荒川の経緯について書いて来ましたが、ここで違う側面から書いてみたいと思います。

2315-4荒川放水路が開削される以前、葛西と呼ばれるこの地方は、農村地帯でした。
主な作物は、小松菜、亀戸大根、千住葱、金町小蕪、本田瓜等が多く栽培されていました。
中でも小松菜、亀戸大根は有名で、小松菜は、旧幕時代徳川将軍が葛西地方に鷹狩に来たときに地方の名物として菜を献上し、はじめて「小松菜」の名称を得、以後引き続き献上する慣例となりました。
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又、亀戸大根は江戸時代から明治時代に現在の江東区亀戸周辺で栽培され、小振りで葉が柔らかいのが特徴で、辛味のある漬物として庶民に親しまれてきました。
大正初期にその最盛期を迎え、この頃から産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。

それから、この地域でもゼロメートル地帯と言われる所では、作物が育たず、米も実が出来ないので、藁を使った
しめ縄等を作っていました。江戸城に毎年治めていたそうです。
手前味噌になりますが、我が家には江戸城に入場する為の通行札があります。
区の文化財に指定されています。
江戸城の奥に入れるのは基本的に武士、それもちゃんとした大手門から入れるのは、大名クラスだけですので、特別な通行札が発行されました。
中に入ると十万石の格式があったそうです。
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堀切等は水害が酷い地域だったので、花菖蒲の栽培に適していたので、花菖蒲の栽培が盛んに行われました。
最盛期の大正時代には6箇所の菖蒲園が開いていました。
そこには遊園地が併設されていたり、園内には山河が造られていたり、趣向を競っていました。

荒川が開削されてからは、住宅化が進み、戦後は都心から焼けだされた方が住み着いたりして、このような作物や花の栽培は行われなくなりました。

いま、この地域を散策してもほんの数十年前までは、このあたりが、水郷地帯で風光明媚で都心から最も近い観光地だったとは信じられません。
それほどまでに、荒川放水路と言う川は人々の暮らしも、街の様子も全て変えてしまったのです。
それと引き替えに水害の恐怖からは逃れられたのです。
今回は簡単にしました。
次回は荒川をこよなく愛した、永井荷風の事を少し書いて、このシリーズを終わりにしたいと思います。