らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2012年09月

弁松の弁当VS「野ざらしの」焼豆腐煮物の弁当

ph_ben04pop今日は落語に出てくる食べ物について少し考えてみたいと思います。
落語には色々と食べ物が出て来ます。
当時の庶民の感覚なので今とは大分違いますが・・・
その中でも、お弁当について少々書いてみます。

噺の中で有名なのが「子別れ 上」に出て来る、弁松の弁当ですね。
葬式の弁当なので、黒豆の強飯に精進物のがんもどきなどの煮染めが入った弁当の様ですね。
今の弁松には同じのは無い様ですね。
煮物中心の写真でも内容は、めかじき照焼、玉子焼、かまぼこ、豆きんとん、甘煮(つとぶ、はす、さといも、たけのこ、ごぼう、しいたけ、青身)、つくね、海老、辛煮となっており、がんもどきは入っていません。
ご飯も黒豆の強飯というのは無いですね。
最も黒豆の強飯というのが、最近では珍しいですね。
地方によってはあるのでしょうが、東京では見かけなくなりました。
小豆と違って黒豆でおこわを炊くのは難しいでしょうね。
まあ、正月の黒豆の煮物の様にシワが寄らない様にしなくて良いなら、そうでもありませんが・・・

この弁当は屑屋さんが熊さんの背中を押した為に汁が出てしまうのですが、濃い味が売りの弁松の弁当ですが、
これでは味がしないか、薄く感じるでしょうね。

私の頼りない知識では、弁当と云えば、「野ざらし」の後半に出てくる、釣り客が忘れて云った弁当ですね。
八五郎は流れてきた包を拾い上げて、開けてみると弁当でした。
さらに開くと、おかずは、焼豆腐の煮物という具合で、八五郎は美味しく戴きました。
いい味だったそうですww

後は弁当と云うのは具体的には出てきませんねえ。
弁当を食べるシーンはあっても具体的には触れられていないと思います。

味のしない、弁松か焼豆腐の煮物かですが後者は肉豆腐の可能性もありますねえ。
「付き馬」でも食べてますしね。ポピュラーかも知れません。
さて、どっちを食べましょうかねえ(^^)


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貴方ならどうする?

120916_0920~01今日は「片棒」です。

何故?というと、今日まで我が街が本祭りだったので、お祭りの噺というと近いのがこれかな?
と思った次第です。

原話は宝永2年に出版された、「軽口あられ酒」の一遍である『気ままな親仁』だそうです。

石町の赤螺屋吝兵衛さんは一代で身代を築いた方ですが、大変なケチでもあります。
最近の悩みはこの築き上げた身代を誰に譲るか?なのです。
番頭に相談すると、「このお店の一大事に、若旦那方三人がどのようなお金の使い方をするか聞いてみたらどうでしょうか?」という答え。
ならば、自分が死んだら、どうゆう葬式をするかを、息子三人に聞いて見ることにしました。

先ずは長男・・・
通夜は二晩行い、できるだけお金を掛けた葬式をやりたい。と言います。
お寺もわが菩提寺では小さいですから本願寺あたりを借りて行い
精進落としは黒塗り金蒔絵の重箱に、一段目は練り物、二段目は煮物とか焼き物、三段目らはご飯を仕込んだ三つ重ねで、丹後縮緬なんかで作った特注の風呂敷で包みます。
お酒をおのみになる方もいるでしょうから、灘の生一本を用意しておきます。
黒筋のついた封筒に三万円ばかり入れまして、【御お車代 赤螺屋】としたためます。
それからお香典返しには、金銀の延べ棒を用意します。
これを三日間行い、万事派手にやりたいと言います。
吝兵衛さんは頭に来て「何があってもお前だけには身代を渡さないからな!」「ばかー死んじまえ!」
と大層な剣幕です。

続いて次男は・・・
葬式の歴史に残る様な葬式をしたい、と言い出します。
「葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立てて練り歩きます。先頭は鳶の木遣り、芸者の手古舞に、お父さんそっくりの生き人形をすえた山車や神輿を繰り出してワッショイワッショイ。神輿に骨を乗せて担ぎだす。一同そろってバンザーイ」
「ふざけるな、それじゃ弔いだかお祭りだかわかりゃしねえ、七生まで勘当だっ!!」

呆れて次の三男は・・・・
「死ぬとは『無に帰す』ことですし、どう転んでもすべて燃えちまうんですからお葬式は質素に、極限まで簡素にして行います。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」

「お…おい…」

「とは行きませんから、とりあえずお通夜を出しましょう。出棺は11時と知らせておいて…本当は八時に出してしまえば会葬者の食事はいらないし、持ってきた香典だけこっちのものにすることができます。早桶は菜漬けの樽で十分。抹香はかんな屑で代用し、樽には荒縄を掛けて天秤棒で差しにないにします。運ぶには人手が必要…ですが、これだとお金がかかりますから片棒は僕が担ぎます。でも、僕一人では担げませんから、やっぱり一人は雇ったほうが…」

「なに、心配するな。片棒は私が出て担ぐ」

この噺のクライマックスは次男の処での神田囃子の下りでしょうね。
ここの処は抱腹絶倒です。
次男による葬式に山車が出て算盤を持った人形が登場する条は三遊亭銀馬師によってとりいれられ、これを三代目金馬師が完成させたそうです。

兄弟の名前は色々ありまして、「金・銀・鉄」にちなんでつけたり、「松竹梅」でやる演者さんもいます。

実際はこの兄弟の性格がバランスよく配分された人物が一番経営者に相応しいのでしょうね。
長男の社交性、次男の独創性、三男の堅実性と言った処でしょうか。





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絶滅危惧種になる噺

an115え〜更新が遅れまして、申し訳ありません。只今我町は4年ぶりの本祭の真最中でして、私も睦の世話人をしているので、仕事と両方で手一杯なので、
更新している暇がありませんでした。多分明日も遅れます。

先日、「ニホンウナギ」が絶滅危惧種」に認定されたそうですが、天然の鰻なんてのはかなり前から絶滅を言われていたのですが、遅きに失した感がありますね。

鰻は養殖がほとんどでしたが、最近では稚魚が取れないので、値段も高くなってます。
高騰している原因は不漁の他に、今盛んに反日暴動をしている赤い国の高所得者が食べ始めたからです。
「鰻の蒲焼は美味しい!」と知ってしまったからです。

ついこの間まで、「生で魚を食べるのは野蛮人」とか言ってた癖に、今では鮨や刺身は世界的な料理です。
教える必要なんて無かったんですよ。
別に日本料理が世界的な料理になる必要は無いと思ってました。
あいつらが食べだせばアッと云う間に食いついくすのは目に見えていました。
大体、机以外の四足は皆食べる。という国民ですから、上品な日本人ではかないません。
「何でも欲しがる駄々っ子。中国」という処でしょうか。
盗人国家、中華人民共和国ですね。

え〜マクラが長すぎましたがww
この噺は、原話は、安永6(1777)年に刊行された『時勢噺綱目』の一遍である「俄旅」です。
元は上方落語で、東京の「素人鰻」とは別物です。

男が知人に、タダ酒が飲める鰻屋の話をします。、
先日、蒲焼を注文したのですが、お新香と酒だけを持ってきます。
その鰻屋は最近開店した店ですが、開店早々板前が不在となっており
鰻を出せない時は酒代をもらわないというので、そのまま帰ってきたというのです。
今日もどうやら板前がいない様なので、ただ酒を誘いに来た、というのです。
そこで、2人はタダ酒目当てでその鰻屋に行き、親父に鰻をさばいてもらおうと、
素手で鰻を捕まえるよう言いつけますが、
親父は中々捕まえられません。
鰻に糠をかけてやっと捕まえますが、今度はぬるぬるして手から飛び出しそうです。
親父はなおも逃げる鰻を、手を前に前に出して押さえ込むが掴まりません。
鰻の行く方に歩き出し、玄関を出ようとするので、「おいおい、何処に行くんだ。」
 「前に回って鰻に聞いてくれ」

主に柳家の噺家さんが演じます。志ん生師もこちらでした。
柳家ですが小三治師は「素人鰻」のほうを演じます。
志ん朝師は両方ですね。

そうそう、皆さんが鰻を食べた時に、身が厚くて鰻自身の幅が狭いなら、ヨーロッパ鰻(フランス鰻)ですね。
これも今から20年くらい前でしょうか、現れました。
一匹で「ニホンウナギ」の様に何人前も取れないし、蒸したり焼いたりするのに時間が掛かるので、
人気が上がりませんでした。
でもやがて、無いものはしょうがない。という事でこちらの鰻も普及しました。
今度はアフリカ鰻だそうです。大丈夫かな〜?続きを読む

どうやら、算盤の別名は勘定板というらしい・・・

soroban今日は、寄席でもよく掛かる「勘定板」です。

元は良く判らないのですが多分上方から来たと思われます。
その昔は談志師や留さん文治師等がやっていましたが、文治師は鈴本のお席亭に「きたないからウチではやらないでおくれ」と言われて仕舞いました。
それでも上方版に比べると綺麗なのですが・・・上方は最後まで演じてしまいます。
現在では桃太郎さんが、かりんとうの下りまでやりますが、正直辞めた方が良いと思っています。

便所にはいろいろな呼び名があります。お手洗い、雪隠、閑所(かんしょ)…この閑所がなまって勘定と呼ぶところもありました。
ある地方の小さな島では便所がなく、人々は海岸につながれている板の上で用を足します。
あとはきれいに波がさらってくれます。この場所を「勘定場」、用を足すことを「勘定ぶつ」、その板を「勘定板」と呼んでいました。

ある時、この島の連中が東京見物にきました。ところが宿屋のどこにも砂浜がない。用を足すことができず辛くなってきました。宿の番頭を呼んで「勘定ぶたさしてもらいたい」と頼むと
「お帰りのさいに、一週間分まとめていただきます」。
「いや、辛抱できねえ。勘定場はどこだ?」「玄関のところです」「人混みの中でやるだか?」。
等とトンチンカンなやりとりが続きます。

番頭さんは勘定というので、算盤を持って来て、「これにどうぞ」
、「板が細いがこぼれないか」、「ここからはみ出る勘定を私は見たことがございません」、
「勘定が出来たらどうする」、「お手を叩いていただけたら、私が取りに伺います」、
「勘定場に連れて行って欲しい」、「今、帳場が混み合っていますから、ここでどうぞ。
床の間の前でも、日当たりの良い廊下でも、どうぞお好きな所で」、「では、廊下でしよう」
等とやり取りは続きます。

談志師は、ソロバンを裏側にしてまたごうとしたが、羽織の裾が引っかかってソロバンがゴロゴロゴロと転がり始めた。
「お〜う、見ろや。江戸は重宝だ、勘定板が車仕掛けになっとる」。と下げました。

桃太郎師のは、用をした後、算盤が滑って一階の番頭さんがかりんとうを食べてる処に落ちて来ます。
それを口にして「今日のかりんとうは湿気てる」というものです。ちょっとねえ〜これは駄目でしょう!ねえ。

江戸で宿屋と言えば日本橋馬喰町と相場は決まっていました。
幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していたそうです。
それで馬喰町に宿屋が集中しました。続きを読む

猫は本当に大人しいか?

img_1529166_32283524_0今日は「猫久」です。

原話は不詳で、幕末の嘉永年間ごろから口演されてきた、古い江戸落語で、明治中期の二代目小さん師が完成させた噺で、それ以来代々小さん師が工夫を重ね現代まで伝わってきました。

 長屋の熊さんの向かいに住んでいる久六は、いつもおとなしく、猫の久六と呼ばれている。
その猫久が、ある日、血相を変えて家に帰ってきて、刀を出せと女房に言いつける、あわてて止めると思いの外、
女房は刀を三度押し戴いてから亭主に渡し、猫久は駆けだして行った。

向かいで一部始終を見ていた熊さんは、床屋に行って、大声で親方にその話しをします。
それを、たまたま奥で聞いていた侍が、それは天晴れ、女の鑑であると感心して、
「よおっく承れ。日ごろ猫とあだ名されるほど人柄のよい男が、血相を変えてわが家に立ち寄り、剣を出せとはよくよく逃れざる場合。また日ごろ妻なる者は夫の心中をよくはかり、これを神前に三ベンいただいてつかわしたるは、
先方にけがのなきよう、夫にけがのなきよう神に祈り夫を思う心底。
見共にも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたい。
後世おそるべし。貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ」
と言われますが、その実よく分かりません。いただく方が本物なんだと感心して、家に帰ります。

すると、かみさんが、イワシイワシとがなり立てるので、さっきの侍の真似をしてやろうと思います。
「オレが何か持ってこいって言ったら、てめえなんざ、いただいて持ってこれめえ」
「そんなこと、わけないよ」
等と言い合っているうち、イワシを本物の猫がくわえていってしまいます。

「ちくしょう、おっかあ、そのその摺粉木でいいから、早く持って来いッ。張り倒してやるから」
「待っといでよう。今あたしゃいただいてるところだ」

この噺のキモは途中で出て来る侍です。
侍の怖さを感じさせないと、この噺は面白くありません。
侍が怖いので熊さんは何だか良く判らないのに、納得したフリをしてしまうのです。
武士と町人は、身分が違ったので、普通は身分が違うから、もとよりふつうに話ができるものではないのですが、江戸時代とはそう云う世界だったという事ですね。

二尺以下なら町人でも護身用に刀を持つことが出来ました。

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路地を突き抜ける釘を見てみたい

o0620040021760main今日は「粗忽の釘」です。

この噺は上方では「宿替え」ですね。米朝師をはじめ、枝雀師の十八番でした。
東京では「粗忽の釘」です。又の名を「我忘れ」です。
江戸時代から口演されてきた古い噺で、文化4年(1807)にはすでに記録があります。
という訳で上方から伝わったのかどうかは分かりません。

先代小さん師が得意にしていましたが、ほとんどのは噺家さんが演じてると思います。
同じ粗忽物に比べると、比較的演じやすいのかも知れませんね。
「粗忽長屋」は結構難しい噺ですし、「堀之内」はあのハイテンションにどう折り合いをつけるか?だと思いますし、「粗忽の使者」はこれも生半可な語り口ではヤレませんね。

 引っ越しの当日、女房は早くに着いてあらかた片付けも済んだところへ、大きな風呂敷包みを背負った粗忽な亭主が大汗をかきながらやっと到着します。
 女房にホウキを横にしておくともめ事が絶えないので「釘を一本打ってホウキを掛けたい」
と頼まれた亭主は釘を打つのですが、六寸もある瓦釘をことも有ろうに壁へ打ち込んでしまいます。
 「お隣に釘の先が出てて、着物を破いたりケガをしたりするといけないから」
と女房に言われ、粗忽な亭主は謝りに行きまが、最初に行った家がお向かいさんで、
「路地を乗り越えて来る釘なんてありませんよ」と言われやっと違うと気がつく始末。

女房に「落ち着けば一人前」と言われ、隣家へ行きますが、煙草を一服してから、
話出しましたが、釘の事はどこへやら、自分と女房の馴れ初めを惚気る始末です。
「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出します。

そして釘の事を話しますが、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に釘。
「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじに、いけねえ、中気で寝てるんで・・・・忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

これが本来の下げですが、最近は「明日からここにホウキを掛けに来なくちゃいけねえ」
という下げが使われています。

江戸時代の引越しは、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成など
すべてを町名主に届け、名主が人別帳に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていたそうです。
また、店を新しく借りる場合は、身元の保障人が必要でした。
場合に寄っては、元の大家にちゃんと前借り等を精算した上で保証人になって貰う事もあった様です。
この辺は今でもシステム上は余り変わりませんね。
戸籍の届出と保証人ですね。


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