oomon今日は「付き馬」です。これはほんとうは江戸弁で「つきんま」と言うそうです。

 原話は元禄5年(1692年)に出版された笑話本・「噺かのこ」の第四巻、「薬屋にて人参を騙りし事」です。又の題を「早桶屋」とも云い、圓生師はこの名で演じていました。

 吉原で「今は持ち合わせがないが、お茶屋のツケを集金すれば金ができるので、明日払いで良けりゃ遊んでってやるよ」ということでどんちゃん騒を始めます。
 翌朝、郭の中のお茶屋だから一緒に集金に行こうと、若い衆を連れ出し、ちょっと大門の外の空気を吸ってみようと、更に外に引っ張り出す。この後、風呂に入り飯を食って若い衆に払わせ、浅草の雷門まで来てしまいました。
 ここから中まで戻るのは面倒だから、近くの早桶屋の叔父さんに金をこしらえて貰おうと言い出します。付き馬の牛太郎を外に待たせたまま、早桶の注文をして、外に聞こえるように「早くこしらえておくれ」と云います。
 若い衆を呼んで「出来たら叔父さんから受け取ってくれ」と言い残して男は、帰ってしまいました。
「出来たけど、どうやって運ぶ」と聞かれて、早桶を注文したことを知らさせるが後の祭り。棺桶代を請求されて金が無いというと、「おい奴(やっこ)、中まで馬に行け」

 もともとは、薬屋で朝鮮人参をだまし取るという内容だったものですが、廓噺に変わりました。
 私が最初に聴いた時(圓生師でしたが)疑問に思ったのは、早桶屋の事でした。時代は「花やしき」等があり、どう見ても明治から大正です。
「図抜け一番小判型」等と言う座棺がそのころでも使っていたのかどうか?でした。
 てっきり江戸時代迄だと思っていたのですが、違いました。
 よく調べると、寝棺は火葬、座棺は土葬用と書いてありますが、一概にそうでも無いようです。
 ある調べでは昭和21年の京都市では火葬の74%が座棺を使用していたそうです。最も25年には半分に下がりますが・・・
 つまり、戦後もある時期迄は座棺が結構使用されていたと言う事です。
 小三治師は若い頃銭湯で、この早桶の職人だったお爺さんと仲良くなり、色々と教わったそうです。
「そのうち、こうゆうのも話しておかないと忘れさられてしまうからな」
 そう言ってたそうで、正にその通りですね。

 付き馬の由来は、昔は吉原の馬子さんが其の物の家まで取りに行って」たのですが、そのうちに、集金した金を持ち逃げする馬子が多くなったので、馬子じゃなくて、店の若い者に集金させる様になりました。そこから「付き馬」という様になりました。

今日は三代目金馬師で聴いて下さい



三代目三遊亭金馬 明治27年〜昭和39 享年70
出囃子=本調子鞨鼓 本名=加藤専太郎