FAD23725明けましておめでとうございます! 本年も宜しくお願い致しますm(_ _)m

さて、落語四天王もいよいよ最後の立川談志師です。暮れの「赤めだか」見ました? 正直、原作の方が面白かったですね。
ビートたけしさんの談志師はちょっと滑舌が悪かったですね。晩年は兎も角、談春師の入門の頃は良かったと記憶してるのですが、存在感は確かにありましたね。でも他の俳優さんでも見たかったです。

4.【五代目(七代目)立川談志】1936年1月2日 – 2011年11月21日
いよいよ立川談志師です。世間では色々と言われておりますが、ここは私個人が思って来た事を中心に書かせて戴きます。
ご批判もあろうかと思いますが、そこは平にお許しを……

・「出囃子」
「木賊刈り」

・「芸風」
落語協会脱退前と後に分ける必要があると思います。協会に居る頃は本格派でした。江戸前の噺を追求していたと思います。粋な芸風を目指していたと言い換えても良いと思います。
この頃は落語は「業の肯定」であると言っていました。
それが脱退後は「イリュージョン落語」を標榜してから本筋とは離れて行きました。尤もそれは自身でも判っていたらしく、晩年は度々「自分は逸れちゃったから」と語っていました。

・「芸歴」
1952年年4月、五代目柳家小さんに入門。小よし
1954年3月、 二つ目昇進し柳家小ゑん この名前を本人は結構気に入っていたみたいです。       曰く「粋な名前」だと……
1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進
1983年  落語協会脱退「落語立川流」を設立、小さん師より破門される。
・「エピソード」
もうね、色々とありすぎて全ては書けないのですが、目立った所から……

圓生一門の脱退騒動では談志師が陰で暗躍していたと言われています。色々な噂がありますが、本当のところは判りません。
協会を脱退したのは弟子の真打昇進試験の事がらみでした。これが理由と言うより切っ掛けとなった感が強いですね。
「落語立川流」を創設して自分が家元となり弟子から上納金を取るようになりました。これも前代未聞でしたが、真打昇進時にお祝いとして返してくれたみたいです。
自分に意見を言ってくれる人が居なくなったので段々と芸の方向が本筋から離れて行きます。「粗忽長屋」を「主観長屋」と改題して演じていました。ある時、志ん朝師に「俺の『主観長屋』は良いだろう!」と言った所。志ん朝師が「なに言ってるの普通に出来ないからでしょ」と言い返されたそうです。
このように非常に志ん朝師を意識していたと思います。方向が違ってしまったのは根底に「自分は本筋では志ん朝に叶わない」と言う想いがあったからだと個人的には思っています。
つまり、それだけ志ん朝師を高く評価していたと思います。
「金の取れる芸は志ん朝だけ」と言っていた事が現していると思います。
恐らく談志師は志ん朝師をライバルと目していたのでは? と思うのです。
反骨精神に富んでいる反面、とても人情家の一面もあったそうです。基本的には「とても優しい人だった」と語る人も大勢います。
個人的にですが、仕事の関係で接した事がありますが、きちんとした常識のある優しい方でマスコミのイマージとは大分違うと思いました。
また、これも個人的にですが、落語を評論させたら右に出る者がいないと思います。それだけ落語の本質を見抜いていました。著作も非常に多く、そのどれもが落語をとても愛していた事が本当に良く判ります。
恐らく落語評論家としてでも超一流だったと思っています。

・「得意演目」
居残り佐平次、浮世床、小猿七之助、蝦蟇の油、紙入れ、九州吹き戻し、金玉医者、
蜘蛛駕籠、慶安太平記、源平盛衰記、紺屋高尾、黄金餅、五貫裁き、権助提灯
権兵衛狸、西鶴一代記、鮫講釈、三軒長屋、三方一両損、持参金、、品川心中、芝浜
寿限無、清正公酒屋、疝気の虫、粗忽長屋(主観長屋)、ぞろぞろ、代書、妲己のお百
田能久、短命、付き馬、つるつる、鉄拐、道灌、富久、二階ぞめき、人情八百屋、鼠穴
野晒し、文七元結、へっつい幽霊、松曳き、饅頭こわい、木乃伊取り、三方原軍記、やかん
幽女買い、夢金、鼠穴、よかちょろ、らくだ

☆特に「鼠穴」は良かったです!!