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来週には桜の開花も予想されている今日この頃です。そこで今回は「花見の仇討」を取り上げます。花見の噺には「長屋の花見」という名作もあるのですが、これは本格的に解説すると哲学的になってしまうので、こちらにします。簡単に言うと「長屋の花見」は上方の「貧乏花見」を移植したものですが、噺の立脚そのものが東西で違っておりまして、これが東西の暮らしの哲学に関わる問題に発展しますのでブログでは取り上げるのは今年は控えさせて戴きます。

【原話】
明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

【ストーリー】
仲の良い三人が上野のお山に花見に行くのですが、その趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
 二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って
「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」
 と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。と話がまとまります。

 花見の当日、四人がそれぞれ、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 ところが、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時に、うるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、家に連れて行かされ、酒を飲まされて寝てしまいます。
 一方、巡礼には途中で話の成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始めましたが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
 と言いますが三人は
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。三代目金馬師や三代目三遊亭小圓朝師も良かったです。
個人的には桂文朝師が好きでした。

【注目点】
柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いですね。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

『能書』
八代目正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

『ネタ』
 江戸時代は今よりも花見で色々なパフォーマンスをするのが多かったようです。今はカラオケなんか電源を用意してする人もいますね。
噺の中の「六部」とは、六十六部の略で、法華経を六十六回書写して、一部ずつを全国の六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者のことで、室町時代に始まったそうです。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者もこう呼んだそうです。