らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2012年12月

photo_2今日は「高砂や」と言うおめでたい題が付いている噺です。

古くから演じられている噺で、「仲人役」と題した、明治32年の四代目柳亭左楽師のものが残りますが、
謡(うたい)が豆腐屋の売り声になるギャグはそれ以来、変わりません。
八代目柳枝師、六代目柳橋師、五代目小さん師がよく演じ、それぞれ速記・音源があります。
最近では小三治師がたまに演じますね。聴いたこと有るけど・・・確かCDも出ていたと思います。

 伊勢屋の仲人をすることになった熊さんですが、ご隠居さんから色々と仲人の手引きを教わっています。
「お開きの段になって、高砂やを歌うんだよ。上手かないけど私がちょっとやってみせよう」
「白扇を持って、目八分というから鴨居の当たりを見て【たぁかぁさぁごぉやぁー】という具合だ、さあやってみろ」
「やってみよう【たぁかぁさぁごぉやぁ〜】」
「それじゃ都々逸だよ、豆腐屋の売声をまねてご覧」
「それなら出来る」
【とぉうぅふぃ、たぁかぁさぁごぉやぁ】
「なかなかいいよ、後の方は先方の親戚の方が引き受けて下さるから大丈夫だ」
と何とか即席で覚えましたが・・・
さて、いざ本番でも【とぉうぅふぃ】と始まり【このうらぶねにほをあげて】まで歌って、続きは親戚の方にお願いします。
と言ったのですが、
「親戚筋は不調法でして続けてお願いします」
 それは話が違うと逃げようとするが、続きを続きをと追い詰められ、ついに困り果て、
【たかさごやぁ、たすけぶねぇ〜】

同じように婚礼の席で失敗する噺に「松竹梅」があります。
これも柳家の噺ですね。柳家一門の噺家さんがよく演じます。

本当はこの後、 「高砂や この浦舟に帆を 下げて〜」などとやっているうち、一同が巡礼歌の節で「高砂や」を謡いだしてしまい、しまいには一同揃って「婚礼にご容赦(巡礼にご報謝)」と下げるのですが、
分かりにくいことから、「助け舟」でサゲることが多くなっています。と言うより最近はここまで演じませんね。

一昔前まで、結婚式で謡曲の「高砂」や「鶴亀」を謡う人が多かったので、そうした風習を下敷きにした噺ですね。
江戸時代の結婚は家同士の結びつきという側面が大きかったので、そのあいだに立つ仲人は大変だったそうです。
それに、持参金の一部がお礼として仲人に支払われたので、仲人を仕事として請け負っていた人もいたそうです。続きを読む

217b4919弘法大師とは、空海上人とも呼ばれ、日本に真言宗を広めた偉いお坊さんですね。
知らない人は居ないと思いますが・・・・

空海上人22歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教しました。
美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていきます。
宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人でしたが、最近、そのおもよさんが痩せてきたと言う。
婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けます。
ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまいます。
この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけた。

 おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻で、布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思います。
一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解りませんが、惚れた弱み、上人を追いかけます。

 六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞き、今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ません。
悲観のあまり多摩川に身を投げてしまいます。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面します。
その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔りました。
近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になりました。伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う事です。

 小朝師がその真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。

弘法大師の生涯には、二十代の若き日に謎の空白期があるとされ、その時期の恋物語を無責任に想像したのがこの噺で。噺の舞台が落語にはめずらしく川崎になっているのは、言うまでもなく川崎大師からの連想だと思います。

川崎大師は、川崎大師のHPから引用しますと・・・・
今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、 ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、 わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。

 ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、 海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。

兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。

それは、大師の尊いお像でした。 兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。

 その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。

 法灯をかかげて、悠久ここに880余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる 帰依をあつめています。

となっています。噺はみんな”ウス”でした。(^^)
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ad324ca5今日は「二番煎じ」という噺です。
元は、元禄3年(1690年)に出版された江戸の小咄本『鹿の子ばなし』に掲載された「花見の薬」を上方で同時期に改作し、夜回りの話とした『軽口はなし』の「煎じやう常の如く」だそうです。
大正時代に五代目三遊亭圓生師が東京へ移したといわれています。
上方では初代、二代目桂春團治師、二代目露の五郎兵衛師らが、東京では、六代目柳橋先生や八代目可楽師らが得意としました。

町内の旦那衆が火事を防ぐため、火の番の夜回りをすることになりました。
番小屋に集まり、集まった顔ぶれを二組に分け、交代で町内の見廻りをはじめます。
凍てつくような江戸の冬。金棒は冷たくて握れず、拍子木を打つのに懐から手を出すのも一苦労。
「火の用心」の声も北風に震えるようです。やがて番小屋に戻り、囲炉裏を囲む旦那衆。

すると、禁じられている酒を持ってきた人がいたり、猪鍋の用意をしてきた者がいたりして・・・
役人に見つかると面倒なため、酒を土瓶に移し、煎じ薬と称してそっと宴をはじめます。
猪鍋で楽しく酒を飲んでいると、番小屋の戸をたたく音がする。役人が見回りに来たのです!
一同はあわてて酒や鍋を隠し、役人を迎え入れます。

役人は「変わった事は無いかな?」等と聞きますが、気もそぞろ。
「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」
「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」
しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。
ところで、さっき鍋のようなものを」

「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」
もう一杯もう一杯と、
酒も肉もきれいに片づけられてしまう。
「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

江戸の冬は今よりも寒かったということで、地軸が今の位置とずれているのだそうです。
その関係でしょうか。雪がたくさん降ったのだそうです。
元禄の頃の記録で年間30日以上積雪があったそうです。
ですから、積もらなくても雪が降るのは珍しくなかった様です。
私が子供の頃でも、池や水たまり等に氷が張るのは毎日の事でした。

自身番については、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、
火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていましたが、それは建前で、ほとんどは「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。
ですが、この「番太郎」が中々仕事をしなかったそうで・・・

二番煎じとは、漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。
金気をきらい、土瓶などを用いました。

この噺は、北風の吹く江戸の夜空が目に浮かぶような感じが出れば、良いでしょうね。
そこに、熱々のぼたん鍋(しし鍋)と熱燗ですかねえ、これは応えられませんね。(^^)続きを読む

1166423025今日は「尻餅」と言う本当に季節限定の噺です。

原話は、享和2年(1802年)に出版された笑話本「臍くり金」の一遍である『もちつき』とされています。

大晦日だというのに、餠屋も頼めない貧乏所帯での会話です。
女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。
これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、
自作自演で景気よく餠屋に餠をつかせている芝居をしようと言いだす。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、毎度ありがとうございます」と叫び、子供にお世辞を言ったりする場面も一人二役で大奮闘します。

ところが、餅を搗く段になると、 いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタンとやりだします。
だんだん尻は真っ赤になって来ます。
かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとうこらえ切れなり、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼あるの?」
「へい、あと二臼です」
「おまえさん、後生だから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

上方では、「白蒸(しろむし)でたべとくれ」でサゲます。
白蒸は、もち米を蒸して、まだ搗いていない状態のもので、なるほど、「もう叩かないどくれ」
という意味では、こちらの方が分かりやすいと言われてます。

江戸時代は、餅つきは12月26日から始まりました。
これを餅つき始といい、この日から大晦日まで、「引摺り」といって、
餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩いたそうです。

噺の中で、亭主が女房の尻に見とれる描写がありますが、今はいざ知らず、当時は夫婦といえども、
後ろからナニと言う行為はタブーとされていて、しかも明るいうちからまじまじと見る事は無かったので、
つい見とれてしまったのでしょうね。(^^)

聴いていると、何となくサディスティクな気分になるような・・・・・・おかみさん可哀想ですよね。
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A000535本日、俳優の小沢昭一さんがお亡くなりになられました。享年83でした。

我々落語ファンの小沢さんと言うと、「幕末太陽傳」の金さんの役が印象的ですね。

後、落語とは直接関係ありませんが当時の喜劇映画で怪しげな中国人役をやらせたらピカイチでした。

また、末広亭の高座に10日間上がっても、無粋に落語をやる(結構上手でした)なんて事はせず、

漫談を披露してくれました。

また、日本の放浪芸を追求し残してもくれました。

好きな方でした。

どうか、安らかにお眠り下さい。。゜。゜(ノД`)゜。゜。続きを読む

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