はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

今日はね、ちゃんとやりますよ! あたしは

「高田馬場」という噺

a5665f87『高田馬場』
今日はこの噺です。これ春の噺なんですね。

【原話】
1758年「江都百化物」の「敵討の化物」が源話です。
前半は「ガマの油」と同じですね。後半は一見敵討ちモノと思える様な展開ですが・・別名「仇討ち屋」とも言います。

【ストーリー】
浅草の境内でガマの油売りの口上を聞いていた老侍が、二十年前の古傷にも効くかと聞いて来ます。
昔、配下の奥方に懸想して、手込めにせんとしたところへ夫が戻り、これを切った。まずいと思って逃げたが、乳飲み子を抱いた奥方が投げた刀が背中に当たり、寒くなるとその古傷が痛む。名は岩淵伝内という。
これを聴いた蝦蟇の油売り、
「やあ、めずらしや岩淵伝内、その折の乳飲み子とは拙者のことなり、親の仇、尋常に勝!」
「いや、今は所要の帰り道、役目を果たして明日改めて討たれよう、場所は高田馬場、時は巳の刻に」
 ということで双方が納得で別れます。本物の敵討ちが見られるとの噂が噂を呼び、翌日には高田馬場に大勢の見物人が集まります。
待つ間に酒を飲む、甘味を食べる、茶を飲むと茶店は何処も大賑わい。大変な賑わい様。
しかし、いつまで待っても仇討ちが始まらないので、近くの店に入ると、昨日の仇の侍が酒を飲んでいるではありませんか。
訳を聞いたら、仇討ちは人を集める芝居で茶店から売上の一部を貰う商売をしている。ガマの油売りは息子だと言われます。
「そうやって楽う〜に暮らしておる」

【演者】
これは三代目金馬師にトドメを指すでしょうね。最近では志ん朝も良かったです。l

【注目点】
噺の舞台を浅草の浅草寺境内から高田馬場に移すあたりが秀逸ですね。
臨場感が高まります。

『能書』
高田馬場は、寛永13年に旗本達の馬術の練習をする為に作られました。
 享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木が造られ、8軒の茶屋が有ったと言われています。
土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと。
また、ここは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社(西早稲田3−5−43)の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っています。

『ネタ』
三代目金馬師は圓馬師とドサ回りに出た時、金沢の浅野川の橋の袂で、ガマの油売りの口上に出会いますが
あまりにも下手なので、代わりに口上をやり小遣いを貰ったそうです。
後で圓馬師に「そんな事をやってはいけない」と叱られたそうです。

「花見小僧」という噺

130330_1005~02-1『花見小僧』
今日は「おせつ徳三郎」の上であるこの噺です。
後半の「刀屋」に比べて笑いの多い噺です

【原話】
末に活躍した初代春風亭柳枝師の作の人情噺です。
長い噺なので、古くから上下または上中下に分けて演じられることが多く、
小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎が暇を出されるくだりまでが「上」で、
別題を「花見小僧」と言います。
後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して独立して演じられています。

【ストーリー】
ある大店の一人娘の”おせつ”が何回見合いをしてもいい返事をしません。
それは”おせつ”と”徳三郎”という店の若い者と深い仲になっているらしいと御注進。
本人や婆やさんに聞いても話はしないだろうから。主人は花見の時期に娘と徳三郎にお供をした小僧から二人の様子を聞き出そうとします。
しかし小僧も利口者で簡単には口を開きません。
「子供の物忘れはお灸が一番」と足を出させ、宿りを年2回から毎月やるし、小遣いを増やしてやるからと、少しずつ口を開かせました。

 去年の春のことで忘れたと言いながら、白状するには、「婆やさんと四人で柳橋の船宿に行きました。
お嬢さんと徳どんは二階に上がり、徳どんは見違えるような良い着物を着ていました。
船に乗って隅田川を上り、向島・三囲(みめぐり)の土手に上がりました。その先は忘れました」
「そんなこと言うとお灸だ」 
 「それじゃ〜・・・、 花見をしながら植半で食事をしました。
会席料理で同じお膳が四つでました。みんなからクワイをもらってお腹がイッパイになったところに、『散歩しておいで』と婆やさんに言われましたが、お腹が苦しくて動けませんと言いました。
そしたら、お嬢さんにも怒られ、おとつぁんのお土産に『長命寺の前の山本で桜餅を買っておいで!』と言われました。
帰ってくると酔った婆やさんだけで二人は居ません。
『お嬢さんは”しゃく”が起きたので奥の座敷でお休みになっている』と言うので、行こうとすると『お前は行かなくても良い、お嬢さんのしゃくは徳どんに限るんだよ。本当に気が利かないんだから』
と言われ、『はは〜ぁ、そうかと』と、ピーンときました。

それから外に出て庭にいると、二人が離れから出てきました。お嬢さんは『徳や、いつもはお嬢様、お嬢様と言っているが、今日からは”おせつ”と言っておくれ』そうすると徳どんは『そんなこと言われても、お嬢様はお嬢様、そのように言わせてもらいます』、『おせつですよ』、『お嬢様ですよ』
なんて、じゃれあっていました」と、顛末を全てしゃべってしまいました。
 ご主人はカンカンに怒って、おしゃべり小僧には約束の休みも小遣いも与えず、徳三郎には暇が出て、叔父さんの所に預けられます。

ここまでが「花見小僧」でこの後、徳三郎がどうするかが「刀屋」になります。

【演者】
「花見小僧」は小さん師が演じていますし、「刀屋」は志ん朝師や圓生師等が演じています。六代目春風亭柳橋先生も演じていました。
志ん生師は「おせつ徳三郎」で演じています。
現役では柳家小満ん師ですかね?
今、話題の七代目正蔵師も演じていました。録音が残っています。

【注目点】
明治期の古い速記としては、原作にもっとも忠実な三代目柳枝のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)ほか、
「上」のみでは二代目(禽語楼)柳家小さん(「恋の仮名文」、明治23年)、
初代三遊亭円遊(「隅田の馴染め」、明治22年)、
「下」のみでは三遊亭新朝(明治23年)、初代三遊亭円右(不明)のものが残されています。

『能書』
当時、日本橋村松町と、向かいの久松町(現・中央区東日本橋一丁目)には
刀剣商が軒を並べていました。噺の通りでした。

『健二のネタ』
「お材木で助かった」という地口オチは、圓朝師の「鰍沢」と同じです。
もちろん、こっちが元です。
こうしたオチが沢山作られるほど、当時の、江戸には法華宗信者が多かったそうです。

「紺屋高尾」という噺

最近、落語界で世間が注目する出来事がありました。
圓楽一門会の好楽師が弟子の好の助さんに真打昇進を期に自分が名乗っていた林家九蔵を襲名させようとしたいた所、九代目正蔵一門から横槍が入り、急遽取りやめになったと言うニュースでした。
これについては、落語協会の噺家さんは概ね賛成のようです。他の一門でも賛成の方が大勢いらっしゃるみたいですね。
昨日(3月7日)テレビで、桂米助師が「八代目一門と九代目一門は別な系統の林家だと認識していた」と語っていました。
 私もそれと同じように思っていました。正蔵の名前は色々と変遷があり恐らくテレビのコメンテータでは理解出来ないと思います。正しい歴史が判らないのに安易なコメントは差し控えて欲しいと思いました。色々と想う事はありますが、一言だけ
「こぶ蔵は正蔵を名乗ってるならもっと稽古しろ! それと『あやめ浴衣』は八代目の出囃子だ。使うのをやめろ!」
 私事で申し訳ありませんでした。では今日の噺の話です。

d74051fd『紺屋高尾』
 色々と考えましたが今日はこの噺です。

【原話】
元の話は浪曲とも講談ネタとも言われています。それを圓生師が落語にしたモノです。
同じ系統の噺に志ん生師が演じた「幾代餅」があります。
八代目柳枝師が演じた「搗屋無限」も似た噺ですね」

【ストーリー】
神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまいました。
話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患いになり、錦絵を買い求めたのですが、全て高尾太夫に見える始末。
そこで、旦那は方便で、向うは売り物買い物、10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くと言われ、久さん元気になって働きます。
3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、まさか本気だったのかと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれる事になります。
お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う事になります。
蘭石先生に流山の大尽になりすま様に言われ、首尾良く高尾太夫に会えます。
挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」そう言われ、思わず「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。
久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。
夢うつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。
仲間内の小言も何のその、翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になります。

【演者】
やはり六代目圓生師にトドメを指すでしょう。今では三遊派だけではなく広く演じられています。
変わったところでは本来柳家の立川流では談志師を始め談春師などが演じます。
古今亭は流石に「幾代餅」ですね。(でもこの噺をしていた古今亭の人がいましたけどね)

【注目点】
有名な高尾太夫は諸説有るが11人いたそうです。
そのうち四代目が「反魂香」に出てきた「仙台高尾」でこの紺屋高尾は五代目だそうです。
子供3人をもうけて、八四才の天命を全うしたとのこと。

『能書』
吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いましたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、
享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなったそうです。
 太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。
文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴の楽器が出来て、歌が唄えて、和歌、俳諧、が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできたと言うスーパーマンですね。
逆を言えば、吉原の客が豪商や大名から庶民になって来て、必要が無くなってきたと言う事ですね。

『ネタ』
圓生師はここで噺を終わらせていますが、この先もありまして、
夫婦となって店を開いた久蔵と高尾が、商売繁盛のために考案したのが手拭いの早染め(駄染め)と言うもの。 浅黄色のこの染物は、吉原に繰り出す酔狂の間で大流行したと言われていいます。
「かめのぞき」と言う名が付いていますが、その由来は・・・・
「高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを見ていた客が、高尾が下を向いていて顔が見えないので争って瓶の中をのぞき込んだ」とも、あるいは瓶にあそこが写らないか覗き込んだとも・・・どっちでしょうね。(^^)

「猫の皿」という噺

猫の皿2『猫の皿』
今日はこの噺です。分類上は春の噺になるそうです。

【原話】
滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、?〜1841)が文政4(1821)年に出版した滑稽本「大山道中膝栗毛」中の一話です。もしかしたら鯉丈自身も高座で演じたかかも知れません。

【ストーリー】
果師 と呼ばれる古美術商。あるとき地方の茶店でとんでもないお宝を発見すします。茶店で飼われている猫の餌用の皿が、何と絵高麗の梅鉢の茶碗だったのです。
江戸の蒐集家にかなりの高値で売れると踏んだ古美術商、
茶店の親父が、その皿の真価などは知る由もなかろうと、言いくるめて、これを買い叩こうと企みます。
「ご亭主の飼い猫がどうにも気に入った、是非わたしに引き取らせてはくれないか」
ともちかけて、猫を三両で買い取ると、
「皿が違うと餌も食いにくかろう」
と猫の皿も一緒に持ち去ろうとする。すると亭主は古美術商を遮り、猫だけを渡して皿は取り返すと、店の主が
「これは絵高麗の梅鉢の茶碗でございますから」
そう言ったので驚いた古美術商が
「それを知っているのなら、何でその名品で猫に餌をやっていたのだ」と訊きます。主曰く
「はい、こうしておりますと、時々猫が三両で売れます」

【演者】
五代目古今亭志ん生師や三代目三遊亭金馬師がよくやったそうです。今でも小三治師を始め色々な噺家さんが演じます。

【注目点】
上方では故桂米朝師が初めて演じたそうです。師は「上方落語には古美術の名品が出て来る噺が余りなく、『はてなの茶碗』も本物では無い。噺の成立と言う点で違いがあるのかも知れない。と語っていました。

『能書』
舞台は江戸時代、で、当時、古美術商には果師 と呼ばれる連中がいて、
地方に出かけてお宝を見つけては所有者を言葉巧みに騙して安値で買い叩き、それを江戸に持ってきて今度は大変な高値で蒐集家に売りつけるという、ずる賢い連中の事で、そうそういっも上手く行く訳が無く、今回の旅では良いモノがありませんでした。

『ネタ』
この噺の演題は、志ん生師以前には、「猫の茶碗」が一般的でしたが、
絵高麗は皿なので、志ん生師が「猫の皿」に変えました。
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