はじめのブログ

落語好きの中年オヤジが書いてる落語日記

今日はね、ちゃんとやりますよ! あたしは

おいしい冬瓜がたべたい

8aafa402.jpg今日は、権太楼師匠の「占い八百屋」をうp。放送時はこのタイトルだったのです。でもCDには」「御神酒徳利」として出てますよね。ホントこの辺の関係が知りたいなあ・・・そのうち、ちゃんと調べて書きます。
明日は、圓生師の「蛙茶番」です。

この夏の異変。夏の野菜と言うと冬瓜ですね。夏野菜なのに冬の字を使うのは、冬まで保存できると言う意味です。
 皮を剥き種を取り、手ごろな大きさに切り、昆布と鰹節で取った出汁で弱火で煮ます。これに別に作っておいた”あん”を掛けて戴くのですが、
この”あん”は出汁に少し濃い目の味をつけておくのがコツで、中身は千差万別、ひき肉でも良いし、かに肉結構、海老をすり潰して入れてもOKです。また、椎茸、や銀杏でも秋らしくて良いですね。
 口の中に入れると、とろっとして、何とも最高の食感です。が、今年の
冬瓜は煮えるのに時間が怖ろしく掛かるのです。品が良くないか出来が悪いかですが、見た目は好いんですよね。
冬瓜大好き人間の愚痴でした。

於岩稲荷田宮神社と於岩霊堂・陽運寺

63da291e.jpg今日は医者に行った後、四谷にある於岩稲荷に行って来ました。
お席亭も行ったとの事なので、一度行ってみたかったのです。
妻もきょうは居ないので、この機会とばかりに行って来ました。
 下調べをして行ったので、簡単にいく事が出来ましたが、暑いのなんの
汗びっしょりになりながら着きました。
 写真の左上が”於岩稲荷田宮神社”です。閑静な住宅地の裏通りに場違いな赤い幟がはためいており、すぐに判ります。
その一角だけこんもりと樹木が生茂っており、中に入るとひんやりと
した空気が体を覆いなにやら神秘的な気が漂います。
お賽銭を上げ、健康と商売繁盛をお祈りしました。もちろんお詫びも。
脇を見ると、「お願いを紙にかいて、賽銭箱に入れて下さい」と書いてあるので、願いを書き別に賽銭を用意し賽銭箱に入れました。
その後、開運お守りを買って、向かいの於岩霊堂・陽運寺に向かいました。
写真の右上が陽運寺の本堂で左下がお岩さんの碑です。
こちらでも同じようにし、商売繁盛のお守りを買い通りへ出ました。そのとたん強烈な太陽の光が射し、熱風が体を覆います。まるで両方の敷地内だけ
霊気でも渦巻いている様な気がしました。
帰りは秋葉原でジャンク品なんかをみて廻り、くだらない物を買ってしまった。(マカフィーの3台用のセキュリテイーソフトが880円で売られていたなあー・・・本物みたいだったけど)
それにしてもSDカードの値下がりの激しい事、4Gで1000円ですよ・・
ああゆう所へ行くと昔に戻ってしまいますなあ。
 
それはそうとPCが不調なのです。コールドスタートの時、立ち上げて
3分位すると再起動するんですよね、その後は平気なんだけど・・・電源の
不調かな?交換して一年くらいなんだけどなあ・・・
もし暫く更新がなかったら、壊れたと思って下さい。

志ん朝師と小三治師

今日は更新が遅くなってしまいました。
いましがた仕事が終わったばかりなので、頭ん中が整理されていないどですが、不手際が一つ、去年の圓朝祭の奉納落語から、隅田川馬石師の噺をうpしたら、8/1付けで協会の落語動画がこれになっていました。トホホ。
MP4にして40Mに抑える為に色々やったのに・・・・

今日は、仕事の合間に生放送を楽しませて貰いました。良かったですねえ。
落語論では小三治、談志師と評論して、亡くなってしまった志ん朝師には
殆どふれていませんでしたね。チョット残念。そこで不肖私が少しばかり
書いてみましょう。あきれて読んでね。

志ん朝師匠の特徴は何と言ってもその、やや高く、テンポが良くリズミカルな江戸弁でしょう。って良く言いますが、江戸弁と言うより東京の東半分の日常使用している言葉だと思います。謳い調子を思わせるその言葉は、聞いている観客を官能の淵へと誘います。小三治師ほど情景を見せてくれる訳ではありませんが、それでも確実に江戸の世界へと誘ってくれます。
小三治師と違うのは、彼は言葉を切って間を作り、観客の創造力を掻き立て自分の世界へと誘い込みます。
 一方志ん朝師は言葉を切らず、繋いで観客に余計な間を与えずに官能の世界へと誘いこみます。
そして我々観客は志ん朝師匠と言うフィルターを通して、古典落語の世界を見る事になるのです。
聞き終わって、小三治師の高座からは何か重いモノが体に残ります。心地よい疲れの様な満足感でしょうかね。
志ん朝師の高座からは暖かく心地良い満足感が体を支配します。寄席の帰りに、夜道を急いでいると、少しずつ暖かさが逃げていきますが、それがとてもいとおしい気持ちになりますね。
 
まあむりを承知で書けば、小三治師が圓生型とすれば志ん朝師は文楽型でしょうかね。
お粗末ながらこんな事を書いてみました。
あした、圓歌師の「我孫子宿」をうpします。

落語論を読んで2

e9ec23b0.jpg夏休みで娘が、「友達が遊びに来るから、カレーを作って欲しい」と
私に言うじゃありませんか。母親に頼まず父親に頼む処が、我が家のいびつな関係を表していますな・・・
先日、「子供の頃、正楽師匠に切って貰ったピカチューは如何した?」
と聞いた処、「大事にしまいすぎて、しまった場所を忘れた」
と言い、「将来、子供が出来たら落語好きに育て、自慢して見せびらかして
やるんだ」と言っておりました。あー早く夏休み終わんないかな・・・
 
落語論で、小三治師匠の事を「客が自分もその世界に居るような錯覚を抱かせる」と言っていましたが、何回も高座に触れた身としては、「あれは錯覚だったの?」と言いたいですね。
 小三治師匠の高座は、長いマクラの間は”小三治ワールド”に入っても
たいした事はありません。他の噺家さんと大差はありません。そりゃ面白さは天と地位違いますが、本格的には錯覚は見ません。
しかし、一旦噺が始まると、回りの寄席の景色は消え、噺の世界に入って
しまいます。
たとえば、今なら「青菜」なんかを聞くと、自分が旦那の庭に居ると思ってしまうのです。旦那と植木屋のやり取りを庭の隅で聞いている自分がいるのです。
水を撒いた青々とした庭が眼前に広がるのです。
その点、CDやTV、ラジオで小三治師匠の噺を聞いても、錯覚までは見せてくれません。あってもライブに比べると弱いものです。
その意味では小三治師匠こそライブを体験しておかないと、本当の価値が
判らないと思います。
 まあ芸能はみんなそうですけどね。
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