はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2011年11月

こうゆうことなら命は短くてもいい?

kamisan今日は、これも永遠の名作「短命」です。
この噺は簡単そうですが、実は鸚鵡返し等が難しい事や変に下品になってもイケナイので真打の噺とされているそうです。
原話は享保12年の『軽口はなしどり』の中の一編です。噺家さんによっては「長命」と言う題で演じます。

 悔やみの言葉を教えてくれと、ご隠居のところに八五郎が訪れて、三度死んだ伊勢屋の旦那の葬式の手伝いだという。不思議に隠居さんが思って尋ねると、伊勢屋のお嬢さんと最初に一緒になった色白の婿殿が亡くなり、二人目はごつい男だったがこれも亡くなり、三人目の亭主が一年足らずでこの間亡くなったので、
これで三度死んだと言うでしょ。どうしてこうも続けて死んじゃうのかねぇ、と八五郎。
 話を聞いたご隠居が、解説を始めます。
 店の方はすべて番頭が見ているので亭主は月に一、二回帳簿を見るだけで、普段やることがなく暇だ。
目の前には震付きたくなる様ないい女。
飯時には手と手が触れる。冬は炬燵で脚が触れる。周りを見ても誰もいない。となればやることは一つ。
短命だろう。
説明を受けた八五郎は、指から毒が移るのかとか、いい女を見つめて飯を食い忘れるとかトンチンカンなことを言うが、どうにか意味を理解して家に帰ります。
 女房に給仕をさせて、ご飯茶碗を渡す時に手と手が触れる。目の前には震付きたくなる様な、、、。
「あぁ、おれは長生きだ」 

いわゆる『艶笑落語(バレ噺)』の範疇に入る噺でしょうが、戦時中なら禁演でしたが、今はこれくらいは、どうって事ありませんね。
この噺の聴き所は「遠まわしに説明する隠居と、なかなか理解できない八五郎都のやり取りですが、コレに限らず、実際の事でも鈍い人なんて居るものですね。

ところで、この伊勢屋の旦那の病気は昔は、「腎虚(じんきょ)」と言われました。
つまりはアッチの方が過ぎ、精気を吸い取られてあえなくあの世行きという訳ですね。(^^)

なお、志ん生師版では、最後のかみさんとの会話にくすぐりを多く用いるなど面白く工夫し、
サゲは「おめえとこうしてると、オレは長生きができる」というオチでした。


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浅草演芸ホール11月下席8日目

s-pikkari昨日は久々の仕事が休みだったので、気になる噺家さんが浅草に出ていたので、見に行きました。
それはこの写真の春風亭ぴっかりさんです。この11月に二つ目になったばかりの噺家さんです。
前座の頃はぽっぽと言いました。まあどちらも変わった名ですが・・・
師匠の小朝師は二つ目までは弟子に目立つ名前を付ける様ですね。あさり、あさいちとかね。
それから、小朝師が言ってましたが、弟子が何か光るモノを持ってるとか、この子は一番になる!
と思ったら置いておくが、そうでない弟子は辞めさせるそうですね。なんか納得しますが・・・玉の輔さんはどうなの?とつっ込みたくなりますがww

混んでいるのを見越して4時頃行きましたら、並んでいる数が半端jじゃありません。
結構メンバーが良いですからね。今回は読売のチケットだったので、後ろに並び入場を待ちます。
ならんでいる人の話を聴いていると、ほとんどが、寄席は初めての人ばかりの様で、トンチンカンな会話をしてます。
時間になりやっと入場しますが、当然立ち見。それも半端無く混んでいます。ラッシュ時の電車もかくやと言う混みようです。二階席が貸切なので特に混んでます。
何とか立つ場所を確保して高座に集中します。

最初がたけ平さんで「生徒の作文」アマキンなので、笑うことホント。
次が漫才のホンキートンクさんで、お次が馬楽師で「始末の極意」、
その次が、お待ちかねのぴっかりさんです。
ん〜、「カワイイ!」これが素直な感想ですね。(^^)いや〜オジサン殺しだわ!!
それに惑わされぬ様に高座に集中します。演題は「やかん」
テンポもよく、口跡もやや早い感じですが、聴きやすい声で悪くありません。
後半の講談掛かりになる下りもテンポよく進めていきます。
只、講談の口調から愚者(八五郎)の問いかけの口調に戻る時に少しつっかえましたね。
これは、ここの処はつっかえやすいんだそうです。ここがこの噺の気をつけないとイケナイ処だそうです。
二つ目になりたてと言う事を割り引いても、この子は面白いかもしれません。
若い頃の師匠小朝師や兄弟子の圓太郎さんに少し似ていますが、華があるし、口跡や声も聴きやすいので、
期待しても良いかも知れません。
次が川柳師で「戦後歌謡史」これ続けて3回目ですね。「ガーコン」じゃ無いんですよね。
この演目は余り歌わないので、喉の銚子が良くないのかな?昨日は風邪ぎみと話していました。
小菊さんの粋曲の後はしん平師で「地獄めぐり」でしたが、マクラで客を沸かせる事!
そのあとは朝馬師で「六角棒」で、いい調子でした。
アサダ二世さんのマジックは時間が無いので簡単でした。残念。
次は三三さんの代演で、インターネット落語会でお馴染みの喬之助さんで「真田小僧」でした。
仲入りは三平さんで、「水戸黄門」や自分の結婚式のネタの漫談と言うか父親のモノマネの様な高座でした。
袴をはいて、座布団に膝立ちになり扇子で高座を叩きながら「おかあさん、ホントなんですから〜」とやってました。ネタは作家が書いたのか判りませんが、よく出来ていました。
ならば、父親のモノマネに徹しなくて、自身のテンポで話せば良いとつくづく思いました。
昨日は古典はやらず、モノマネの漫談の様な細かい小咄を繋いでいく、父親の様な高座でした。
いったい、真打昇進の頃に小朝師から古典の特訓を受けて、自分でも高座で、ヘタなりに汗をかいて熱演していたのはどうしたのでしょうか?
私はこのままでは早晩、飽きられてしまうと思います。
同じスタイルだったら、父親の方が遥かに上手いからです。
ここで体力の限界で帰宅。時間をみると30分も遅れていました。この後大変だぞ〜と思いながら・・・続きを読む

荒川と言う川 その1 その成り立ち

img039え〜、いつもは落語の事を書いているのですが、これから落語の記事の合間に、私のもう一つの趣味である歴史、それも荒川について書いてみたいと思います。
左の図は明治期の墨田、江東、葛飾、江戸川、と足立の一部です。見てお判りの通り、荒川がありません。
そう荒川は人工的に開削された河川だったのです。それもつい最近と言って良い時代に・・・

荒川と言う川ですが、以前は「荒川放水路」と言う名前でした。
昭和40年に荒川となりました。
つまり、最初、どういう目的でこの川が作られたのか、その名前からでも推測されると思いますが、
荒川本流(隅田川)のバイパスとして掘られたのです。

古代からこの川は氾濫を繰り返してきました。歴史に残っている回数でも、明治以前の300年間に100回以上氾濫していたそうです。これじゃたまったもんじゃありませんね。
わが街堀切も以前は「蛙が小便しても水没する」と言われてきました。
img040-1これは明治43年の東京墨田の洪水の様子です。
話を進める前に、関東の川について簡単な基礎知識を・・・
東京に流れる川(自然な川)で大きいのは、江戸川、中川、隅田川、多摩川ですが、このうち多摩川を除く川は本来は利根川水系の川でした。
今でも中川と江戸川は変わりませんが、隅田川(荒川)は江戸時代の代官、伊那氏によって河川の付け替えが行われ、入間川水系に変わってしまったのです。
人間で言うと本籍地が変わったと言う事ですね。
元の水系は元荒川として残っています。
そうしなければならない程、利根川の管理は厄介で、最終的には利根川本流の大規模な付け替えと開削が行われ、現在の様に銚子に流れ込む様になりました。これは水運の関係ももちろんあります。
img041-1荒川を付け替えても氾濫は収まらず幕府の悩みのタネでした。
そういう歴史があるからこそ、下町一帯を襲った洪水が続けて起きた事により、放水路の開削が決定されたのです。
これは当時の工事風景です。私の祖母はこの工事現場のトロッコで遊んだそうです。

history04_04
そこで白羽の矢が立ったのは、パナマ運河の竣工に参加し、当時世界でも先端の技術を学んだ青山 士(あきら)氏でした。かれは工事の先頭に立ち、積極的に建設を続けて行きました。
途中、大正12年の関東大震災で堤防に亀裂が入ったりしましたが、明治44年の決定から20年弱の歳月をかけて昭和5年に完成しました。全長22狙酩500mと言う堂々たる放水路の出現です。
青山氏の設計した岩淵水門は旧岩渕水門として残っています。
これは工事中の旧岩渕水門です。
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長くなるので、今日はここまで・・次回から、テーマ別に書いてみたいと思います。
これで、人々の暮らしはどう変わったのか、また文化財等はどうなったか、工事によって交通がどの様に変わったか等ですね。

追伸・・・荒川とはあまり関係無いのですが、実は、中川も都内の部分にに入ってからは半分は人口的に開削されたのです。
くねくねと曲っているので、自然の河川と思いがちですが、じつはこの部分は江戸時代に開削されたのです。
じゃ本当の中川は、と言うと古隅田川がそれなのです。
つまり、現在の亀有あたりから左に折れて、葛飾と足立の境を西に流れてゆき、小菅で綾瀬川に合流し隅田川に注いでいたのです。これじやたまりませんね。(^^)
なお何故くねくねとなっているか?と言うと、工事費と期間削減の為、付近にあった湖沼や細い河川を利用して、それらを繋げて行ったのです。だから下流の方はそれらが無かったので、まっすぐになっています。
いまではそれらは荒川に利用されています。(江東区あたり)

追伸の追伸・・・今日の読売の江東版に荒川の記事が載ってましたね。かぶってしまった・・・
内容はおんなじ様な感じで向うはさすがプロですね。書き方がちがうww
写真は違っていたので一安心(同じ写真持っていますがw)

一生のうち三度神懸る男

A308_T1今日は、少し早いですが、「御神酒徳利」と言う噺です。
この噺は別名「占い八百屋」とも言いますして、柳家の噺家さんは題名は同じでもこちらの型で演じます。
三遊派は今日紹介するやり方で、圓生師が御前口演で演じた噺です。

日本橋馬喰町の大店の旅籠刈豆屋吉左衛門で働く通い番頭の善六さん。
年に一度の十二月十三日大掃除の時、先祖が徳川様から頂いた銀の葵のご紋の入った一対の家宝の御神酒徳利が台所に転がっているのを見つけました。
しまうところがないので水瓶の中に入れ、そのまま忘れてしまったのです。
このお神酒徳利で大神宮様にお神酒を上げるのが慣わしになっているんもですが、後で徳利が無いと大騒ぎ。善六さん家に帰ってから思い出したが、今更自分がしたとは言えません。
すると 、おかみさんは父親が易者だったので、徳利のあるところは判っているからソロバン占いをして、出せばいいと言ます。
生涯に三度だけ占う事が出来るという触れ込みで、占う事にしました。無事徳利が見つかったというので、ご主人は大喜び。
 この見事な、不思議な占いを宿に泊まっていた鴻池の支配人が知り、実は鴻池の一人娘が難病にかかり、その原因がどうしてもわからない、それを何とか占って欲しいと依頼をします。
善六さんは本当に占いが出来るわけがないので、引き受けたくないのですが、おかみさんにそそのかされて、こんなチャンスはめったにない上に三十両が貰える、占いは適当にやればいいからと大阪にしぶしぶ行くことになりました。

 善六さん、支配人と大阪に向かう道中、神奈川宿で、滝の橋の新羽屋 (にっぱや)源兵衛という鴻池の定宿に泊まろうと立ち寄った のですがどうも様子がおかしいのです。
訳を聴くと、女将は四,五日前に薩摩武士が泊り、金七十五両と幕府への密書が入っている巾着が無くなったので、内部の者に嫌疑がかけられ、主人源兵衛は取調中で連れていかれているとの事です。。
 これを聞いた支配人、じゃここにおいでになる占いの善六先生に見てもらったらいい、まだ1回あるからお願いしますという。
もとより占いを知らない善六さんは 、お供えにハシゴだワラジだ大きなおむすびだと夜逃げの算段。
すると夜中に女中が善六の部屋にやって来て「自分が親の病気を治したいばっかりに盗んだ」と白状しました。隠し場所は嵐で壊れた庭の稲荷の社 (やしろ)の床板に隠したと聞いて女を帰します。
早速宿の女将を呼んで、あたかもソロバン占いに掛が出たと、在りかを当てたので宿中大喜び。新羽屋から礼にもらった三十両の内女に5両与え、女将には稲荷の社を直すように諭し大阪に。

 三度目の占いに掛かった時は、苦しい時には神頼みで、水垢離を続けた処、満願の日に神奈川宿の稲荷大明神が夢に現れ、稲荷の社の修復と信心が戻った事への感謝をあらわし、「鴻池家の乾(いぬい=北西)の隅の柱の四十二本目の土中に観音像が埋もれているから、これを掘りだして崇めれば娘の病気はたちどころに治る」と教示されます。
早速掘ってみると夢の通り観音像が出てきたので鴻池家ではこれを機に米蔵を開いて大阪三郷の貧民に施しをしたので、慈善の徳で娘の病気は全快しました。
 善六さんは鴻池から金を出してもらって馬喰町に立派な旅籠屋を建て、いままでの貧乏暮らしが一躍大金持ちになりました。
もともとソロバン占いで成功したので、生活が桁違いに良くなった・・・

柳家の型では主人公は八百屋さんで、出入りの大店で女中さんに嫌がらせを受けた腹いせに、徳利を隠して、その後占いで当てた様に演じます。ほとんど同じですが、三島の宿での出来事で、困って夜中に逃げ出して仕舞います。

日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街で、東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここの旅宿にワラジを脱ぎました。
噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取り締まりで、実在の人物です。
「御神酒徳利」とは、神前に備える対になった徳利のことで、神社等では錫制で、他には伊万里や備前・丹波・瀬戸等があります。噺では圓生師は銀、小三治師は錫製です。

圓生師がこの噺を御前口演に選んだのは、悪人が出てこない、トントン拍子に事が運んでおめでたい等の理由だったそうです。


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まさかこんな展開になるとは・・・・

photo_2今日は「高砂や」と言うおめでたい題が付いている噺です。

古くから演じられている噺で、「仲人役」と題した、明治32年の四代目柳亭左楽師のものが残りますが、
謡(うたい)が豆腐屋の売り声になるギャグはそれ以来、変わりません。
八代目柳枝師、六代目柳橋師、五代目小さん師がよく演じ、それぞれ速記・音源があります。
最近では小三治師がたまに演じますね。聴いたこと有るけど・・・確かCDも出ていたと思います。

 伊勢屋の仲人をすることになった熊さんですが、ご隠居さんから色々と仲人の手引きを教わっています。
「お開きの段になって、高砂やを歌うんだよ。上手かないけど私がちょっとやってみせよう」
「白扇を持って、目八分というから鴨居の当たりを見て【たぁかぁさぁごぉやぁー】という具合だ、さあやってみろ」
「やってみよう【たぁかぁさぁごぉやぁ〜】」
「それじゃ都々逸だよ、豆腐屋の売声をまねてご覧」
「それなら出来る」
【とぉうぅふぃ、たぁかぁさぁごぉやぁ】
「なかなかいいよ、後の方は先方の親戚の方が引き受けて下さるから大丈夫だ」
と何とか即席で覚えましたが・・・
さて、いざ本番でも【とぉうぅふぃ】と始まり【このうらぶねにほをあげて】まで歌って、続きは親戚の方にお願いします。
と言ったのですが、
「親戚筋は不調法でして続けてお願いします」
 それは話が違うと逃げようとするが、続きを続きをと追い詰められ、ついに困り果て、
【たかさごやぁ、たすけぶねぇ〜】

同じように婚礼の席で失敗する噺に「松竹梅」があります。
これも柳家の噺ですね。柳家一門の噺家さんがよく演じます。

本当はこの後、 「高砂や この浦舟に帆を 下げて〜」などとやっているうち、一同が巡礼歌の節で「高砂や」を謡いだしてしまい、しまいには一同揃って「婚礼にご容赦(巡礼にご報謝)」と下げるのですが、
分かりにくいことから、「助け舟」でサゲることが多くなっています。と言うより最近はここまで演じませんね。

一昔前まで、結婚式で謡曲の「高砂」や「鶴亀」を謡う人が多かったので、そうした風習を下敷きにした噺ですね。
江戸時代の結婚は家同士の結びつきという側面が大きかったので、そのあいだに立つ仲人は大変だったそうです。
それに、持参金の一部がお礼として仲人に支払われたので、仲人を仕事として請け負っていた人もいたそうです。続きを読む
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