はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

今日はね、ちゃんとやりますよ! あたしは

「お茶汲み」という噺

130305tya-w960『お茶汲み』
今日はこの噺です。季節的には春か秋の噺だと思うのですがね。

【原話】
上方落語の「涙の茶」を東京に移入したものです。その元は、狂言の『墨塗女』と言う事です。
この狂言の「黒塗女」から、「黒玉つぶし」と言う噺が出来、そこから墨をお茶に変えて「涙の茶」と言う噺になり、
これを初代小せん師が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに描写し、現行の東京版「お茶くみ」が完成しました

【ストーリー】
吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしています。
今で言う、サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」(安大国と言う説あり)という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したのですが、女は松つぁんを一目見るなり、アレーッと金切り声を上げて外に飛び出しました。
仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたというのです。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になり、噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたのだそうです。
 そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めたそうです。
 それからは、清さんに手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
 という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリと来なくなったので、人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。
 苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に・・・

 でも、どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたのですが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第とか。
「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
 と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロが出来ています。
「よくよく眺めると、涙の代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」
 馬鹿にしやがる。と怒っています。
 
 これを聞いた勝ちゃん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、早速、その紫花魁を指名。
 女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出します。
「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあこうだ。花魁聞いてくれ。
 おらあ静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

 勝さんがいい調子で喋って、涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

【演者】
小せん師から志ん生師に受け継がれて、志ん生師は客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。
「初会は使わないが、裏は使うよ」等と言うセリフは志ん生師ならではと云われています。
無論、志ん朝師も演じていました。

【注目点】
本家の「黒玉つぶし」の方は、東京で上方落語を演じた芸協の小文治師が得意にしていたそうです。、

『能書』
そら涙というのは昔から随分流行ったらしく、歌舞伎の「義経千本桜」にも登場します。これがこの噺と同じく、お茶を目につけて波涙に見せるというものです。花魁はその辺りを理解していたのですね。

『ネタ』
登楼して最初を「初会」二度目を「裏を返す」と言ったのはご存知かと思いますが。見識のある見世ではここまでを「お見合い」と称して盃事だけで客を帰したそうです。
あんまりだ〜!

落語とわたし

016fa7b9-s 定期購読してる演芸情報誌「東京かわら版」の最初のページに「落語と私、私と落語」というページがあります。色々な有名人が自分と落語との係わり合いを語っています。それを読んで自分も書いてみたいと思うようになりました。
 そこで自分なりに落語との係わり合いを書いて見る事にしました。

 物心ついた時には戦後最大の演芸ブームの真っ只中でして、毎日演芸番組が放送されていました。落語だけではなく、色物の芸人さんも多くがテレビで見ることが出来ました。
 その中で一番人気者だったのが、林家三平師と三遊亭歌奴師でした。個人的にですが当時のわたしは断然歌奴派で、毎日のように「授業中」「浪曲社長」「給料日」などを聴いて腹を抱えて笑っていました。その中で特に好きだったのが新大久保の駅員時代の噺で、その頃の歌奴師は吃音で駅名が中々言えず、やっと言えたと思ったらもう電車は新宿に着いていたというホントかウソか判らないトボけた噺が好きでした。
 というのも、当時のわたしも吃音で、噺の中の出来事に共感したからです。しかも、二代目圓歌師に入門したのは、自分も吃音で苦労したので、吃音なのに平然と落語を語っている圓歌師が素晴らしく感じた。という事を知って益々好きになりました。
 あの頃は本当に落語家がテレビに出ていました。圓歌師、三平師の他にも芸協の小圓馬師、伸治師、米丸師、笑三師などが人気者でした。落語協会では馬之助師の他に、四天王の志ん朝師、柳朝師、圓楽師、談志師が良く出ていました。
 特に日曜は最高で、正午に「大正テレビ寄席」を見て色物さんを楽しみ、NETと読んでいたテレビ朝日の「末広珍芸シリーズ」を見て、その後NHKでも落語の番組をやっていたと思います。それが終わるとテレビ東京が浅草演芸ホールから中継がありました。
 夕方まで演芸で楽しめましたね。その後夕方に「笑点」が始まります。当初は大喜利よりも演芸の方がメインでした。
 演芸番組の他にも、クイズ番組等あらゆる番組に噺家や芸人が出ていたと思います。
 毎日のように見てるうちに寄席に行きたくなりました。両親にねだって、新宿の末広亭に連れて行って貰いました。(尤も両親に言わせると改築前の鈴本にはかなり連れて行ったそうです)
 談志師ではないですがホント夢の世界でしたね。テレビでしか見られないと思っていた噺家や芸人が目の前に次から次に登場する。それだけでもう寄席が好きになりました。
 演芸ブームが下火になると親にねだって寄席に連れて行って貰いましたが、そうそうは連れて行ってくれません。中学に行く頃になると鈴本に一人で行くようになりました。上野は家からだと電車で一本で15分もあれば着きますので行きやすかったのです。それに鈴本は昼夜入れ替えなので昼の部が終われば家に帰らなくてはなりません。これが入れ替えの無い浅草や末広なら夜まで居続けたでしょうね。その点で親も許してくれたようです。
 志ん生、文楽には間に合わなかったけど、圓生には間に合ったし、小さん師、四天王は堪能したし、大人になってからは小三治師の伸び盛りも楽しめたし。まあ、悪くはないかも知れません。でも一番好きだったのは桂文朝師です。さりげなく演じる所が良かったですね。上手いのにそれが自然な感じ。そこが良かったです。つくづく早世が惜しまれます。
 これからも寄席には通うでしょう。新しい人を発見するのも楽しみです。

「胴切り」という噺

0b2751c1『胴切り 』
今日は「胴切り」という噺です。
これは東京では「首提灯」等のマクラで簡単に語られていますが、上方ではきっちり一席の噺となっています。
代々米朝一門の噺だそうですが、東京では歌武蔵さんが演じています。

【原話】
上方落語でして、東京には三代目圓馬師が移植しました。

【ストーリー】
すってんてんになった男が酒の勢いも手伝って、道を聞いた田舎侍にからみ、悪態をついたあげく、かーっと、痰をはきつけました。
怒った侍、「許さんぞ、そこ動くな。エイッ」と腰をひねると、ずばーっとみごとな胴斬り。

切られたほうは、胴体がポーンと用水桶の上に載って、足だけが、ひょこひょこ、むこうに行ってしまう。
斬られた男のよめはんが、家に連れ帰られた二つになった亭主をみながら、
「この人五体満足でも食いかねてるのに、これからどうしたらええのやろ、」
と心配するのを、世話好きの友達が就職口を世話してくれます。

上半分を風呂屋の番台に、足だけを麩屋の麩踏みの職人として奉公させます。
麩を作るとき、ひたすら脚で麩を踏むのだ。それぞれに適所適材で、
双方の雇い主からも大いに重宝されたました。

兄貴分の勧めに従い就職し、しばらくの時が過ぎた頃、兄貴分が様子を伺いに行くと、
銭湯、蒟蒻屋ともに「いい人を連れてきてくれた」と重宝している様子です。
ただ、働いている当人たち曰く、
上半身「近頃目がかすむから、三里に灸をすえてくれ」
すると、下半身は
「あまり茶ばかり飲むな、小便が近くていけねえ」

【演者】
色々な噺家さんが演じています。東京では特に三遊亭歌武蔵師が得意にしています。
三代目小圓朝師も演じていました。
【注目点】
この噺で不思議なのは、下半身がどういう風にしてはなしをしたのか?
という事ですが、噺家によっては危ない描写を入れる人もいます。
どういうのかって・・・それは想像してください。
下半身で口がきけそうな処ですww

『能書』
江戸時代、諸大名の蔵屋敷が軒をつらねていて、諸国の侍がうろうろしていました。
町方の手のはいりにくい蔵屋敷の中間部屋が、ばくち場になっていたそうです。

『ネタ』
落語でなければ出来ない噺ですね。この噺や「首提灯」等剣術の達人が出てきますね。
刺されたり切られた方に伺うと、その時は「ひやっと」するらしいですね。
私も包丁で結構派手にあちこち切っていますが、その時は痛く無いですね。
次の瞬間それなりに痛くなってきますが……。
特に五代目小さん師がこのような噺を演じると切るシーンが凄かったですね(気合とか)

「転失気」という噺

tensiki1『転失気』
今日はこの噺。秋の噺の確証はありませんが、なんとなくそんな雰囲気がしますので。

【原話】
かなり古くから演じられている前座噺です。成立はよく判っていません。

【ストーリー】
あるお寺の和尚さんが具合が悪いので医者を呼びます。診察した後で医者が
「和尚、転失気はおありかな?」
 そう尋ねます。和尚は判りませんでしたが「ありません」と答えてしまいます。医者は
「そうですか、それではお薬を出しておきましょう」
と言って、後で薬を取りに来るようにと言って帰ってしまいます。
和尚は自分が知らなかった「転失気」の事が気になって仕方ありません。
そこで小僧の珍念に雑貨屋に行って「てんしき」を借りて来い、無ければ花屋のところへ行くように言いつけます。珍念が雑貨屋に行くと、売り切れてないという。花屋へ行くと、味噌汁に入れて食べてしまったという返事。
困った珍念は寺に帰って珍念は和尚に「てんしき」の意味を聞くが、和尚は自分が教えたのではすぐに忘れてしまうから、医者に薬をもらいに行ってその時に聞いてくるように言います。
そこで医者に訊くと何と「おなら」の事だと教えられます。
驚きながらも、なるほどと納得し、和尚も雑貨屋も花屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたのだと判ります。
 寺に戻った珍念は、和尚に、「てんしき」とは「盃」のことでしたと和尚に話します。和尚も、「そうだ、盃のことだ、呑酒器と書くのだ、よく覚えておけ、と言います。
もう珍念はおかしくなってしまいます。
その後医者が来た時に和尚は
「転失気はありました」
 と言います
「それは良かった」
 と医者が言いますが和尚は
「今日は我が寺に伝わるてんしきを、用意してありますので、お目にかけます」
 そういうので医者は驚き
「いやそれには及びません」
 と言うのですが、和尚はむりやり秘蔵の盃を見せます
「ほう医者の方では『転失気』はおならの事を言うのですがお寺では盃の事でしたか」
 と感心します。和尚はここで珍念に騙されたと知りますが後の祭り。そこで仕方なく
「盃を重ねますと、しまいいにはブーブー音が出ます」

【演者】
かっては三代目小さん師が演じ、三代目金馬師が演じていました。
今では殆の噺家さんが演じます。

【注目点】
今では余り演じられませんが、本来は隠居の所にも訊きに行くのですが、
金馬師のバージョンでは出てきません。そのかわり他の部分(花屋さん等)で笑わせています。

『能書』
傷寒論(しょうかんろん)とは、中国・後漢の名医・張仲景が著した古医書です。
江戸時代では漢方医学のもっとも一般的な本でした。

『ネタ』
この「傷寒論」の中に屁の事を「気を転び失う」と出て来るそうです。
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