reg_15-266x300今日は、「粗忽長屋」です。
この噺、取り上げていない様なのでね。

原話は寛政年間(1789〜1800)の笑話本『絵本噺山科』にある小咄です。
「永代橋」なんかが同じたぐいの噺ですね。

粗忽者の八五郎が浅草寺の門前で人だかりに出くわします。
聞けば、行き倒れの亡骸が発見されたが身元がわからず困っていると言うのです。
むりやり人垣をわけ、亡骸を見た八五郎は仰天。
「こいつは熊だ。あいつに教えなくちゃならねえ」
八五郎は長屋の隣人、熊五郎が死んだと思いこみ「本人を呼んでくる」と長屋へ飛んでいきます。
実は、熊五郎も粗忽者なので、「おれは死んだ気がしねえ」などと言いながら、八五郎と一緒に浅草寺へ向かいます。

「死人」の熊五郎を連れて戻ってきた八五郎に、周囲の人達はすっかり呆れてしまいます。
どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱えこんで仕舞います。

あげくに、熊五郎はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認する始末です。
「自分の体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊五郎と見守る八五郎。2人とも本気なのです。
周囲の人の止めるのも聞かずに。体を持って帰ろうとする始末。
抱き抱えて居ると、熊五郎は八五郎に訪ねます。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

この噺は正直、小さん師か志ん生師にトドメを刺すと個人的には思います。
談志師は「主観長屋」と題を替えていますが、正直感心しませんね。
理屈じゃ無いと思います。
理屈だったら、こんな馬鹿馬鹿しいい事は無い訳で、そこをこしらえていくので落語になると思うのです。
この辺が正直、談志師の弱点だと思いますね。
頭の回転が良すぎる故の悲劇だと思います。

行き倒れが担ぎこまれた、「自身番」」とは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。
昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、
表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、
町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りしたそうです。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目なので、身元引受人が名乗り出れば
確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でしたので、自身番にすれば、かえって渡りに船だったかも知れませんね。
今日は久々の動画でご覧下さい。