33301574『大工調べ』
今日はこの噺です。

【原話】
元は講談の「大岡政談」でそれを落語化したものです。
講談では宝永6年には登場していました。

【ストーリー】
頭はちょっと弱いが腕の良い大工の与太郎を、棟梁の政五郎は何かと面倒をみていました。
「でっけえ仕事が入ったから道具箱を出せ」と言うと、溜めた店賃一両二分八百(一両八百の演者もいる)のカタに大家に持っていかれてないと言います。
八百足りないが手持ちの一両二分を持たせて大家のところへ行かせたのですが、金が足りないと追い返されて来ます。
 棟梁が出向いて頭を下げるが「タカが八百」との言い種が気に入らないと口論となり、
ついに政五郎は大家に啖呵を切ります。ついでに与太郎も締まらない啖呵を切ります。

時間の関係でここで「大工調べの上(じょ)でございます」と切る場合が多いですが・・・

遂には奉行所へ訴える騒ぎになります。お白州での奉行の裁きは、与太郎は不足分八百を支払い、大家は直ちに道具箱を返すこと、日延べ猶予は相成らぬ。とのお裁き。
泣く泣く政五郎は大家に八百を払います。
これで終わりかと思ったら、「ところで、大家は質株を持っておろうの?」
「ございません」
「何と質株を持たずして、他人の物品を預かり置くはご法度、罪に代えて二十日間の手間賃を与太郎に支払え」と、沙汰した後で
奉行は正五郎に
「ちと儲かったか、さすが、大工は棟梁」
政五郎「へえ、調べを御覧じろ」

【演者】
これは志ん生師や小さん師を始め色々な噺家さんが演じています。

【注目点】
この噺を志ん生師は「棟梁が啖呵を切りたかった噺」と要約しました。
歴史的な事を書くと、三代目小さん師のやり方を継承した七代目可楽師から習った五代目小さん師が、師匠の四代目小さん師のやり方や、自身の工夫も加えて、落ちまで通して演じ、十八番としていました。
 同じく得意にしていた志ん生師は、傾倒した四代目圓喬師のやり方を参考にしていたと言う説があり、
三代目小さん師の演じ方で、棟梁が大家の処へ行く処から与太郎の啖呵までをよく演じました。

『ネタ』
ここで大家が払った手間賃は200匁と言いますから、時代によりますが、おおよそ3〜4両でして、これはかなり儲かったですねえ。
江戸時代は、質屋に対する統制はかなり厳しかった様です
質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるのでまあ、当然ですね。
元禄5年(1692)には惣代会所へ登録が義務付けられ、享保の改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。
だから、大家さんがお奉行に怒られるのも当然なのです。
明和年間(1764-72)には株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。