はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2012年09月

82250b58今日は桂枝雀師について、極々私的な思いを書いてみたいと思います。以前書いたものに補正しました。

枝雀師匠と言えば、派手な身振り手振りで陽気な高座が思い浮かんで来ます。
見ていてとても楽しい高座です。
余りにも楽しいので見過ぎると中毒になる危険もありますw

私は落語を聴くときは、仕事をしながら聴く事が多ので、自然と音のみが多くなります。
落語を流しながら調理の仕込みをしたり片付けをしながら聞いたりなんて事をよくします。

ですから枝雀師匠の落語も同じ様に聞いていました。
他の師匠と違って、枝雀師はTV等で、映像を先に見ていたので、音声のみを聞いた時は
印象が随分違うのに驚きました。

音声のみで聞いて居ると枝雀師の噺は映像の時とは真逆に感じてしまいました。
物凄く静かで、どちらかと言うと静の部分が強調され、しつこいと感じていた語り口は逆にあっさりと感じ、
全体的に、静かな語り口にさえ感じてしまうのです。

さらに聴きこんでいくと、年代もありますが、
私がニコにうpした「三十石」等は後半は苦しんでいる様に聞こえます。
落語を語りながらも師匠は泣いて苦しんでいる様な気さえしました。

映像でも最後の方の高座は正面を切れていませんが、
音声のみを聞いて居ると師匠はもっと早くから苦しんでいた様に感じます。

ここから先は私の独断と偏見で書きますが、(すでにそうなっているってw)
枝雀師は弟弟子の吉朝師と言うこれまたもの凄い噺家さんがいましいた。
彼の高座を見てその本格ぶりと自分のTV向けの高座を比較し、
本来の自分のやりたい高座とのギャップに苦しんでいたのでは無いでしょうか?
人気があって面白くても、演目としての深みが無い・・・・
其の様に考えていたとしても不思議じゃ無いと思います。
真面目な師匠はその辺を考え過ぎてしまったのかと・・・・

「天神山」等はあえてサゲを付けずに演じてみたり色々工夫はしていましたが、悩みすぎたんでしょうね、なんせ人気が凄すぎた!

米朝師に「自分が行き詰まったら、『たちきり』がまだあるぞ、と言ってください」と言っていたそうです。
その事からも、もっと人情噺の方向も探っていたと思われます。

それと、本格的な落語ファンから見れば、米朝師の落語を継ぐのは吉朝師だと思っていたハズです。
ならば、自分はどう将来レベルアップしなくてはならないのか、
そんな事を考えてしまったのかなあ〜と思っています。

TVと芸のギャップに悩んだのは小圓遊師も同じですね。

「バカ言ってんじゃねえよ!」
と思った方もおいででしょうが、独断と偏見でかきましたw

昇華した枝雀師匠を聞いてみたかったなあ・・・・
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_SL500_AA300_今日は、今となっては聴けなくなってしまった噺の「会長への道」です。

漫談なのですが、内容は皆さんご存知で、「将来は落語協会の会長になることが目標」という野望の元、
各先輩方を一人ひとり、誰々は高血圧だとか噺の上で殺してゆくというブラックな噺ですが、
最初は香盤が上の噺家さんが沢山いましたが、段々少なくなってしまい、
ついには、自分が本当に会長になってしまったので、出来なくなって仕舞いました。

馬風を襲名した当初は先代と同じ様に「よくきたな」とかやってましたが、
当人いわく、「どうも自分には合わない」と思いやめて、試行錯誤の結果、このキラーコンテンツを生み出しました。

しかし、出演の度にこれを演ってくれといわれ、放送全体でも楽屋受けを狙う風潮を生み出し、芸がなくとも仲間の失敗や悪口で受けるという安易な姿勢を世に認めさせることになってしまった様です。
この噺以前は「禁酒番屋」「紙入れ」「風呂敷」「短命」等柳家の滑稽噺をよく放送でも寄席でもやっていたのですが、これ以降は大分少なくなって仕舞いました。

今、市馬師が高座で歌いますが、以前は馬風師が「峠の唄」というネタがあり、美空ひばりさんの唄をメドレーで唄ったり、前座を皆出させて踊らせたりしていました。
今でも美空ひばりメドレーはやりますね。

ちなみに、「笑点」の山田くんは馬風師の弟子で、鈴々舎鈴丸という名を持っています。

最後に経歴を・・・・

代目鈴々舎 馬風 1939年12月19日生、出囃子は『本調子のっと』、本名 寺田 輝雄
1956年5代目小さんに入門、小光、1960年3月 - 二つ目昇進 かゑる、
1973年3月 - 真打昇進。1976年5月 - 5代目鈴々舎馬風襲名
2006年6月 - 3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会会長就任。
2010年6月 - 落語協会会長を退任。続きを読む

20090924_981619今日は志ん生師の名演が光る「お直し」です。

1807年の喜久亭壽暁のネタ帳「滑稽集」に「なおし」とありまして、これが元です。
現在のは三代目小さん師から志ん生師に伝わり、今になっています。
昭和31年度の芸術祭賞を受賞したのは、余りにも有名です。

ごくごく簡単にあらすじを、書いておきます。これは筋を読むだけでなく聴いて欲しいですね。

 吉原の女郎と牛太郎が許されない関係に落ちて仕舞います。
ところが、店の旦那は二人を一緒にした上で、女郎はおばさんとして引続き働かせてくれました。
 
しばらくまじめに働いたが、やがて男が博打に手を出してしまい、借金が残りました。
どうしようか、途方に暮れているところに、けころに空店があるが商売をしないかと誘いがあったので、
カミさんが女郎になり、男が若い衆として女郎屋を始める事にしまいした。
 
けころでは、線香一本が燃え尽きる時間で料金が加算されて延長するのを、「お直し」というのです。
カミさんが客に色良い返事をする度に「直してもらいな」「あら、お直しだよ」と言う調子で一人目の客をあしらった後で男でしたが、段々面白く無くなってきて
「止めた、止めた、馬鹿らしくてやってられねぇ、俺と別れてあの客と一緒になるのか」
「馬鹿だねこの人は、客あしらいに決まっているだろ。こんなに妬かれるなら止めるよ」
止められては困ってしまうから、もう妬かねぇから、もう一度頼むよ。
そこへさっきの客が戻って来て  「直してもらいなよ」

これだけ読んだのでは感じが判りませんが、志ん生師の高座はカラッとしている中にも、
夫婦の味わいがあります。
これは志ん生師がこの噺を人情噺等ではなく、あくまでも落語として演じているからだと思います。
ここを履き違えると、いわゆるクサイ芝居になって仕舞います。

ケコロというのは、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称の事です。
吉原では、羅生門河岸という所に居まして、京町2丁目南側、お歯黒どぶといわれた真っ黒な溝に沿った一角でした。
表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、「お直し、お直しお直しィッ」と、
立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、素っ裸にむいてしまうという正に羅生門という感じだったのですね。

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d3d3a271今日は大相撲も一応開催されているので相撲の噺です。

横綱・谷風は実在した力士ですが、佐野山に関しては?居なかったという説もあるそうですが、
佐野山は確かに実在の力士で、この噺のモデルは江戸時代の文化頃に活躍した人物だと思います。

江戸時代の大横綱で谷風梶之助は名人を通り越して人格者でした。その
谷風が生涯一回だけ八百長相撲をヤッタという噺ですが・・・創作ですw

江戸の相撲取り、佐野山は幕内にまで入った力士でしたが、、母親が病気になり、看病に時間を費やすうち、相撲の成績がジリ貧に。
とうとう幕下の一番下まで下がってしまいました。
「ああ、これでおれの相撲もおしまいか」そんな佐野山の嘆きを耳にした横綱・谷風は佐野山との取り組みを希望します。
当時全盛の横綱・谷風と連敗続きの佐野山の取り組みに相撲贔屓は驚きます。
「あんなに実力差があったんでは勝負になるまい」という声や、
「明日の取り組みは遺恨相撲で、女をとられた谷風が佐野山を投げ殺すらしい」などという噂が飛び交います。
魚河岸や大旦那連中は100両、200両、花柳界のお姉さんまで佐野山に祝儀約束をします。
それもそのはず、勝てる見込みは無いから、みんな言いたい放題、無責任に言っている始末。 
さて、いよいよ千秋楽結びの一番。
谷風には思惑があったのでした・・・・・

当時の相撲興行は晴天十日でしたから、十日で終わる事は少なかった様です。
雨が続くと10日が2倍にも3倍にも興行日が延びてしまうのですね。
もちろん会場は両国の回向院で開催されました。




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050今日は志ん生師の命日ですね。もう39年が経ちました。来年は40年の区切りを迎えますね。

今でも大人気の志ん生師の芸を語るなんてのは、恐れ多くて尻の青い私にはできません。(^^)
でも、これだけは言えます。
ありとあらゆる落語を聴いてその末に志ん生師を聴くと、その凄さの一片ぐらいは理解出来るであろう・・・と。

なんてねw
今は大人気で観光名所にもなりました、東京スカイツリーですが、かってその地に志ん生師が住んでいました。
曰く、大家側の宣伝代わりに家賃を免除されていたそうですが、ここがひどかったそうです。
湿地帯にろくに整備もせず土だけ入れて、その上に家を立ててしまったので、モロに湿気が上がって来るのだそうです。湿気だけなら良いのですが、夕刻になるとナメクジが家に這い上がってくるのだそうです。
それも半端ない数で、しかもその大きさが極めて大きかったそうです。

しかし、その後戦後になって志ん生師は売れてきまして、日暮里に家を立てる事が出来ました。
それを知った、業平のナメクジ達は、「俺らの志ん生が出世したそうだから、ひとつお祝いに駆けつけ様じゃないか」と、日暮里の志ん生宅にやってきて、その暮らしぶりを見て、「こんなピカピな家じゃあ。落ち着いていられねえや。早く、なめくじ長屋に帰ろう」とそっと帰って行ったという事です。

まあ、これは新内の「なめくじと志ん生」ですが、岡本文弥さんが弾いてくれています。
文弥師匠が、ユーモアたっぷりの中に、ペーソスをまじえて描いた素敵な作品です。志ん生師匠に対する、文弥師匠の友情が、強く感じられます。しんみりとした中々良い感じです。
志ん生師も「ほろりとして妻と聴いた」と語っていたそうです。

あのナメクジは今のスカイツリーの様子を見て何と思うでしょうかねえ。
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