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今日は、左甚五郎の噺の中から、「三井の大黒」です。

講談から落語化されたもので、六代目円生師と三代目三木助師が、十八番としました。
とりわけ三木助師は、同じ甚五郎伝の「ねずみ」も事実上の創作に近い脚色をするなど、
甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようで、この噺もたびたび高座に掛けました。
三木助師の最後の高座となった、昭和35年11月の東横落語会の演目も、この「三井の大黒」でした。

飛騨の名工・左甚五郎は、伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼されます。
手付に三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきました。(竹の水仙はこの道中の噺)

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染(あいぞめ)川に架かる橋に来かかると、普請場で数人の大工が仕事をしているのを見かけます。

見てみると、、あまり仕事がまずいので
「皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」と喋って仕舞います。
これを聞いて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたきにします。
棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(ばんじょう=大工)と聞くと、同業を悪く言ったお前さんもよくない
と、たしなめるます。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候をします。
名前を聞かれ、名前を忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぽんしゅう」とあだ名で呼ばれることになりました。

翌朝、甚五郎は早速、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、名前を忘れるようなあんにゃもんにゃには下見板を削らしておけと、いうことになりました。
これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、思いましたが腹に納め、
鉋の刃を研ぎ出します。
その後、削り板に板を乗せ削り出し、これを合わせると、小僧に剥がしてみろ、と言います。
小僧がその板を剥がそうとしても、二枚が吸いつくように離れません。
話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、離れないのは板を水に漬けたからだろう、と言います。

その年の暮れ、政五郎は居候を呼んで、江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんには合わないと話し
上方に帰る様に言います。、
その前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと、勧めるので、
甚五郎、三井家からの依頼を思い出します。そして、ぽんと手を打ち「やらしてもらいたい」

それから細工場に二階を借り、材料を選ぶと、さっそくこもって仕事にかかります。
何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎がのぞくと、
二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。
隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。
そこには一体の大黒像で、折しも部屋に差しこんだこぼれ日を受け生きているかのごとくにこやかに微笑みました。
政五郎は「……これは……」と驚く。

そのとき、下から呼ぶ声。
出てみると、駿河町の三井の使い。
手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、なるほど、大智は愚者に似るというが、と感心しているところへ当人が帰って来ます。
甚五郎は、代金の百両から、お礼を渡します。
「恵比寿さまに何か歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」
そこで、さらさらと
「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、
いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節でございます。

左甚五郎(1594〜1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。
京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、
彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

音源は三木助師で聴いてください。