はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

今日はね、ちゃんとやりますよ! あたしは

「九州吹き戻し」という噺

d3075e38『九州吹き戻し』
時候柄この噺を取り上げます。被災された地域の皆様にお見舞い申し上げます。

【原話】
原話や、成立過程などはいっさい不明だそうです。
記録上は。、初代志ん生師(1809-56)が得意にしていたそうです。
おそらく、天保の頃だと思われます。
その志ん生師も、鈴々舎馬風師から金千疋(約二両二分)で譲ってもらったというので、起源はかなり古いと思われます。
圓朝師がこの志ん生師の噺を聴き、「自分にはとても出来ない」と言ったそうです。
その後、三代目円馬師が大正期に高座に掛けて、得意としました。
他に初代小せん師が演じ、戦後では四代目円馬が師匠譲りで持ちネタにしていたそうです。

【ストーリー】
あまりの放蕩三昧で勘当された、元若だんなのきたり喜之助ですが、それならいっそ、
遊びのしみ込んだ体を生かそうと幇間になりましたが、金を湯水のごとく使った癖が抜けず、
増えるのは不義理と借金ばかりです。
これでは江戸にいられないと、夜逃げ同然に流れ流れてとうとう肥後の熊本城下へやってきます。
 一文無しなのでどこも泊めてくれず途方にくれていると、「江戸屋」と云う看板が目に止まります。
その名前に懐かしくなり、上がり、酒、肴を頼んで飲み食いすると寝て仕舞います。
 翌朝、声を掛けられて起きてみると、昔なじみで、湯屋同朋町にいた大和屋のだんなです。こちらも江戸をしくじり、地へ流れ着き、今ではこの旅籠の主人です。ここは、地獄に仏とばかり、だんなに頼んで板場を手伝わせてもらい、時には幇間の「本業」を生かして座敷にも出るといったわけで、客の取り持ちはさすがにうまいので、にわかに羽振りがよくなりました。こうして足掛け四年辛抱して、貯まった金が九十六両。
 ある日、だんなが、「おまえさんの辛抱もようやく身を結んできたんだから、あと百両も貯めたらおかみさんをもらい、江戸屋ののれんを分けて末永く兄弟分になろう」
と言ってくれたが、喜之助はここに骨を埋める気はさらありません。日ごと夜ごと、江戸恋しさはつのるばかりです。
 どうしても帰りたいと話すと、苦笑しながらも、まあ、そんなに帰りたければと、
親切にも贔屓のだんな衆に奉賀帳を回して二十両余を足し前にし、餞別代わりに渡してくれました。
 出発の前夜、夢にまで見た江戸の地が踏めると、もういても立ってもいられない喜之助、
夜が明けないうちに江戸屋を飛び出し、浜辺をさまよっていると、折よく千五百石積の江戸行きの荷船の船乗りに出会いました。
 荷船に客を乗せることは天下のご法度だが、病気のおふくろに会いに行くならいいだろうと、特別に乗せてもらうことになりました。
 途中までは良い天気で順調だったのですが、玄界灘にさしかかるころ、
西の空から赤い縞(しま)のような雲が出たと思うと、雷鳴とともにたちまち大嵐となります。帆柱は折れ、荷打ちといって米俵以外の荷は全て海に投げ込み、一同、水天宮さまに祈ったが、嵐は二日二晩荒れ狂うと言うものすごさ。
 三日目の夜明けに打ち上げられたのが、薩摩の桜島で、江戸までは四百里、熊本からは二百八里。帰りを急ぎ過ぎたため、百二十里も吹き戻されたという話。

【演者】
最近では談志師が復活してCDなどでも聞くことが出来ます。
また、落語研究会で五街道雲助が熱演したり、菊志んさんが自分の勉強会で掛けたそうです。
談志師の弟子の談春さんが師匠ゆずりで高座に掛けています。

【注目点】
初代志ん生はこの噺を作り上げる為に銚子に出向いて暫く過ごして本当の海を知らない江戸っ子に海の怖さを噺に取り入れる工夫を考えたそうです。

『能書』
江戸時代は幕府の命令で三千石以上の大型船は軍用にするのを防ぐ意味もあり、建造は許されませんでした。
その為世界のトップクラスだった造船技術も遅れる事になります。

『ネタ』
噺を聴くと、大河ドラマみたいな感じがしますね。
三遊宗家の藤浦さんがこの噺の脚本を談志師匠の為に書いたそうです。
それを元に演じてるのだと思いますが、どうなんでしょう?
私は前半が、「居残り」みたいで好きになりました。
後半の嵐のシーンがなんか付け足しの様な気がしましたね。
うがった聴き方ですかね。

「もう半分」という噺

o1228089614087255223『もう半分』
暑いのでたまには涼しくなる噺を取り上げます。そこで、「もう半分」です。

【原話】
興津要さんの説によると井原西鶴「本朝二十不孝」巻三の「当社の案内申す程をかし」とのことですが、
明確ではありません。

【ストーリー】
 千住大橋の橋のたもとに、夫婦二人きりの小さな酒屋がありました。
こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。
その夜も、このところやって来る棒手振りの八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていきます
 この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。
薄気味悪いが、常連なので相手をしています。
 ある日、爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、五十両入りの包みが置き忘れてある。
「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。
「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。
ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。
爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。あたしにまかせておおきよ」
 そう女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、言いなりになります。
そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んで来ます。
女房が「金の包みなんてそんなものはなかったよ」
と言っても、爺さんはあきらめません。
「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」と泣いて頼んでも、
女房は聞く耳持たず追い返してしまいました。
 亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、
すでに遅く、千住大橋からドボーン。
身を投げてしまった。その時、篠つくような大雨がザザーッ。
「しまった、悪いことをしたッ」と思っても、後の祭り。
いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。
顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。
それがギョロっとにらんだから、
女房は「ギャーッ」と叫んで、それっきりになってしまいました。
 泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、
奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つきません。
何人目かに、訳を聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」と言うのです。さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、
行灯から油皿をペロペロ。思わず
「こんちくしょうめッ」
と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て
「もう半分」

【演者】
近年は志ん生師や今輔師が演じていました。
また、三代目三金馬師、十代目馬生師も演じました。
最近では小三治師や雲助師を始め多くの噺家さんが演じています。雲助師は舞台を本所林町に、
志ん生師は舞台を千住大橋で、その他は永代橋で演じています。
どちらも町外れと言う事ですね。

【注目点】
演出の違いとしては、
永代橋版では酒屋の女房が妊娠するのは爺さんの自殺から数年後ですが、
千住大橋版では話の開始時にすでに臨月で直ぐに生まれます。
子供は永代橋版では女の子ですが、千住大橋版では男の子です。
等、細かい処が違っています。

『能書』
雲助師は亭主がお金欲しさに直接お爺さんを殺すと言う演出をしていますが、
これだと怖さの質が違って来ますね。
着服してしまった……と言う自分の良心に訴える気持ちが変わって来て確信犯となって仕舞います。
違う演出があるのは良いのですが、怖さの質や人間の感情に訴えるという面ではどうなのでしょうか。そんな事を少し感じました。

『ネタ』
志ん生師はやや人情噺風に演じています。
方や今輔師は本格的な怪談噺として演じています。
それが面白いですね。
千住には近年までやっちゃ場と魚河岸と両方ありましたが、やっちゃ場は花畑へ移りました。
今では魚河岸だけがあります。





追伸……桂歌丸師がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。その上で個人的にですが、師は新作派からの転向でした。最初から古典を演じていたなら圓朝作品でももっと演じる事が出来たのではないでしょか。それが惜しまれます。きっと圓生師や正蔵師、志ん生師などの名人と同じようにその真髄を見る事が出来ていたと思うのです。だから最後まで現役を貫いたのだと思っております。

七月になりました! この噺「船徳」

33cda358 え〜七月になりました! そこで今回は名作とも言える「船徳」です。

『船徳 』
 八代目文楽師で余りにも有名な夏の噺ですね。もう演じる噺全てが十八番と言っていた師ですが、特にこの噺は有名です。
晩年は体調不良でこの噺を演じるのを医者に止められていたのにもかかわらず「落語研究会」で演じたので、高座を下がってから暫く安静にしたいたそうです。白黒ですが映像に残っていますね。

【原話】
元は、「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松の「曽根崎心中」の登場人物の名を借りた長編の人情噺だったのですが、明治期に初代(鼻の)圓遊師が発端を改作して、滑稽噺としました。

【ストーリー】
女遊びに夢中になり親族会議で勘当され、女の元にしけこんだ若旦那の徳さん。
金が無くなり、追い出されてフラフラ歩いている所を船宿の親方が引き取りました。
しばらく居候を決め込んでいたですが、船頭にしてくれと親方に頼みます。
もちろん親方は断るのですが、それなら他所でと脅かす始末で、結局修行を始めます。

教える方も教わる方もいい加減で、、根っからの優男なので、腕が上がりません。
四万六千日で、他の船頭が出払った日、馴染み客が来て、無理やり頼まれ船を出しましたが、
もやいを解かずに動かそうとしたり、一騒動です。
何とか出た途端に竿を流して慌てて櫓に切り替えると、同じ所をぐるぐる回り、
川辺の石垣にくつっけてしまいました。

お客の傘で押してもらったら蝙蝠傘が石垣に刺さって取れなくなります。
戻れと言う客に「戻れない!、諦めなさい、傘と命とどっちが大事か」と説得する始末。
 
どうにかこうにか桟橋の近くまで来た所で、客を降ろしたが、陸に上がった客が、大丈夫かと声をかけると
「すいません、誰か船頭を呼んでください」

【演者】
もう八代目文楽師を筆頭に色々な噺家さんが演じています。古今亭志ん朝師も文楽師に負けない高座を聴かせてくれます。皆さんも好きな噺家さんで聴いてみて下さい。

【注目点】
やはり船の上の徳さんと川岸に居る人との会話の描写だと思います。距離が離れているので演じ方が難しいです。

『能書』
船宿大升は柳橋で、神田川と隅田川が合流する辺りです。
目的地の大桟橋は、、榎本滋民氏によると待乳山聖天の側にある今戸橋の手前にあったそうです。
鼻の圓遊師の速記には、徳さんの実家は夫婦養子を取る事になりそれに家業を継がせるという事を人づてに聴いたという描写があるので、船頭になる理由がうなずけますね。

『ネタ』
「四万六千日」とは、浅草寺に、この日参拝すると四万六千日分参拝したことと同じ功徳があるというご縁日のことです。本当にあるかは、判りませんw

志ん生師も「お初徳兵衛」で演じています。(船徳とは違いますが)
今ではほとんどの噺家さんが一度は演じているでしょうね。
志ん朝師も若い頃から自信のある噺だったそうで、結構高座に掛けたそうです。
「お初徳兵衛」ではこの後一人前の船頭になり、いい男なので評判になります。

「千両みかん」という噺

bb92b71c『千両みかん』
今日は「千両みかん」と言う噺です。夏なので少し早いですがね。このブログでは余り取り上げないので今年は取り上げました。

【原話】
松富久亭松竹の作と言われています。ですので純粋な上方噺です。
東京に入って来たのは戦後だそうです。

【ストーリー】
 大店の若旦那が病に倒れます。聞いてみると「みかんを食べたい」と言う。
大旦那からみかんを探せと命じられた番頭が、江戸中を探しますが、夏にみかんを売っている店はありません。
 ようやく、神田の「万惣」で一個みつけたが、千両だという値。毎年毎年、店の名に掛けて蔵一杯のみかんを保管している中の一個だからそれだけの価値があると。
店に帰って報告すると、「千両で息子の命が買えるなら安い」と言いすぐ千両の金を番頭にもたせます。
大旦那様から千両を預かり、みかん一個を買って若旦那に持って帰ります。
 若旦那は喜んでみかんを食べて元気になり、十袋のうち三袋を残した。番頭を呼んで、おとっつあんとおっかさんに一袋渡して欲しい、苦労を掛けたから番頭さんも一袋食ってくれと、みかん三袋を番頭に渡した。
 番頭は預かったみかんを持って考えた。来年暖簾分けでご祝儀をもらっても、四十両か五十両だが、ここに三百両ある。
考えた挙句、番頭はみかんを持って何処かに・・・・・・

【演者】
八代目正蔵師を始め、志ん生師などが有名です
【注目点】
上方からの輸入ですが、商人が絡んでる噺なので、あちらの方が理論的にしっかりした処があります。
上方では、最初は商人のプライドに掛けて只でも良いと言うのです。
それがこじれて千両になるのですが、そのくだりが自然で納得出来るのですね。
こちらの千両の話も分かりますが、ちょっと苦しいかなぁ〜と。
商人の心意気が強調された上方版と黄表紙などに出てきそうな粋な面を強調した江戸版と言う感じでしょうか。
米朝師匠のを聞いた事がありますが、
天満の青物市場の番頭さんと店の番頭さんの上方商人の意地が
ぶつかり合って、それは良いモノでした。
そう聞いてみると、この噺はやはり上方噺なのだなと思いましたね。

『能書』
志ん生師は神田多町の青物問屋としか言いませんが、
他の師匠ですと、神田の「万惣」に番頭さんが行きます。
わりとあっさりと千両の値が付きます。

『ネタ』
今でも、秋葉原から万世橋を渡り、須田町に入ると
神田方面に向かって左側に「万惣」はあります。
フルーツパーラーになっています。
子供の頃一度入って、パフェを食べた記憶があります。
昔はこの辺は布地屋さんが多かったんですよ。
母親が布地を買いに来た時だったのかな?
時代が違いますが、立花亭もこの辺にありました。
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