20110826_2309065今日は「鍬潟」という噺です。

原話は安永6(1777)年に大坂で刊行された笑話本、「新撰噺番組」巻五の「一升入る壺は一升」です
上方落語で、東京にいつ移植されたかは、不詳だそうです。
5代目圓生師が高座に掛けていたそうです。
それを6代目圓生師が継承しました。
私は高座でこの噺を聴いた事が無いのですが、「逃げの噺」として演じていたそうです。
志ん生師だと「義眼」というところですね。

身長が二尺二寸(68センチ)という小さな男が隣の長屋の甚兵衛さんに、自分の身長の事を嘆くと、
甚兵衛さんは、「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、誰にも負けない働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をします。
その鍬潟も、三尺二寸(97センチ)しか身長が無かったのです。

ある時、江戸で無敵の大関・雷電為右衛門と鍬潟を対戦させようと云う事になりまして、鍬潟が江戸にやってきます。
鍬潟は策を考えまして、エイの油を体中に塗りたくります。
いざ対戦という時になり、雷電は鍬潟を捕まえようとしますが、滑って中々つかめません。
さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番になります。

「おのれ鍬潟、来年はみてろよ」と雷電は捲土重来を期します。
さて翌年今度は雷電が大阪にやってきて、鍬潟の家を訪ねます。
すると7人もの子沢山です。
「勝負師は子供を作ると弱くなると言って作らんもんだが、あんたはこんなにも沢山の子供を作って、
なを、あの勝負根性」
「見事なもの、是非兄弟の縁を結んでくれ」
そう雷電は鍬潟に頼みます。
鍬潟は「あんさんが兄で・・・」といいますが、
「いや、勝負に勝ったあんたが兄さんだ!」
そう言って兄弟の契を結びました。
8尺の雷電が4尺の鍬潟の弟になったというお噺でした。

これを聴いた男は自分も奮発して相撲取りになります。
そして猛稽古をして修行を積みます。
ある日、稽古疲れで、家に帰ると高イビキ。
起こされると、布団から手足が出ていたから、
稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。
女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

鍬潟は、架空の力士ですが雷電は実在の力士で、江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回、
生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。
文化8(1811)年2月、43歳で引退。
という記録が残っています。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にする事がありました。
でも、実際に割りを組んで、相撲は取らせる事は無かったそうです。




先代文枝師で聴いてください

五代目桂文枝 1930年- 2005年 、本名は長谷川 多持、1947年4月 米之助の紹介で4代目桂文枝に入門
1954年4月 3代目桂小文枝に改名し、落語界に復帰。
1992年8月3日 5代目桂文枝を襲名 2003年 旭日小綬章受章