3b4b189e『今戸の狐 』
コロナウイルスが全世界に広まっているようですが、寄席は平常営業ですね。
という訳で今日はこの噺です。

【原話】
江戸中期の名人・乾坤坊良斎(1769〜1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。
良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人で、
本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」(髪結新三)等のの世話講談をものしました。

【ストーリー】
安政のころ。乾坤坊(けんこんぼう)良斎というの噺家の弟子で、良輔という男。
どう考えても作者では食っていけないので、一つ噺家に転向しようと、大看板で、三題噺の名人とうたわれている初代・可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらいました。

ところが、修行は厳しいし、場末の寄席にしか出してもらえないので、食う物も食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。
内職をしたいが、師匠がやかましく、見つかればたちまちクビです。
もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなく内職を始めます。
「今戸焼」と言う素焼きの土器や人形の本場なので、器用な処で、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、
こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいました。
良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家があり、そこのかみさんは千住(通称骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これも何か手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、
偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ
と強談判してきました。仕方がないので、紹介し一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになりました。
 一方、可楽の家では、師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売って貰った金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人です。博打に負けてすってんてんにされ、腐ってると、前座の金を数える音が聞こえてきたので、これはてっきりバクチを開帳していると思い込み、これは金になると思い込みます。
 翌朝、可楽のところに押しかけ、お宅では夜遅く狐チョボイチをなさっているようだが、
しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したいと、強請ます。
 これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、
「家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところ」
 だと教える。
 乃楽から道を聞き出し、今戸までやって来た虎、早速、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。
「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」
 ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。
「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「間抜けめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」


【演者】
明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、戦後は五代目志ん生師しか演じ手がなかったそうです。
その後、馬生師と志ん朝師が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心に聴かれます。

【注目点】
狐チョボイチとは、寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、
三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

『ネタ』
江戸時代の寄席では、中入りの時、
前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、
前座の貴重な収入源でした。
明治になり圓朝師が前座に定給を与える事にして、この制度を辞めさせました。
ちなみにクジがあったのは東京だけで、上方はボリと言うシステムがありました。
ボリとは、噺家が普段の噺とは違い、特別な噺をするので別にお客から少額の金額を募る制度です。
生半可な腕では客はソッポを向いてしまうので、噺家にとっては真剣だった様です。
どうしてもお金が入用な時等にやったそうです。