らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2011年12月

ねぎま、と言っても魔法先生じゃ無いよ!なんじゃそりゃ!

6a0120a61e06de970c0120a61e072e970c-800wi今日は「ねぎまの殿様」です。
今日のタイトルは殆どの方には?だったと思います。「魔法先生ネギま」と言うアニメがありまして・・・そこから思いついたのですが・・すいません。

ここから真面目にやります!
明治時代に、先々代立川談志師の作を今輔師が直した噺です。ある意味新作落語なのかもしれませんが、同じ時期に出来た圓朝師のは噺が古典扱いされてるので、こちらも古典でいいのかもしれません。
「目黒のさんま」と同じたぐいの噺ですが、こちらは余り高座には掛けられません。
最近は志ん輔師が演じる様です。

あるお殿様、三太夫を連れて向島の雪見にお忍びで出掛けました。
本郷三丁目から筑波おろしの北風の中、馬に乗って湯島切り通しを下って上野広小路に出てきますと、ここにはバラック建ての煮売り屋が軒を連ねています。
冬の寒い最中でどの店も、”はま鍋”、”ねぎま”、”深川鍋”などの小鍋仕立ての料理がいい匂いを発していますので、殿様 その匂いにつられて、下々の料理屋だからと止めるのも聞かず、一軒の煮売り屋に入って仕舞います。
醤油樽を床几(しょうぎ)がわりに座ったが、何を注文して良いのか分かりません。
小僧の早口が殿様にはチンプンカンプンで、隣の客が食べているものを見て聞くと”ねぎま”だと言うが、殿様には「にゃ〜」としか聞こえません。
さて、ねぎまが運ばれ見てみると、マグロ は骨や血合いが混ざってぶつ切りで、ネギも青いところも入った小鍋でした。
三色で三毛猫の様に殿様には見えたのですが、食べるとネギの芯が鉄砲のように口の中で飛んだので驚き。
酒を注文すると、並は36文、ダリは40文で、ダリは灘の生一本だからというので、ダリを頼みます。
結局向島には行かず、2本呑んで気持ちよく屋敷に戻ってしまった。
 その様な食べ物を食べたと分かると問題になるので、ご内聞にと言う事になったが、この味が忘れられぬ有様です。

 昼の料理の一品だけは殿様の食べたいものを所望できたので、役目の留太夫が聞きに行くと「にゃ〜」だと言います。
聞き返す事も出来ず悩んでいると、三太夫に「ねぎまの事である」と教えられます。
料理番も驚いたが気を遣って、マグロは賽の目に切って蒸かして脂ぬきし、ネギは茹でてしまった。
それで作った”ねぎま”だから美味い訳はないのです。
「灰色のこれは『にゃ〜』ではない」の一言で、ブツのマグロとネギの青いところと白いところの入った 本格的な三毛(ミケ)の”ねぎま”が出来てきた。満足ついでにダリを所望。
三太夫に聞いて燗を持参。大変ご満足の殿様、
 「留太夫、座っていては面白くない。醤油樽をもて」。

江戸時代の中頃まではマグロは江戸っ子はあまり食べなかった様です。
鮨が発明されて、ヅケが流行ると赤身は好んで食べられる様になりましたが、トロは捨てていました。
つい戦前まではそうだった様です。
そこで、このトロや筋の多い部分をぶつ切りにしてネギの青味とで小鍋仕立てにしたのが「ねぎま鍋」です。
やや醤油を効かせた味は東京ならではの味ですね。
私も好きです。きょうは「ねぎま」にしますか!

小鍋仕立てとは、小さな鍋に二種類くらいの材料を入れてさっと煮て食べる料理の形態で、粋な食べ物ですね。
小鍋の向こう側に美人でもいれば、なお美味しく戴けますね。(^^)続きを読む

東京かわら版新年1月号を読んで

img057今日は昨日、届いた「東京かわら版」新年1月号より話題を拾ってみたいと思います。

表紙は御覧の通り、あした順子師と内海桂子会長です。
インタビューもこのお二人。お二人で浅草の思い出やら話していますが、あの順子師が桂子師には敬語を使ってる!と言うのが新鮮です。凄いなぁ〜
桂子師匠は順子師のお父さん世代なんだそうです。(芸歴とした世代)
なら、当たり前ですね。今はAKB48と言うユニットを組んで活動されていますからね。
AKB48の意味は、あした順子のA、内海桂子のK、ばばあのB、シワだらけの48、と言う意味だそうです。
何時までもお元気で高座に立っていてくださいね。

巻頭の、落語と私は板尾創路さんで、この度の映画「月光ノ仮面」の事ですね。何でも落語をテーマにした映画だそうで、「粗忽長屋」がベースになっているとか。映画の中でも噺が登場するそうです。

立川談志公式追悼盤 「家元自薦ベスト」の広告が載ってます。
これは先日のお別れ会で配布されたやつですね。
演目は「やかん」2007.12.8、「天災」2008.2.29の二席二枚組で税込3150円でキントトレーベルから発売です。
詳しくは、www.danshi.co.jp か www.kintoto.com 迄

「七十年はひと昔」は歌六師匠です。実家がなんとレコード店」だったそうで、小さい頃から落語のレコードを聴いていたそうで、それもあって収集しだしたとか。昭和三十年代にSpからLPに変わる頃は面白い様に古いレコードが中古屋に集まったので、簡単に入手できたそうです。

そして、いつものように、演芸クイズが載ってます。
堀井ちゃんのコナーは、談志師のデータで、ひとり会での演目の多さとかやってます。
若手の紹介は、芸協の桂才紫さんですね。最近結構寄席に出ています。

「本日のお題」 噺の紹介コーナーは「袈裟御前」です。
TV,ラジオの演芸番組の紹介ですが、お正月なので、色々あります。
書き切れないので、ラジオから少し取り上げると。
元旦 文化放送 13-14時 「桂吉坊の会」 が放送されます。最近結構いい!と噂を聞きますね。どうなんだろう?
NHKは、1.3.4と深夜1時台で落語を放送します。1.右團治.駿菊.3.紅.松鯉.4松鯉.となっています。

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拾ったのが夢で飲み食いが現実って・・・

botefurisakanaya今日は暮れの噺の大作、「芝浜」です。
この噺は三代目三木助師によって飛躍的に有名になりました。
原作は三遊亭圓朝師で、三題噺からの創作と言われています。
三題噺のお題は、「よっぱらい」と「皮財布」と「芝浜」と言われていますが諸説あります。

魚屋の勝は酒におぼれ、仕事に身が入らぬ日々が続く。ある朝早く、女房に叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に向かいますが時間が早過ぎたため市場がまだ開いていません。
誰も居ない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然に財布を見つけます。
開けると中には目を剥く程の大金。有頂天の魚屋は自宅に飛び帰り、仲間を呼んで浮かれ気分で大酒を呑む始末。

翌日、二日酔いで起き出た魚屋に女房、こんなに呑んで酒代をどうするのか、と亭主に言います。
勝は拾った財布の件を躍起になって訴えるが、女房は、そんなものは知らない、と言う。
焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、何処にも無い。勝は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。
なんて情けない夢を見たのだと思い、酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出します。

懸命に働いた末、生活も安定し、身代も増え、やがていっぱしの定店を構えることが出来た三年後の大晦日の夜、勝は妻に対してその献身をねぎらい、頭を下げる。ここで、女房は魚屋に例の財布を見せ、じつは・・・と、告白をはじめます。

あの日、夫から拾った大金を見せられた妻は困惑しました。と言うのも、横領すれば当時は死罪にあたります。
(江戸時代では10両(後期は7両2分)盗むと死罪です)
長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は夫の大酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言い切り夢と言う事にしました。
時が経っても遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されたのでした。

この真相を知った勝はしかし、妻の背信を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。妻は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ魚屋だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」しかし思い立った勝、次には杯を置く。

「よそう。また夢になるといけねぇ」

三木助師の噺が有名になったのは、安藤鶴夫先生の宣伝もあったそうですが、噺に日の出の様子をいれた描写は当時は新鮮だったのでしょうね。
私の個人的な意見ですが、その為、勝っあんのだらしなさが少しスポイルされてしまうと思いますが、
如何でしょう・・・

あと、この女房の描き方が色々な噺家さんで変わってきますね。
有名なのは談志師で、原作通りだと「できすぎ」と言う事で、告白の時に「騙して申し訳無い」と心から謝罪して涙を流す、偉ぶらない妻として描いています。そして女房を可愛く演じていますね。(その後何回も変えましたがw)

個人的ですが、人情の機敏さの本筋さえきちんと押さえていれば、噺としては良いのではないかと思いますね。
緻密な構成と人情味、そして素晴らしい女房だったら幸せですね。続きを読む

芝居茶屋特製の鍋はどんな味?

小鍋豚2-1今日は「鍋草履」と言う噺です。

芝居茶屋の若い衆が誂えの鍋を梯子段の下へ置き、幕が閉まるのを待っていたが、
舞台で上演中で出入り止めになっていて、客のところへ鍋を持って行く事ができない、仕方なくその幕が終わるまで芝居見物を決め込みます。
ところが、そこへ降りて来た客が、鍋へ足を突っ込んでしまいます。
「知らぬが仏、見ぬもの清」だから、そのまま食べさせてしまえと言われ、そのまま持って行ってしまいます。

お客は遅いとイライラしながら待っています。そこへ持ってきたので、早速食べる事にします。
中身はと見ると、崩し豆腐に崩し魚と変わってるが中々のいい味。
食べ進むに連れて、何やら硬いものがあります。
そこへ、先ほどの男がやってきます。若い衆が何事かと聞くと「鍋の中の草履を取りに来た」

この噺は、初代圓右師の録音が残されていますが、長らくやり手がなかった噺を、現芸協会長の歌丸師が復活させた噺です。今では歌丸一門はもとより、芸協の若手も演目に掛けます。

当時の芝居見物は飲み食いしながらの見物で、注目の場面になると真剣に見物するというスタイルだったそうです。
その為、薄暗い場内で見栄をはる顔を良く見るため、顔を照らす黒子さんもいました。
そういう時等に掛け声が掛かったようです。
ですから、中村仲蔵等は、一発決めたのに、シーンとしてる場内をみて、「やりそこなった」と感じたのでしょう。

この噺は、芝居茶屋の若い衆が止められてるので、忠臣蔵の四段目あたりでしょうか?


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樹の枝に止まったのはなんて鳥?

3880d2b42ff8e32a1299d48aa9a4f0e1今日は、軽い噺の代表「つる」です。

元は、「絵根問」という噺の最後の部分だったが、上方落語の4代目桂米團治師が独立させてまとめたとされています。
寄席でもよく掛かります。必ずと言って良いほどですね。単純な噺で前座噺とも言われています。

暇つぶしに隠居の所へ来た八五郎。
話をしていると、そのうち話題が散髪屋の床の間にあった鶴の掛け軸の事になり、八五郎は「『鶴は日本の名鳥だ』って奴がいたけど、ありゃ何で名鳥なんですか?」と質問します。
すると、隠居は「日本の名木に『松』がある。松に鶴は良く似合う」と説明し、何とか話を理解した八五郎が、次に質問したのが鶴の由来。

すると隠居は、鶴が唐土から飛んで来た際、「雄が『つー』っと」、「雌が『るー』っと」飛んで来たために「つる」という名前になったと説明。
それをジョークだと見切った八五郎は、その話を他のところで披露し、引っかかった相手を笑ってやろうと隠居の所を飛び出したのですが・・・

訪れた先で、いざ披露します。「つる」の由来について半ば強引に教えるのですが、「雄が『つるー』っと」と言ってしまったために困り果ててしまい、隠居の処へ戻ってもう一度教えて貰います。
隠居も、呆れながらも教え直して、これで大丈夫と思った八五郎は先程の所へ行くと、また話始めます。
今度は「雄が『つー』っと来て『る』と止まった」と言ってしまったため、苦し紛れに「雌が黙って飛んで来た。

上方では、八五郎が隠居の言った鶴の由来を本物だと信じて行動するパターンで、江戸では冗談と知りつつ
自分も誰かを引っ掛けてやろうと行動する処が違います。

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50両をぶつけて逃げた親方

bunsichi003今日は暮れの噺でも大作とされる「文七元結 」です。

圓朝師の創作で有名ですが、八代目正蔵師の説によると、それ以前に同種の噺があり、圓朝師が自分の創作部分を加えて、人情話に作りなおしたそうです。真意はわかりませんが、きっと全く違った噺になっているのでしょう。
また、明治の政治家井上馨らが江戸っ子の気質とは、と問われてこの噺を作ったと言う説もあります。

もう、歴代の大師匠が演じていますので、圓生師、正蔵師、志ん生師、皆いいです。現役では小三治師がダントツですね。志ん朝師は個人的にですが、吾妻橋で50両を渡すシーンがややくどいと思うのです。

左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きが高じて、仕事もせずに借金を抱えています。
年の瀬も押し迫るある日、前夜の負けがこんで、身ぐるみ剥がれて半纏一枚で賭場から帰されると、
女房のお兼が泣いている。
聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと、夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている吉原の女郎屋の大店、角海老から使いのものが来ます。
取り込み中だから後にしてくれというと、他でもない、その娘のお久のこと、角海老の女将の所に身を寄せているというではありませんか。
女房の着物を一枚羽織って角海老へ行ってみると、お久は、身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいので、お角のところへ頼み込んだのだというではありませんか。
女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないから、次の大晦日までに金を貸してやるが、大晦日を一日でも過ぎたら、女郎として店に出すという約束で、長兵衛に五十両の金を渡します。

情けない思いをし、しかし改心しきった長兵衛が、帰り道に吾妻橋にさしかかると、身投げをしようとしている男がいます。
訳を聞くと、白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人(文七)で、お遣いに頼まれ、取りにいった売り上げをすられたので、死んでお詫びをしようというところだったと言います。
死んでお詫びを、いや、死なせねぇと押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って五十両を工面してくれたことをはなし、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰ってゆくのでした。

文七がおそるおそる主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、それはおかしい、お前が遣いにいった先で碁に熱中するあまり、売り上げをそっくりそのまま忘れてきてしまったものを、先方は既に届けてくれて金はここにある、一体どこから、また別の五十両が現れたのかと、主人が問いただすと、文七はことの顛末を、慌てて白状します。

翌日、卯兵衛は何やら段取りを済ませ、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴きます。
実は文七が粗相をやらかし…と、事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返そうとするが、長兵衛は、江戸っ子が一度出したものを受け取れるか!と受け取りません。
もめた挙句に長兵衛ようやく受け取り、またこれがご縁ですので文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをと、祝いの盃を交わし、肴をと、表から呼び入れたのが、近江屋が身請けをしたお久が現れます。
家族三人で嬉し涙にくれます。
後に、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾を分けてもらい、元結いの店を開いたという、文七元結由来の一席。

吾妻橋は夏の「唐茄子屋政談」でも登場しますし、その他にでも色々登場する落語の聖地ですね。(’だれも聖地巡礼しないけどww)

この文七元結を拵えた、桜井文七と言う人は実在の人物で、1683年美濃国生まれで、元結の多い長野県飯田で修行したあと江戸で活躍したそうです。名前が。江戸で有名で代々襲名されていたため圓朝がモデルにしたそうです。

元結とは男性のチョンマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐が元結です。当時、非常に弱く扱いにくかった為、文七はそこで修行を積みながら元結改良に日夜苦心を重ね、遂に光沢のある丈夫な元結造りに成功、販路を江戸に求めると、たちまち髪結床から注文が殺到、これを契機に江戸に卸問屋を開業して後、「文七元結」の名で国中の評判になりました。
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