はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

2011年08月

首ったけと言う噺

kubittake001今日は「首ったけ」と言うお噺です。
四代目三遊亭円生師の(1904年没)作といわれています。古い速記では、大正3(1914)年の四代目円蔵師のものがあります。
戦後はこれはもう、二代目円歌師がたまに演じたほかは、志ん生師の、ほぼ一手専売でした。
どうも、志ん生師、円歌師とも、初代小せん師(盲の)の直伝だと言われています。
志ん生師の後は、馬生師、志ん朝師が受けぎました。
いまでは、寄席では余り高座に掛かりませんが、落語会等ではたまに演目に見られます。

 辰つぁんの相方の紅梅花魁が、回しを取られて、何処かのお大尽と、どんちゃん騒ぎをしています。
若い衆を呼んで騒がしくて寝られないから帰ると文句を付けます。
敵娼(あいかた)の紅梅花魁がなだめに入ったが、売り言葉に買い言葉、見世を飛び出してしまいました。
大引け後だったので、真っ暗で帰るに帰れません。向かいの見世に明かりが見えたので頼むと、明日、よりが戻って向かいに帰られると立場がないと言われて仕舞います。
二度と行かないからとの約束で上がると、敵娼(あいかた)の若柳花魁は前から辰つぁんの事を気にかけていたからと、充分の接待をして帰した。毎晩のように通うようになったが、行けない日がありました。
今晩は行こうと思っていると、昼頃、吉原か火事が出ました。若柳花魁を助けようと思って飛んで行ったのですが。
表からは人だかりで入れないので、裏のお歯黒ドブに回ります。花魁達は化粧気もなく慌てて走って来るが、煙に巻かれて右往左往している始末。
そこに数人の花魁が駆けて来たのですが、跳ね橋から一人が落っこちて、真っ黒く汚いお歯黒ドブにはまって仕舞います。
直ぐに脇の下まで潜ってしまいもう大変。
「助けてよ〜!!」と金切り声を上げた。みんなで助けてやれ、と手を出すと、何とそれは喧嘩別れをした、紅梅花魁でした。
 「夜中俺をおっぽり出したやつなんか助けねぇ」
 「辰つぁん! 早く助けておくれよ。もう首まで来たからさぁ」
 「そんな薄情なやつは助けねぇ」
 「そんな事言わないで! もう、首ったけなんだから」

旧吉原遊郭は、明暦の大火(1657)によって全焼してしまいます。
丁度その頃移転の計画があったので、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しましたそうです。
昔は何より(今でもですが)火事が怖かったので、逃げるのには必死になりますね。
明治以後は、明治44(1911)年の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。
火事の際は、その都度、仮設営業が許可されましたが、仮設というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

正直、「首ったけ」と言う表現はもう死語になったかと思っていたのですが、
最近のアニメ等にも使われていて、死語じゃ無かったと思い直しました。(^^)続きを読む

「ホントは恐ろしい百人一首!」決してよそでは喋らない様に・・・

tatutagawakouyou09004今日は「千早ふる」ですね。イヤ〜この噺を聴くまで、この和歌の本当の意味なんて知りませんでした。ガッコで学んだ事は何だったのだろう〜ww
これも上方落語からの輸入ですね。初代桂文治師の作と言われています。

百人一首で遊んでいた娘が八五郎に在原業平が詠んだ「千早振る神代もきかず竜田川からくれないに水くぐるとは」という和歌の意味をたずねるのですが。
答えをしらない八五郎は横町の隠居に尋ねて教えを乞います。
隠居によれば竜田川は相撲取りの四股名だと言います。彼が吉原に遊びに行ったとき千早という花魁に振られ、妹女郎の神代にも冷たくされます。
絶望して相撲取りを廃業した竜田川は故郷に帰って豆腐屋を継ぐ、
そして数年後に一人の女乞食がやってきて物乞いをする。見ればあのときの千早花魁。
彼女はおからを欲しがるが、竜田川は恨みがあるのでやらない。
それで千早は井戸に身を投げた・・・これが和歌の解釈だと澄まし顔。「なるほど、じゃあ歌の最後の、『とは』の意味はなんですか」と訊かれた隠居は苦し紛れに・・・。

竜田川は現奈良県生駒郡を流れる川で、紅葉の名所として知られており、今は公園になっています。(写真参考)
この和歌の作者、在原業平は水も滴るいい男だったそうで、歴代NO1だとか。
そもそも、この噺を聴いて笑うには、元の歌をきちんと理解してないと無理ですね。
昔の庶民は皆ちゃんと判っていたのですね。
ホント、ここまで苦し紛れとは言え、辻褄あわせが見事ですね。
それにしても、八五郎の娘さんは、ちゃんと学校行ってるんですね。(^^)

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与太郎が何故モテたのか?

nisikinokea今日は「錦の袈裟」につて書いてみたいと思います。

元々は『袈裟茶屋』という上方落語だったそうです。
原話は、安永6年(1777年)に出版された笑話本・『順会話献立』の一遍である「晴れの恥」で、
元々は、古着屋で縮緬の長襦袢を無理に借りた男が、踊った拍子に襦袢についていた値札が見えて大恥をかくと言う話だそうです。

町内の若い衆が、「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」と相談がまとまります。

皆の腹には、去年の祭り以来けんか腰になっている隣町の連中が、最近吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんに馬鹿にしたといううわさがありこれが我慢出来ません。

そこでひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、
向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう
ということになるのですが、質屋の番頭さんから錦の布を借りたものの、あいにく一人分足りず、与太郎があぶれそうになります。
与太郎はどうにうか都合付ける事で行く事になりますが、女房におそるおそるおうかがいを立て、
許してもらったはいいが、肝心の錦の算段が問題です。
そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、
一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。
一同、予定通りその晩はどんちゃん騒ぎ。
お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同で皆大喜びです。
特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。
そこで「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。
そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人がモテまくりです。
こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。
翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁(おいらん)としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれない等と、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。
「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」
どうにもならなくて、
寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が「花魁、起こしておくれよ」
「どうしてもおまえさんは、今朝帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

袈裟とはお坊さんが法衣の上からまとっているものです。修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も、緑から紫、緋の衣と変わります。
今の形にしたのが、初代小せん師(盲目の小せん)で、それは見事だったそうです。
戦後この噺の双璧だった五代目志ん生師と六代目円生師は、ともに若手のころ、小せん師に直接教わったそです。

このブログを初めてから丸3年が経過しました。
これも訪問して下さる皆様のお陰でございます
至らない点もありますが、これからも宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m続きを読む

豆屋さんの経験した最も難儀な日

images1今日は「豆屋」です。原話は、安永3年(1774年)に出版された笑話本『茶のこもち』の一編である「不精」であると言われています。
江戸時代は何でも担いで売りに来たそうです。
此の様な豆屋さんや落語でおなじみの八百屋さん、魚屋に植木や金魚売り等さまざまな物が長屋の裏口まで売りに来たそうです。
もちろん、その日食べるおかずの類や、中には竈の灰を買う業者もいて勝手口に買いに来たそうです。
まあ、灰は色々な物のアク抜きに使いますから、科学薬品の無かった当時は需要な品でした。
この豆屋のように一種類の野菜を行商で売り歩く八百屋を、「前栽(せんざい)売り」と呼びました。
もちろん、売り歩く時間も大切で、毎日決まった時刻に決まった所へ訪れなければ、信用されませんでした。

ある男が豆屋をやる事になり、売りに歩くが上手く掛け声が出せないでいると、ある長屋で一軒の家に呼び込まれます。
「豆屋、一升いくらだ?」
中にいたのは鬼も逃げだすような怖い顔。与太郎震えたが、商売には代えられない。
「に…二十銭です」とたんに男が目を剥いた。
「高い!」
かみさんに薪雑棒(まきざっぽう)を持ってこさせ、戸口に心張棒をかけて「まけろ!」。
「この貧乏長屋に、一升二十銭で豆ぇ売りに来るなんて太い野郎だ」
男の剣幕に完全にのまれた男は、命ぜられるまま一升二銭で豆を売ってしまいます。
おまけに山盛りにさせられて、這々の体で逃げ出します。
長屋を抜けようとすると、再び「豆屋ァ」の声がかかる。
「一升いくらだ?」
中にいたのはまた怖い奴。また二十銭なんていったら、今度は何をされるか分からない…。
「に…二銭です、二銭!」
とたんに男が「薪雑棒を持って来い、戸口に心張棒をかけろ!」。
値切って買ったとばれりゃあ江戸っ子の恥。逆に高く買ってやるという。
「一升、二十銭? よーし、一升五十銭で買ってやる」
大喜びで早速豆をすくおうとすると、
「大盛りにするなぃ、キチンと測れ! ぐっと減らせ。なに、すくいにくい? じゃあ逆さにして底をポンとたたけ」
枡の中は空っぽ。
「親方、豆がありません」
「いいんだ、俺のところでは豆なんか買わねぇから」

とまあ、たわいの無い噺ですが、以前は短いのでよく寄席等でも掛かりました。
逃げの噺とも言われていますね。


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もう一度食べたいあの味!

img_1505732_61685731_1今日は秋の落語の王様とも言える「目黒のさんま」です。
もうそろそろ店頭にも並び始めましたね。未だ、少し高いですが、じきにこなれるでしょうね。
そうしたら、大根おろしをたっぷり添えて食べましょうね。(^^)

かなり古くから語られている噺で、生粋の江戸落語です。大体、武士が出て来る噺は江戸が多いですね。
「鹿政談」みたいに例外もありますがね。

ある藩の殿様が不意に野駆に出かけると言い出し、さっさと馬に乗り出かけて仕舞います。(ここを鷹狩とやる噺家さんもいます)
中目黒あたり迄来たのですが、弁当を持ってこなかったので、昼時になると腹が減ってしかたありません。その時どこからか、魚を焼くいい匂いがします。聞くと秋刀魚と言う魚だと言う。
供は「この魚は下衆庶民の食べる下衆魚、決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。
殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。これはサンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。
それ以来、寝ても覚めても秋刀魚の事ばかりが頭に浮かびます。
ある日、ある親戚の集まりで好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。
だがさんまなど置いていない。急いでさんまを買って来て、焼くのだが、脂が多く出る。
それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、
さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて、餡掛けにして出します。
殿様は見ると、かって秋刀魚とは似ても似つかぬ姿に「これは秋刀魚か?」と聞きます。
「秋刀魚にございます」という返事に食べてみたが、不味いの何の。
「いずれで求めたさんまだ?」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

圓生師は餡掛けとしていましたが、椀物とする方が一般的の様です。
目黒あたりは、当時将軍家の御鷹狩の場所でした。広大な範囲だった様です。
だから鷹狩とする場合は、本当は目黒方面と言う方が良いと思います。

落語に登場する殿様は、大抵、赤井御門守ですね。
石高は「12万3,456石7斗8升9合1つかみ半分」とされています。
名前からも判る様に、将軍家と姻戚関係があります。(門が赤いのは将軍家から輿入れがあった証)
一節には天皇家の血筋を引く家柄とも言われています。

殿様が食べた秋刀魚ですが、江戸時代には目黒は芋の産地で行商が盛んに行われていたそうです。
「目黒のいも」の大需要地が、東海道品川宿と、大きな魚市場が当時存在していた芝であったので、
目黒を朝早く出て両地にて芋を売り、その代金で「芝のサンマ」を買って、昼過ぎに歩いて目黒に帰るのが行商人のパターンの一つだったという事です。
ですから、昼過ぎには間に合ったのですね。

後で食べた魚河岸の秋刀魚ですが、当時は保存の為、産地(銚子等)で塩を軽く振り、鮮度の維持に努めました。その後船で一昼夜かけて、日本橋に運び込まれたので、一般の人々が食べる頃は、塩味が付いていて、
そのまま焼いても美味しかったそうです。
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