bunchou今日は故桂文朝師の命日なので、師匠について少し書いてみたいと思います。

1942年3月31日:東京生まれ。本名・田上孝明。
1952年7月:山遊亭金太郎(二代目桂小南)に入門、山遊亭タア坊。
1955年:山遊亭金時と改名。
1959年1月:桂小西と改名、二つ目に昇進。
1970年4月: 真打昇進、桂文朝に(推定三代目)。
1975年:文化庁芸術祭優秀賞受賞。
1978年:放送演芸大賞落語部門賞を受賞。
1985年1月:桂南喬、桂文生とともに、落語芸術協会から落語協会に移籍。
2005年4月18日没。享年63。

大西信行氏が師匠について「落語無頼語録」の中で次のように書いています。
-----「文朝のどこがいいのかともうひとつ突っ込んで聞くと、だれもはっきりした返事はきかしてくれない。
漠然と素直であかるくていいという。(中略)それでは少しも褒めたことにはならない」

嫌な処の無い噺家さんと云うべきなのか、私に云わせれば究極のバランスのとれた芸とも言え、
その完成度は半端なかったと思います。
南喬師が入門したとき、師匠の金馬師は、「噺は小西に教わんな」と言ったそうです。(小西=文朝)
二つ目でそれほど師匠に認められていたと言う事ですね。

また、ただ大人しく古典を演じていただけではなく、新しいくすぐりも沢山入れています。
特に、「明烏」で見返り柳を「ご神木」、大門を「大鳥居」、歌舞音曲を「祝詞」と言い換えるのは文朝師が初めてです。

実生活では、大変に物静かな方で神経質な面もあった様です。
「三人の会」をやっていて、仲の良かった小三治師と扇橋師が文朝師の家に遊びに行った時の事ですが、
廊下といわず、柱、玄関まで鏡の様にピッカピッカに磨き上げられていて、
もちろんチリ一つ落ちていなかったそうです。
そして家の中はシーンと静まり返っていて、不気味ですらあったそうです
あまりの心地悪さに、小三治、扇橋両師はあまり長居をせずに、帰ったそうです。

又、入門希望者が数多くいたのに、弟子は決して取りませんでした。
小三治師に言わせると「あれは弟子は取れないよ。」
「きっと他人が家の中に入るなんて考えられないだろう」
但し、稽古は若手によく付けていたそうです。

私はホント好きでした。寄席に出ていると良く見に行きました。
忘れられない演目や高座もあります。
鈴本で聴いた「悋気の独楽」や「文違い」
寄席で良く聴いた「初天神」などもっと多くの思い出があります。
芸協の志ん朝とも呼ばれた時もありましたね。
移籍後、柳昇師は移籍した三人を「許さない」と言ってましたね。
歌丸師の著書で「移らない方が良かった。芸協だから光っていたので、落協なら目立たなくなる」と書いていますね。
でもいいんですよ、目立たなくても。
その噺や高座は好きな方には判るし落語ファンならその素晴らしさに気がつくハズですから・・・・(^^)
今日は、その評価の高かった「明烏」を聴いてください