52a34373『盃の殿様』
今日は「盃の殿様」です。この噺が秋の噺となっていることに最近知りまして、つくづく勉強不足だと思った次第です。

【原話】
生粋の江戸落語ですが、原話その他、がハッキリとは分かってないそうです。
二代目柳家(禽語楼)小さん師の明治23年の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、
六代目三遊亭円生師が、十八番に仕上げた噺です。

【ストーリー】
 心の病に臥せった大名が、花魁のの錦絵に興味を示しました。
大名が吉原に行くのは如何なものかと重役が協議をした結果、病気治癒のためなら止むを得ないということになり、三百人の行列で繰り出しました。
冷やかしのはずだったですが、殿様が花扇花魁に夢中になってしまい、それから、毎日のように吉原に通いましたが、ついに国表に戻る日が来ました。
 国表に戻っても、花扇のことが忘れられず、江戸までの三百里を十日で往復するという藩内一番の速足、
足軽の早見東作に命じて、江戸の花扇に七合盃の使いに出しました。
 花扇は快く飲んで盃を返してくれました。
国に帰る途中で早見は、さる大名行列を妨げた廉で捕らわれ、詮議の結果、話を聞いた大名が感銘して、盃を空けて主君に返すように命じました。
 国元に戻って子細を説明すると、殿様は「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」と、殿様が盃を空け、
その大名に返盃をするように命じたのですが……。
 返盃を命じられても、どこの大名か分からず、早見は未だに日本中を探しているという……。

【演者】
今では、小満ん師など数多くの噺家さんが手がけますね。

【注目点】
ところで、遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、
一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。
太夫は、享保年間(1716〜36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六,七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、元々この二つを併せた尊称が「花魁」と呼ばれました。
これは、禿が自分が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で
「おいらん」と呼んだことからだとか。
ところが、宝暦7年ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がってその下だった散茶女郎が
トップに出て、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになったそうです。

『能書』
このお殿様のお国ですが、足の早い者で片道五日で江戸迄行けるという範囲ですから。九州というほど遠くは無いと思うのです。
北だと仙台あたりでしょうか?西だと大阪あたりですかねえ?
噺を聞きながらそんな事を想像して仕舞います。

『ネタ』
「遊女」という言葉は幕府公認の遊郭のいる女郎の事で、「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、
江戸では吉原以外にこの名称は許されなかったそうです。