はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

今日はね、ちゃんとやりますよ! あたしは

愛宕山に登ってみたら……

EclEdo3j『愛宕山』
え〜早いものでこの前マッカーサーが上陸したと思ったらもう春です!
なので私の好きな「愛宕山」です。
この噺は上方落語がルーツです。東京では文楽師の十八番でした。
3代目圓馬師が東京風に脚色したのを圓馬師から文楽師に伝わったものです。
文楽師は、晩年は医師から止められていたにもかかわらず、高座に掛けて、その後楽屋で暫く横になっていたそうです。それだけ、最後の処で力が入ったのですね。
最近では志ん朝師がやり、その後かなりの噺家さんがやります。
志ん朝師のも良かったですね、文楽師が省略した下りも入れて、一八と旦那の絡みも見事でした。

【原話】
上方に古くからあった噺を三代目圓馬師が東京に持って来ました。だから、事実上の圓馬師の弟子でもあった文楽師はこの噺を受け継いだのです。
【ストーリー】
あらすじは上方と東京では若干違いますので、東京でやります

京都見物に来た旦那、あらかた見てしまったので、明日は愛宕山に行こうと思いつきます。
連れの幇間の一八に言うのですが、「朝飯前」と言う返事。
翌日、一同連れ立って愛宕山へとやって来ます。

調子のいいことを言う一八を見て、旦那は繁造を一八にぴったり着かせる。「どんなことがあっても上までひっぱりあげろ。連れてこないと暇を出すよ」と脅して、いざ出発。
大きい口を叩いていた一八は、最終的には繁造に押してもらって、やっとのことで途中の休憩所まで辿りつきます。

茶屋で休んでいるときに一八が土器投げ(かわらけなげ)の的を見つけます。
向こうに輪がぶらさがっていて、そこにお皿を投げて上手く輪をくぐらせるという遊び。
旦那がやってみせると、負けん気の強い一八、また「朝飯前」だと嘯く。が、もちろんやってみるとうまくいかない。

そこで旦那が趣向を凝らし、取り出したのが小判三十枚。
煎餅を放る人がいるんだから、それより重量のある小判ならうまく放れて面白いだろうと。
そんなもったいないことを、と止める一八を無視して旦那は投げ続けます。
小判が惜しい一八は自分を的にしろと叫ぶが、旦那は三十枚全てを投げきってしまう。

さて、投げてしまった小判はどうするか。旦那は「あんなものは惜しくない。取りたきゃ取れ」と言う。
そう言われては取りに行くしかないが、そこは崖っぷち、狼もうろうろしているというし、そう簡単に降りてはいけません。
そこで、傘を落下傘代わりにして飛び降りるというもの。皆が見つめる中、なかなか飛び降りられない一八を見て、旦那が繁造に「後ろから突け」と命じ、一八は無理矢理下へ落とされるます。

さて、崖を降りた一八、目の色を変えて小判を集めはじめます。全ての小判を拾い終えた一八に
 旦那「皆貴様にやるぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「どうやって上がる」
困った一八に、旦那は「先に行くぞ」と薄情な言葉を残します。

さて弱った一八、突然服を脱ぎ、脱いだ服を裂き始める。どうしたどうしたと旦那達が見守る中、裂いた布で縄をよって、竹をしならせ、その反動でどうにかこうにか崖上へ無事上ることができました。

上にたどりついた一八に、
 旦那「偉いやつだね、貴様は生涯屓にするぞ」
 一八「ありがとうございます」
 旦那「金はどうした」
 一八「あ、忘れてきました」

【演者】
やはり八代目文楽師が抜きん出ていますね。志ん朝師も良かったですね。白黒ですが映像が残っています。

【注目点】
東京では下男の繁造が登場しますが、上方ではふたりとも大阪を食い詰めて京都にやって来た幇間と言う設定です。
そこで、この二人によって、京都の悪口が始まります。大阪と京都の対抗意識が底辺に流れています。
この辺は東京人にはその対抗意識と言うのが正直良く分かりません。(^^)

『能書』
上方版では小判は20両で、それも一気に投げて仕舞います。勿体無いと思うのは私だけでしょうか?
それと、一八が登る時に口ずさむ歌が違います。
東京は、『コチャエ節』で、上方は、『梅にも春』です。

『ネタ』
この噺の嘘は、京都の「愛宕山」ではかわらけ投げは行われていないと言う事です。
同じ山系に属する高雄山の神護寺で行われているそうです。
江戸でも王子の飛鳥山、谷中の道灌山で盛んに行われました。
志ん朝師はこの噺を演じる前に、香川県高松市の屋島で実際にかわらけ投げをおこなっています。
愛宕山にも一門で登っています。

黄金餅はなかった!

f0cd4883『黄金餅』
 やっと桜が咲き始めましたね。都心は満開などと言っていますが上野や墨田は五分咲きですね。人は多かったですが……。そこで今日は時期的に少し早いですが「黄金餅」という噺です。

【原話】

三遊亭圓朝師の創作と言われています。かなりダークな噺ですが古今亭志ん生師が言い立ての道中付けを入れて今のような飄逸味溢れる噺にしました。

【ストーリー】
下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居ました。
隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやりますが、家に帰れと言います。
隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまいます。
 その後、急に苦しみだしてそのまま死んでしまいました。
金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと考えます。
 長屋一同で、漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、
あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。

何とか麻布絶口釜無村の木蓮寺へ着きます。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれ言い返して仕舞います。
 桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持って来て、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまいます。

 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。

【演者】
 これは志ん生師に止めをさすでしょう。道中付けは聴いていても楽しくなりますし、談志師が言い立てを一旦言った後に現代の道順に替えてもう一度言い直した高座がひかります。それでも志ん生師を越える高座は出ていないと思います。

【注目点】
この噺は、幕末を想定しているそうですが、金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを感じさせてくれます。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったそうです。
谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたりで、明治になって「万年町」と名前が変わったそうですが、凄まじい貧乏な町だったそうです。
一方の麻布も江戸の外れで当時の人は行きたがない所だったとか、
絶口釜無村とは架空の地名ですがこれも貧乏を強調していますね。
これでもかと貧乏を強調することで、逆に貧乏を笑い飛ばしてしまうと言う趣向ですね。
さすが志ん生師の噺だと感じます。

『能書』
この噺の眼目は、金兵衛が最初は普通の人間だったのが、西念のお金を見てから人格が変わって行く所ですね。その点に注目してください。笑いも多いですが、本当は人間の本質を描いたかなり怖い噺なのです。それを志ん生師が面白く変えたのですね。
ちなみに「黄金餅」という餅菓子は実際は無かったそうです。

『ネタ』
道中付けと並んで楽しいのが、木蓮寺の和尚のいい加減なお経です。
「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。
虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。」
「なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。
アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」
と言う実にいい加減で楽しいお経です。
でも圓朝全集ではちゃんとしたお経が書かれています。志ん生師はそれでは面白くないと考えて改変したのでしょうね。

 桐ケ谷の焼き場(斎場)は今でもあります。東京博善社という会社が行っています。
博善社は都内各地にありますが、落合の斎場は皇室の為の特別な場所があります。一般人は入ることが出来ません。
 それと落合は「らくだ」という噺にも出て来ますね。

「長屋の花見」を聴きながら東西の文化の違いを考える

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『長屋の花見』

【原話】
元々は上方落語の演目で「貧乏花見」です。それを明治37年ごろ、三代目蝶花楼馬楽師が東京に移し、明治38年3月の、日本橋常磐木倶楽部での第一次の第四回落語研究会に、二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。
これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

【ストーリー】
雨戸まで外して焚き付けにするという貧乏長屋の店子連中に大家さんからの呼び出しがかかります。
すわ、店賃の催促かと思いのほか「そうじゃあない。花も見頃、今日は貧乏を追い出すために皆で花見に行こう」と大家さん。

酒も肴も用意したというので、店子連中は「花見だ花見だ」「夜逃げだ夜逃げだ」などといいながら上野の山へ向かいます。
満開の桜がならぶ上野の山。店子連中は、毛氈とは名ばかりのむしろを敷いて、物乞いの真似をしようとしたり、ほかの花見客が落とした食べ物を拾おうとしたりの大騒ぎ。
そのうちに、大家さんが用意した酒と肴で宴がはじまるが、じつはこれ本物ではありません。
お酒は番茶を水で割ったもの。かまぼこは大根の漬け物で、卵焼きは沢庵という始末。
「かまぼこ」を薦められた店子は「ちかごろ歯が弱くなったから食べづらい」とこぼしたり、「卵焼き」を食べようとする店子は「尻尾じゃないところをくれ」などと言い出す始末。
薄い番茶を「灘の酒」に見立てて飲み出すが、アルコール成分がないから酔おうにも酔えません。
そのうちに「灘の酒」を飲んでいた一人が、変なことを言い出します。
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるかい?」
「酒柱が立ちました」

【演者】
柳家を初め多くの噺家さんが演じています。寄席でも時期になりますと必ず掛かる噺です。

【注目点】
上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、
江戸と違うところですし、持っていくごちそう?や酒?も自らが誂えて持って行きます。
この辺に江戸と上方の考えの違いが現れていると思います。

『能書』
どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる花見かな」の珍句は入れますが、これは馬楽師が考案したくすぐりです。
馬楽--四代目小さん--五代目小さんと受け継がれていった噺です。
今でも柳家始め多くの噺家さんが演じています。

『健二のネタ』
この噺の問題点は舞台を上野としている処ですね。
江戸時代は上野の山は寛永寺の敷地内だったので、花見と言っても飲食や歌舞音曲は禁止です。(どうも座って花を眺めるぐらいは許されていたそうです)
完全に許されたのは明治からですので、明治期とするかですが、この辺りは、余りうるさく言わないで、噺を楽しんだ方が良いですね。
昔のお客は、飲食や歌舞音曲が許されていた向島や飛鳥山じゃ臨場感に乏しいと感じたのでしょうね。

「考察」
このほか、上方のサゲを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎを馴れ合い喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって
「ちょっと踊らしてもらおうと」
「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」
「酒のお代わりを持ってきました」
とサゲる噺家さんもいます。

「私見」
今現在東京で演じられている古典落語のかなりの数が上方から輸入されたものだとは皆さんも御存知だと思います。
場所などを変えてほとんど同じにした噺もあれば、かなり変えている噺もあります。
この噺もかなり変えている訳でして、その違いが東西の笑いの考えの違いになっていると思います。
あくまで個人的にですが、総じて上方落語は理論的だと言う事です。言い換えると理屈っぽい感じがします。
つまり、設定に曖昧な所が余り無く、噺の筋が理論立っている事です。この噺の場合も長屋の連中から自発的に花見に向かいます。だから持って行く物(大根や沢庵、お茶け)にリアリテイがあります。
一方江戸では、そこら辺は余り重要視されません。この噺でも大家さんから花見に誘います。理由も何となく曖昧です。だから大家さんなのにお酒も用意できないのはちょっと疑問でもあるのですが、そこら辺は江戸では重要視されないのです。あくまでも花見に行った先での行動に視点が移っています。
 この噺を聴きながら東西の文化の違いも見えるのが面白いですね。

「花見の仇討」を考える

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来週には桜の開花も予想されている今日この頃です。そこで今回は「花見の仇討」を取り上げます。花見の噺には「長屋の花見」という名作もあるのですが、これは本格的に解説すると哲学的になってしまうので、こちらにします。簡単に言うと「長屋の花見」は上方の「貧乏花見」を移植したものですが、噺の立脚そのものが東西で違っておりまして、これが東西の暮らしの哲学に関わる問題に発展しますのでブログでは取り上げるのは今年は控えさせて戴きます。

【原話】
明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬師が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬師が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

【ストーリー】
仲の良い三人が上野のお山に花見に行くのですが、その趣向を考えていて、一人がいい案が浮かんだ様です。
「仇討ちの芝居をやって受けようじゃねえか、筋書きはこうだ。」
 二人の巡礼が上野の山で親の仇に出会って
「やあ珍らしや、お主は親の仇、尋常に勝負しろ」
「何をこしゃくな、返り討ちだ」
 と仇討ちの果し合いを始める。
 競り合っているところへ、六部が仲裁に入り、お芝居だったと明かすって寸法だ。と話がまとまります。

 花見の当日、四人がそれぞれ、敵役の浪人、巡礼二人、六部の役に別れて、現場で落ち合うことになりました。
 ところが、六部役の男が上野の山へ上ろうかという時に、うるさ型の叔父さんに捕まって説教を食らい、家に連れて行かされ、酒を飲まされて寝てしまいます。
 一方、巡礼には途中で話の成行きで、助太刀の侍が着いてしまったから、話が更にややこしくなって仕舞いました。
 筋書き通り果し合いを始めましたが、いつまで経っても六部の仲裁が入りません。場が持たなくなった三人が揃って逃げ出すと、助太刀の侍が
「逃げるには及ばない、勝負は五分だ」
 と言いますが三人は
「勝負は五分でも肝心の六部が来ない」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。三代目金馬師や三代目三遊亭小圓朝師も良かったです。
個人的には桂文朝師が好きでした。

【注目点】
柳家と三遊亭系は舞台を上野でやってます。古今亭系は飛鳥山が多いですね。
江戸時代、遊興が許されていたのは、向島と飛鳥山です。
ここで疑問、なぜ向島で演じる噺家さんがいなかったのだろう?
まあ、当時の都心から上野以外は離れていました。
飛鳥山は一日がかりの行楽地であった訳で、向島は通常は船で行く所。
そうすると叔父さんの話や何かで、噺にボロがでて、辻褄が合わなくなる恐れがあります。
それに明治になると上野の山でも遊興が許可されたので、設定を作り直したのでしょう。

『能書』
八代目正蔵師匠も飛鳥山で演じていました。
明治になって敵討ちが禁止になり、舞台がどうしても江戸時代限定となりました。
上方落語では「桜ノ宮」と言います。
騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、
浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。
五代目笑福亭松鶴師が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴師や桂米朝師に伝わりました。

『ネタ』
 江戸時代は今よりも花見で色々なパフォーマンスをするのが多かったようです。今はカラオケなんか電源を用意してする人もいますね。
噺の中の「六部」とは、六十六部の略で、法華経を六十六回書写して、一部ずつを全国の六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者のことで、室町時代に始まったそうです。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者もこう呼んだそうです。
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