お茶くみ今日は「お茶汲み」です。

上方落語の「涙の茶」を東京に移入したものです。その元は、狂言の『墨塗女』と言う事です。
この狂言の「黒塗女」から、「黒玉つぶし」と言う噺が出来、そこから墨をお茶に変えて「涙の茶」と言う噺になり、
これを初代小せん師が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに描写し、現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。

吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしています。
今で言う、サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」(安大国と言う説あり)という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したのですが、女は松つぁんを一目見るなり、アレーッと金切り声を上げて外に飛び出しました。
仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたというのです。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になり、噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたのだそうです。
 そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めたそうです。
 それからは、清さんに手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
 という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリと来なくなったので、人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。
 苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に・・・

 でも、どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたのですが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第とか。
「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
 と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロが出来ています。
「よくよく眺めると、涙の代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」
 馬鹿にしやがる。と怒っています。
 
 これを聞いた勝ちゃん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、早速、その紫花魁を指名。
 女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出します。
「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあこうだ。花魁聞いてくれ。
 おらあ静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

 勝さんがいい調子で喋って、涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

 小せん師から志ん生師に受け継がれて、志ん生師は客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。
「初会は使わないが、裏は使うよ」等と言うセリフは志ん生師ならではと云われています。

 本家の「黒玉つぶし」の方は、東京で上方落語を演じた小文治師が得意にしていたそうです。、
志ん朝師で聴いて下さい

三代目古今亭志ん朝 昭和13年〜平成13年 享年63 出囃子=老松本名=美濃部強次 志ん生二男
1957年2月 実父5代目古今亭志ん生に入門。前座名 朝太 1962年5月 真打昇進