らくご はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2011年10月

一晩で五人稼ぐ売れっ子なのさ、ワタシは・・・・

daimonzu-2-kiichi今日は廓噺の名作、「五人廻し」です。
初代柳家小せん師が現在の形にしたと言います。昔は「七人廻し」なんて噺もあったと圓生師が言ってましたね。
”廻し”と言う制度は関東にしか無かったそうですが、元々は上方でもあったそうです。志ん朝師が「首ったけ」のマクラで語っています。
”廻し”とは、花魁が一晩で何人ものお客を相手するシステムです。こう書くと凄いなぁ〜と思うかも知れませんが、
ものの本や私が古老から聴いた話ですと、お客さんの居る部屋は小さい部屋で、布団が敷いてあるだけで一杯になる狭さだったそうです。そして殆どのお客相手には衣装すら脱がず、体に指一本触れさせなかったそうです。
つまり、マグロ状態のお客の上にまたがって・・・(ry
色、とかマブと呼ばれる恋人以外は裸にはならなかったそうです。(してみると、今の風俗のほうがサービスがいい?もう全く風俗なんて縁が無いのですがねww)
前置きが長くなって仕舞いました。

舞台は夜ふけの遊廓・吉原。売れっ子の花魁、喜瀬川は五人のお客をとったが、一人のお客の部屋に居たっきりで、ほかの部屋を廻らないので、振られた男たちは不満たらたら。可哀想なのは廓の若い衆だ。「三歳から大門をくぐっている」という男からは江戸弁で啖呵を切られ、役人とおぼしき男からは軍人口調で「廓に爆弾を仕掛ける」と脅かされる。そうかと思えば妙な言葉遣いの通人からは、真綿で首を絞めるようなイヤミを言われたあげく、焼け火箸を当てられそうになる。若い衆はようようのことで、喜瀬川のところへ。今夜、喜瀬川がずっと相手をしているのは田舎者のお大尽で、一部始終を話すと、お大尽は「玉代を返して帰って貰え」と言い出します。
そこで各人に50銭ずつ貰って返して、返って貰いました。その後「もう50銭おくれよ」とねだります。
「しょうがねえなあ〜子供なんだから」と言って50銭渡すと、「あんたにも50銭返すから、返っておくれよ」

この頃は、遊郭てモテナイからと言って何か言うのは「野暮」とされたので、登場人物の言い方が、妙に卑屈になっているんですね。そこも可笑しいですね。

初代小せん師は病(梅毒、白内障)の為、目が見えなくなったり腰が立たなくなったので、当時の若手に稽古を付けて、稽古料をとり、それで生活していたそうです。俗に小せん学校と呼ばれたそうです。
稽古を付けてもらっていた若手は、5代目志ん生師、八代目正蔵師、6代目圓生師、5代目麗々亭柳橋師、3代目金馬師など、後世の名人が揃っています。

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何事も先を読むのが大事ですね・・・

o0490036710198642375今日は「蔵前駕籠」です。
出典は色々あるようですが、天明時代の小咄を明治維新前夜の噺に焼き直したのがこの「蔵前駕籠」だと云われています。
しかし、幕末の物騒な背景で、命に代えても吉原通いをするという、江戸っ子の向こう気の強さ。それに付き合う駕籠屋もまたしゃれの分かる江戸っ子気質で楽しい噺です。

江戸も末期になると、吉原に行く駕籠を狙って身ぐるみ剥いでいく追いはぎが蔵前あたりに出没するようになりまして、吉原行きの駕籠が途絶えてしまいました。
こんなときに吉原に駕籠で乗り付ければさぞかしもてるだろうと、脳天気な江戸っ子が一計を案じ、
断わる駕籠屋を説き伏せて、着物を脱いで座布団の下にたたみ込み、初めから裸で駕籠に乗って行きます。
案の定、榧寺の前で追いはぎが現れるが、駕籠の中を覗いて「おお、もう済んだか」。

と言う噺で、多くの噺家さんが演じています。四代目鈴々舎馬風は「蔵前トラック」という題で演じていました。

 厩橋あたりから下流に江戸時代、隅田川の右岸(西側)に幕府の米蔵が置かれていたので、その米蔵の西側を南北に走る街道をこの様に御蔵前通りと呼んだ。現代の蔵前(蔵前橋)通りは蔵前橋を渡る東西に伸びる道路を呼ぶが、当時とは名前は同じでも、全くの別の道で、当時の蔵前通りは、今は「江戸通り」と呼ばれています。
「船徳」で船に乗るお客が歩いていたのもこの道と思われます。正面に雷門が見えるしね。
昼間はたいそうな賑わいを見せているが、日が暮れると真っ暗闇の寂しい道だったそうです。

宿駕籠は今のハイヤーのようで、担ぎ手は店に雇われ生きのいい若者が、仕立てのいい駕籠で送り迎えをしていた。
料金も高く、祝儀も弾まなければならなかったのですが、「江戸勘」の提灯を棒端に下げた駕籠で乗り付けると、幅が利いたので、見栄の世界では高くても宿駕籠を利用したがったそうです。
辻駕籠はタクシーのように、流していて、客の居そうな所で客待ちをしていた。落語「蜘蛛駕籠」にもあるように、街道筋の茶店などで客を引いていたのでこちらの方が安かったそうですね。
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今日は五代目圓楽師匠の命日です

125697209809816115669今日は五代目圓楽師匠の命日です。
師匠は、易行院と言うお寺の生まれで、この寺は、浅草の清川町にありましたが、後に足立区伊興に移転しています。だから師匠は足立区育ちですね。
若い頃は、談誌師、志ん朝師、柳朝師と共に「四天王」と呼ばれました。
晩年の音源や映像だけを見てると余り感じないかも知れませんが、若い頃は、才気走っていて、カミソリの様な感じがしました。その後ややマイルドになり、その替り、スケールの大きな噺をするようになりました。
ある時から師匠は噺を分かりやすく、楽しい方向に変化したのではないでしょうか。
協会を脱退して地方公演が多くなり、寄席に出られなくなった結果、寄席の客相手の話しぶりから変化を求められ
必要に迫られたのではないでしょうか。

晩年は入れ歯に悩んで2年位高座に立たなかった事があります。入れ歯では志ん朝師も随分悩んでいたそうです。永六輔さんに「いい歯医者」を紹介してくれと志ん朝師が言ってたそうです。
それを聴いた圓楽師は自分がやっと満足いく入れ歯をこさえたので、「強ちゃん、いい歯医者紹介してあげるからおいでよ」と言っていたそうです。

66歳の時に腎不全を発症して、以後は週3回の人工透析を受けるようになりましたが、これは大変ですね。
私の父も生前、やはり透析を行なっていましたが、体力が取られるんですよね。
それに慣れないうちは食べ物が喉を通らなくて、これも辛いですね。
そんな中で高座を務めていたのは、凄いですね。

私の個人的な思い出としては、まだ元気な頃、上野の松坂屋の近くで歩いている処を見かけました。
立っている姿はかなり大柄で180以上ある様な感じでしたね。
トンカツ屋の「蓬莱屋」に入っていきました。



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昔からお役人のする事は・・・・・

zenzai今日は「ぜんざい公社」と言う準古典とも言うべき噺ですね。
元は上方の桂文三師が明治の頃に作った「改良善哉」といった新作落語で、戦後になり、桂文紅師などの演者が手を加えサゲと「ぜんざい公社」というタイトルへ改められました。今や準古典扱いで、東西の多くの演者が演じています。
東京では芸協の芝居でよく掛かりますね。桃太郎師や寿輔師を始め若手も演じています。

ある男が「ぜんざい公社」を紹介している広告を目にしたので、久し振りにぜんざいを食べてみようと公社を訪れます。
まず案内されたのは受付で、住所、氏名、年齢、職業といった本人の確認などを記した証明書を申請するように命じられて、
更に健康診断をするように言われたり、餅を入れるための認可書に、餅を焼くための火気使用許可書を提出しろなどと、
あちこちの窓口をたらい廻しにされる。申請を全て終え、ぜんざいありつこうとすると、ぜんざいが食べられる場所は、
乗り物に乗って行かねばならない場所にあるという。そして指定の食堂を訪ね、いざぜんざいを口にすると、
全く甘く無いので、ウエイトレスのお役人に尋ねると「甘い汁は私共が吸っています」

まあ、昔から変わらないと言う事ですね・・・・・はあw
お役人がいわゆる裏金を作る理由なんですが、これは民間とは違うシステムになってるからですね。
残業とかありますと、民間では余り遅くなると、かっては弁当などを会社が取ってくれたりした事がありました。
役所ではそんな事は無いので全部自腹です。
そこで、普段から予算で余った金を付き合いの深い業者に白紙の領収書を貰っておいて、それを利用するのですね。一回の額は少なくてもチリも積もれば・・・でして、結構貯まります。
それを、そういう時に利用するのですね・・・私が聴いた範囲ですので、実態はしりませんwww
組織で行ってるので、バレた時に問題になるんですね。
官官接待が公然と行われていた頃は黙認みたいな事もありましたね。

ぜんざいとは、いわゆる小豆を砂糖で甘く煮て、この中に餅や白玉団子、栗の甘露煮などを入れた食べ物。 
なんですが、関東と上方では若干違う様です。
辞典等では「関東では、甘味の濃い小豆のつぶし餡かこし餡に焼いた餅を入れたものをいい、関西では、つぶし餡の汁の多い、関東でいう田舎汁粉をいう。」となっています。
まあ、お汁粉のバリエーションの一つで、私的には、さらさらしたのを「お汁粉」つぶあんが沢山入ってドロっとしたのを「ぜんさい」と呼びたいですね。

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「東京かわら版」11月号を読んで

entry_cover1111-thumb-188x360-1090今日は昨日我が家に届きました「東京かわら版」11月号から上げてみたいと思います。

表紙は画像の通りです。左下の正楽師の紙切りは「赤穂義士伝」だそうです。

まず、落語と私は小林聡美さんです。子供の頃から寄席番組に馴染み、かなりの落語通みたいですね。
この度、寄席で念願の、正楽師匠に注文をして切ってもらったそうです。
その時のお題が「はやぶさ」だったそうですが・・・・まてよ、確か先月浅草行った時に正楽師匠に「はやぶさ」で切って貰った人がいたなぁ〜・・・・あの時じゃ無いでしょうね。そんなに上手く行くはずが無いですね。(^^)

今月のインタビューは神田松鯉先生。講談の世界に入ったのは「連続ものがどうしてもやりたかった」そうです。
師匠、先代からも「もう、そんな時代じゃ無いから」と云われても「そこを曲げて教えて下さい」と食い下がったそうです。
でもね、そうでもしないと芸って途絶えてしまうと思いますね。今となっては貴重ですねえ。

「七十ねんはひと昔」は橘家円平師で、昔の思い出を語ってくれています。
あとは、漫才の「ロケット団」が真打になった挨拶が載りました。漫才の真打は落語家と違い、漫才協団の理事になったと言う事ですね。

気になったのは演芸評論家の花井伸夫氏が中心となって「ごぜん落語」と言う会を発足させた挨拶が載っていました。若手を中心に寄席の午前に落語会を開いていくそうです。
11/26 末広亭 一之輔、鯉橋、遊雀 12/10 浅草演芸ホール 王楽、遊馬、白鳥 午前9〜11時
2012.1/21 池袋演芸場 ぽっぽ改めぴっかり、こみち、 ぼたん 11時15分〜12時45分
となっています。料金はいずれも2000円で、お釣りの無い様にとの事です。

ここで、知りましたが、春風亭ぽっぽさんが二つ目昇進なんですね。でも”ぴっかり”って・・・・・どうなの?

SWAのコーナーは白鳥さん、若手紹介は、入船亭遊一さん、
本日のお題は「らくだ」の紹介です。
訃報は白山雅一さんの死去の事でした。自宅アパートで熱中症で亡くなったそうです。
ご冥福をお祈り致します。

堀井ちゃんのコナーは、池袋演芸場でお客さんが何人だと辛くなるかのレポートで、どうも5人がその基準らしいです。これより多いと気が楽になり、少ないとお客同士が疑心暗鬼になると言う実験?結果でした。
私は、浅草で一番少なかったのは15人と言うのがありましたね。二階も含めてで、数えましたね。(^^)


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最近の猫は魚を食わない?

1023今日は「猫の災難」です。
志ん生師は「犬の災難」で出てくる肴も鯛ではなく鶏肉となっています。
原話は、安永6年(1777年)に出版された笑話本・「新落噺初鰹」の一遍である『初鰹』です。
これも元は上方落語です。やはり三代目小さん師が東京に移植しました。

湯上がりに、一杯飲みたいなと考えていた熊五郎ですが、ふとした事から隣の女将さんから鯛の頭と尻尾だけの残り物を貰います。聞けば飼っている猫のお見舞いに鯛を戴いたのだと言う。
良いトコロを食べさせ残りの頭のついている骨と尻尾は要らないから捨てると聞いて、思わず貰ってしまったのでした。
目肉あたりでも食べようかと考えていて笊をかぶせると頭と尻尾が出て、立派な鯛の様に見えます。
友達の八五郎が訪ねてきて一杯やりたいなぁと話し合っていると、笊の鯛を見て、立派な鯛じゃねぇか、それで飲もう、酒は買ってくると言って、八五郎は酒屋に行くと言います。
「じゃあ少し遠いがとなり町の酒屋で買って来てくれ。あそこはいい酒なんだ。」
そう云われて八五郎は出かけていきます。
熊五郎も、今更、これは骨だけとは、言えないので、なにか言い訳をしなきゃと考えて、しかたなく、隣の猫に取られたことにします。
そうこうする内に八五郎が帰って来ます。上手く言いくるめるのですが、八五郎は「絶対鯛で飲みたいので、買ってくる」と言って又出かけていきます。
熊五郎が、お燗をつけながら、味見をするうちに、八五郎が買ってきた酒を飲んでしまった事に気が付いた熊五郎は、また言い訳をしなければならないので、隣の猫が徳利を倒したことにして、はちまきを締めて、喧嘩支度で八五郎の帰りを待っていたが、酔っぱらって寝てしまいます。
そこへ八五郎が帰ってきて話を聞いて怒り出す。そのうちに熊五郎が、酔っぱらっていることに気が付いて、お前が飲んだなと言うと、熊五郎は、大声で隣の猫が蹴飛ばしたんだ、隣の猫のところへ行ってくれと言い出す。
そこへ、隣の女将さんが顔を出して、うちの猫は寝ているんだよ、さっき熊さんに鯛の骨をあげたのに、何で悪く言われなきゃならないと、怒り出します。
すっかりバレてしまった八五郎は
、「この野郎!お前猫のおあまりをもらったな、この俺に隣の猫のところへ何しに行かせるつもりだったんだ」
と言うと、熊五郎が、「だからよ〜く猫に謝っておいてくんねぇ」

上方版では・・・
猫が入ってきたので、阿呆が『ここぞ』とばかり声を張り上げる。
「見てみ。可愛らし顔して。おじぎしてはる」
それを聞いて、猫が神棚に向かって前足を合わせ…。
「どうぞ、悪事災ニャン(=難)をまぬかれますように」
となります。又鯛をくれるのは酒屋さんと言う設定です。

志ん生師の「犬の災難」では、相棒が酒を買いに行っている間に、隣のかみさんが戻ってきて鶏を持っていってしまうという、合理的な段取りです。
最後は酒を「吸った」ことを白状するだけで、オチらしいオチは作っていません。
志ん朝師も「犬の災難」で演じています。

この噺は一人で酒盛りをして飲んで酔っ払う仕草が重要ですが、これは結構難しいそうです。
三遊では「一人酒盛り」と言う同じ様な演目があり、これは六代目圓生師が得意にしていました。

三代目金馬師は釣りに行っていて、釣った鯛や自分の弁当まで野良猫に取られてしまった事があるそうです。
これは小さん師が良かったですねえ。ですから弟子の小三治師や馬風師も演じます。
酒をのみほした後、小唄をうなるのは、小さん師の工夫だそうです。


追伸・・・・作家の北杜夫さんがお亡くなりになっていました。
個人的に大好きな作家さんで、殆どの作品を読みました。
ご冥福をお祈り致します。続きを読む
 
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