは、鼓ヶ滝で歌よ詠んだ、法師の噺です。

処で阿漕とは何でしょう?
調べてみると、伊勢の阿漕ケ浦の事で、今の三重県津市南部の海岸です。
ここは伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。
古今六帖の古歌に、「伊勢の海阿漕(あこぎ)が浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ」
と言う歌がありそこから、だそうです。

馬子は歌を介して発生した
「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、
西行法師は、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけ?です。(^^)

ちなみに・・・染殿の内侍は1118年生まれの西行とは200歳ほども「年上」なんですねえ・・・
これこそ落語のウソですねえ(^^)続きを読む
 
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