皆様には色々とご心配をおかけして申し訳ありません。何とか更新してみました。そこで今日は「お化け長屋」です。
「原話」
江戸後期の滑稽本作者、滝亭鯉丈が文政6年(1823)に出版した「和合人」初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。
上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代小南師が東京に移したともいわれますが、
すでに明治40年には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。
【ストーリー】
長屋にある一軒の空き家。そこを長屋の連中は物置に使っていると、大家から家賃を払うか荷物をどかせと言われます。そこで、長屋の古株、通称古狸の杢兵衛さんが一計を案じます。
借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手をおどして空き家に借り手がつくのを防ごうという算段を立てます。
早速、借り手がやってきますが、お化けが出るとか、ある事無い事を言って脅かして、返してしまうのですが
あまつさえ忘れた財布を手に入れて、鮨(弥助)を食べに行こうと言う算段まで立てます。
次にやって来た男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れる始末で、
困った杢兵衛さんは、濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまいます。
男はすぐに引越して来るから掃除をしておけといい帰ってしまう。
先ほど置いてった財布も持っていかれて仕舞います。
とここまでが上で、最近はほとんどここで演者は切っています。
この先の下はその男を仲間が脅かすと言う筋なのですが、あまり演じられていません。
下のあらすじは以下の様になります。
この男、早速明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越して来ます。男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。日ごろから男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。
作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込みました。
長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩(あんま)に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら「モモンガア」と目を剥いてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。
ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。按摩だけが残され「モモンガア」。
「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間に一杯食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」
【演者】
圓生師や金馬師などの録音が残っています。特に「下」は志ん生師の録音もあります。その他小三治師や志ん朝師を初め多くの噺家さんが演じています。
【注目点】
オチの前の「尻腰がねえ」は、東京の言葉で「いくじがない」という意味だそうですが、
昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。
『能書』
この噺に登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、
それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した結構な物件だったようです。
『ネタ』
噺の中の「弥助」とは寿司のことです。八代目正蔵師も噺の中で語っていましたね。
ちなみに上方で、稲荷寿司の事を信太寿司と言うそうです。
「原話」
江戸後期の滑稽本作者、滝亭鯉丈が文政6年(1823)に出版した「和合人」初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。
上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代小南師が東京に移したともいわれますが、
すでに明治40年には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。
【ストーリー】
長屋にある一軒の空き家。そこを長屋の連中は物置に使っていると、大家から家賃を払うか荷物をどかせと言われます。そこで、長屋の古株、通称古狸の杢兵衛さんが一計を案じます。
借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手をおどして空き家に借り手がつくのを防ごうという算段を立てます。
早速、借り手がやってきますが、お化けが出るとか、ある事無い事を言って脅かして、返してしまうのですが
あまつさえ忘れた財布を手に入れて、鮨(弥助)を食べに行こうと言う算段まで立てます。
次にやって来た男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れる始末で、
困った杢兵衛さんは、濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまいます。
男はすぐに引越して来るから掃除をしておけといい帰ってしまう。
先ほど置いてった財布も持っていかれて仕舞います。
とここまでが上で、最近はほとんどここで演者は切っています。
この先の下はその男を仲間が脅かすと言う筋なのですが、あまり演じられていません。
下のあらすじは以下の様になります。
この男、早速明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越して来ます。男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。日ごろから男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。
作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込みました。
長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩(あんま)に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら「モモンガア」と目を剥いてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。
ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。按摩だけが残され「モモンガア」。
「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間に一杯食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」
【演者】
圓生師や金馬師などの録音が残っています。特に「下」は志ん生師の録音もあります。その他小三治師や志ん朝師を初め多くの噺家さんが演じています。
【注目点】
オチの前の「尻腰がねえ」は、東京の言葉で「いくじがない」という意味だそうですが、
昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。
『能書』
この噺に登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、
それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した結構な物件だったようです。
『ネタ』
噺の中の「弥助」とは寿司のことです。八代目正蔵師も噺の中で語っていましたね。
ちなみに上方で、稲荷寿司の事を信太寿司と言うそうです。
記事にありました「鮨」を「弥助」というのは私は落語を通じて知りました。
語源は文楽・歌舞伎の人気狂言「義経千本桜・鮨屋の段」からきているそうですね。
「源平合戦」の中の「倶利伽羅峠の戦い」で朝日将軍源(木曾)義仲に大敗し、戦を嫌って出家した後、紀州那智の沖で入水したと思われていた平三位中将維盛が実は生きていて、大和下市村で元の家来弥左衛門が営む「釣瓶鮨」という鮨屋の奉公人として、源氏への復讐の機会を狙いながらその身を隠している。
その時に名乗っている名前が「弥助」というところから来ているそうです。
芝居の中の「釣瓶鮨」で商っているのは「鮎の馴れ鮨」だそうで、厳密には江戸前の「握り鮨」とは違って来るんですけど、落語を聴くと「握り鮨」を「弥助」ということが多いですね。
関西の「押し鮨」を「弥助」というのは私は聞いたことないです。
言葉の響きの「粋」を好んだ「江戸っ子」ならではというところでしょうか。
hajime
がしました