はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2012年03月

鯔背な噺家、春風亭一朝師

40175967f970c1b3bace0339e6f34c15今日は春風亭一朝師について書いてみたいと思います。

1950年東京足立区生梅田まれ。
私の所のすぐ側です。
1968年3月に 入門しました。五代目柳朝師の一番弟子です。
1970年4月 前座になる。名は朝太郎。
1973年9月 二つ目昇進し、一朝に改名しました。
出囃子は「菖蒲浴衣」ですが、あのこぶ蔵とは違う処を使っています。(こぶ蔵はやく出囃子を変えなさい!)
この時、師弟で大師匠、正蔵師宅に挨拶に行った時に、正蔵師が若い頃に稽古をつけて貰っていた三遊一朝師の「一朝」の名を貰っています。
この時師匠柳朝が「ホントなら俺が欲しかった」と言ったとか・・・
これは、最初正蔵師に処に弟子入りをお願いしたのですが、すでに前座が二人いるので、一番弟子の柳朝師を紹介された事を踏まえて、送られたと思います。
1982年12月 真打昇進

趣味とする笛は、歌舞伎や落語での囃子を担当する程の名手で、実際歌舞伎でお囃子を担当していました。
私も師匠の笛の演奏を生で聴いた事がありますが、音楽オンチの私でさえ感動しましたね。

前座時代のエピソードですが、その時に楽屋では三遊亭円生師匠等大師匠がいました。
すっかり舞い上がってしまった朝太郎さん(一朝師匠の前座名)は、ついお茶が通るという声を掛けるのを忘れて仕舞います。
間が悪いことに師匠のひとりがヒョイと立ち上がり、お盆にドーン。
乗せた茶碗をひっくり返してしまったのです。お茶が柳朝師匠の着物にバシャッと掛かりました。
脂性の人は手を洗ってからでなければ触るなというくらい着物は噺家にとって大切な商売道具です。
それを、ダメにしてしまいまって、その場で師匠に『声を掛けて通れと何回も教えたはずだ』とはり倒されましたそうです。
半べそをかいていると、言い過ぎたと思ったのか、『まぁ、仕方がねえや』といった具合に一生懸命フォローしてくれたそうです。
その師匠の優しさが身に染みて、うれし涙を流したそうです。

弟弟子の小朝師に真打昇進を抜かれて仕舞いますが、腐らず地道に芸を磨いて、いまでは
落語界一の粋で鯔背な噺家さんになりましたね。
もちろん噺も江戸前で、この点は師匠の芸風を色濃く受継でいます。
NHKのドラマでは江戸弁の指導もしていましたね。

弟子には六代目柳朝さんや今、真打披露している一之輔さんをはじめ、朝也、一左、朝呂久さんと居ます。

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七代目 むかし家今松師

imamatu今日はむかし家今松師を取り上げたいと思います。

1945年松戸市生まれ
1965年1月 10代目金原亭馬生に入門、前座名は「駒次」。
1970年4月 二つ目昇進し、7代目むかし家今松を名乗る。この名は師匠馬生が戦時中の二つ目時代に名乗っていた名前です。
1981年3月 真打昇進、出囃子は「舌出し三番叟」

とまあ経歴はこんな感じですが、この師匠聴いていて実に心地よいのです。
言い換えれば、聴いた後に心に暖かい気持ちが残るというか、師匠の馬生師もそうでしたね。
雲助師とは又違う面で馬生師の噺を色濃く受継でいる噺家さんです。
すでに落語ファンの間では評価が高いのですが、お前が今更何いってんだ、と言われそうですが・・・・

寄席には本当に色々な噺家さんが出演しますが、この一席だけ聞ければ良い!
という噺家さんはそうは居ません。
今松師はその数少い噺家さんの一人です。

「首ったけ」「お茶汲み」 等の古今亭の噺は云うに及ばず、色々な噺をこの人の語り口で聴かせてくれます。
寄席や落語会で名前を見かけたら、是非聴いてみてください。
個人的には最近、風貌も師匠に似てきた感じがします。(^^)

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三井の大黒

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今日は、左甚五郎の噺の中から、「三井の大黒」です。

講談から落語化されたもので、六代目円生師と三代目三木助師が、十八番としました。
とりわけ三木助師は、同じ甚五郎伝の「ねずみ」も事実上の創作に近い脚色をするなど、
甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようで、この噺もたびたび高座に掛けました。
三木助師の最後の高座となった、昭和35年11月の東横落語会の演目も、この「三井の大黒」でした。

飛騨の名工・左甚五郎は、伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼されます。
手付に三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきました。(竹の水仙はこの道中の噺)

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染(あいぞめ)川に架かる橋に来かかると、普請場で数人の大工が仕事をしているのを見かけます。

見てみると、、あまり仕事がまずいので
「皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」と喋って仕舞います。
これを聞いて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたきにします。
棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(ばんじょう=大工)と聞くと、同業を悪く言ったお前さんもよくない
と、たしなめるます。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候をします。
名前を聞かれ、名前を忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぽんしゅう」とあだ名で呼ばれることになりました。

翌朝、甚五郎は早速、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、名前を忘れるようなあんにゃもんにゃには下見板を削らしておけと、いうことになりました。
これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、思いましたが腹に納め、
鉋の刃を研ぎ出します。
その後、削り板に板を乗せ削り出し、これを合わせると、小僧に剥がしてみろ、と言います。
小僧がその板を剥がそうとしても、二枚が吸いつくように離れません。
話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、離れないのは板を水に漬けたからだろう、と言います。

その年の暮れ、政五郎は居候を呼んで、江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんには合わないと話し
上方に帰る様に言います。、
その前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと、勧めるので、
甚五郎、三井家からの依頼を思い出します。そして、ぽんと手を打ち「やらしてもらいたい」

それから細工場に二階を借り、材料を選ぶと、さっそくこもって仕事にかかります。
何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎がのぞくと、
二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。
隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。
そこには一体の大黒像で、折しも部屋に差しこんだこぼれ日を受け生きているかのごとくにこやかに微笑みました。
政五郎は「……これは……」と驚く。

そのとき、下から呼ぶ声。
出てみると、駿河町の三井の使い。
手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、なるほど、大智は愚者に似るというが、と感心しているところへ当人が帰って来ます。
甚五郎は、代金の百両から、お礼を渡します。
「恵比寿さまに何か歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」
そこで、さらさらと
「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、
いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節でございます。

左甚五郎(1594〜1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。
京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、
彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

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酔うとろくな仕事は出来ません!

2580_2今日は「ガマの油」です。

元々は「両国八景」と言う長編落語の後半部だったものが、独立して一席になりました。

 大道商売の口上と言えば有名なのが「がまの油売り」
黒羽二重の紋付き袴姿で、さあさ、御用とお急ぎでない方はゆっくりと見ておいで、と口上が始まります。
……遥か筑波山の四六のがまだ、四六五六はどこで分かる、前足の指が四本後ろが六本……(刀を取り出して紙を切って見せる)一枚が二枚、二枚が四枚……(がまの油を塗って刃を顔に押し付ける)叩いて切れない、押して切れない、引いて切れない。と、名調子です。

結構いい商売になったので、縄のれんでちょっと一杯飲んで、今日はノリが良いからもう少し稼ごうと、酔った勢いで元の場所に店を出した。
 さぁさ、ヒック、御用とお急ぎでない方は……これが遥か箱根の山の、いや箱根じゃねぇな、何処かの山だ……(刀の場面で)叩いて切れない、押して切れない、引いて、あれ、引いたら切れちゃった。慌てず、がまの油をつけると、あれれ、血が止まらない。
 さて、お立ち会い、血止めはないか。

なんて言っても三代目柳好師の名調子がいいですね。
圓生師の鮮やかな口調も忘れられません。一昨日浅草で、圓丈師の「新・ガマの油」を聴いたのですが、
最初の口上が圓生師を思い出せてくれる口調でした。

三代目金馬師が若いころ三代目圓馬師について巡業していた時、ある所で、がまの油売りがいたのですが、
余りにも下手なので金馬師が変わりにやってあげたという逸話も残っています。

志ん生師の「びんぼう自慢」によると、前座で朝太時分のこと。
東京の二ツ目という触れ込みでドサ廻りをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。
ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。
「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。
どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、
ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。
おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」
ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

口上の中の「テレメンテエカ」はポルトガル語で「テレメンテエナ」と言い、テレビン油の事です。
マンテエカ について調べると、これもポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。
知らないで聴いてましたね。(^^)続きを読む

先代鈴々舎馬風師匠/浅草3月下席6日目夜の部

img_785584_55683488_0今日は先代鈴々舎馬風師匠について書いてみたいと思います。

写真は随分若い頃ですねww
本当は四代目なのですが自称九代目と言っていました。
実家は浅草の仕出し屋で、少年時代は柔道に明け暮れていたそうです。
手のつけられない不良だったそうで、警察の世話なった事もあるそうです。
ある日留置所に放りこまれたが、その時出された弁当が不味いと文句を言ったらお前の店のだと逆に叱られ、家に帰って「俺が警察に捕まったらもっといい弁当を持って来い」と竹刀を振りまわして暴れたと言う逸話があります。
小圓歌姐さんの実家が馬風師の家の隣で、小さい頃はよく可愛がって貰ったそうです。
厳つい風貌から取った異名が「鬼の馬風」
新聞記事から拾ってきた出来事をベースとした新作落語、いわゆる『時事落語』というジャンルで名を馳せました。

「エーッ、よく来たなァ」という前口上は多くの落語家に物真似されましたね。
当代は先代と生き写しと言われた事もあります。
それで、先代の真似をしたのですが、全くウケないのですぐヤメました。

「どこから来るのか知らねえけど、よくあすんでられるなあ。よっぽど家にいられない事情があるんだろうなあ。お帰りよ!」と言って
「嘘だよ、ひでえこと言っちゃったねえ、どうも」と頭を下げるのに何とも言えぬ愛敬があったそうです。
また、刑務所の慰問に行って受刑者を前に開口一番「満場の悪漢どもよ」「悪漢どもよよく来たなあ」と毒舌を吐き「手前らいい所に住んでやがるなあ。三食ついているしテレビもある。俺なんか見てみろイ。テレビなんか家にあるもんか。いつも電気屋ン前に立って見てるンだ」と言った逸話は有名です。

5代目小勝師から落語家は現代の事を知らないと行けないと教えられ、その日の朝刊には必ず目を通し、気のついたニュースを選んで高座にかける精進を続けていたそうです。
実は当時、中学を卒業しており、当時の噺家の中ではインテリに入ったそうです。
勉強家でもあり、その風貌とは裏腹だった様です。
最近はその日のニュースを噺のマクラに持ってくる噺家さんはほとんど居なくなりましたね。
私が知ってる限りでも以前は結構いましたね。

晩年の1960年9月、愛用したヒロポンが原因で、中風で倒れる。右半身不随となるも高座への執着心を見せリハビリの末1963年5月復帰しました。

圓生師には徹底的に嫌われていたそうです。
「何でげす。ありゃ落語じゃござんせん」という圓生師に、「何言ってやんでえ。『どうもこの、落語でえのはこの』って言って目ヤニ取りやがって」と、互いに悪口の応酬であったと言います。
まあ、古典至上主義の圓生師から見れば、新作も評価の対象にならないのですから、馬風師のことを色物として見ていても不思議ではありませんね。
私は圓生師はとても好きですが、この点は今器量が狭かったかな?と思う事もあります。

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